島崎晋のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
歴史には昔から興味がありますが、最近では世界史、それも通史に興味があります。なぜ王朝や文明は栄枯盛衰を繰り返すのかという視点で見てきますが、切り口をパンデミックにしてみると、面白い見方ができるのかもしれないと最近思いました。
すると現在世界中にコロナが蔓延していますが、この数百年間西洋文明が栄えてきましたが、そろそろ東洋文明との抗体の時期に来ているのかもしれません。本当かどうかは不明ですが、コロナが蔓延して大変な思いをしている、米国や欧州諸国、コロナを抑え込んだとされる中国等、これから数十年後の人たちは、2020年頃を転換期だと思うのかもしれません。
この本では今までに起きた感染症を取り上げて、感染症が歴史上の出来事にどのように影響してきたかを解説しています。新しい見方ができるようになったと思いました。
以下は気になったポイントです。
・戦争とペストの二重苦に加えて、帝都での聖ソフィア聖堂の再建、イタリアの拠点であるラヴェンナでの建築事業が重なり国家財政は破綻の危機となった、その結果、ローマ市では総人口が500人にまで落ちこんだ、最古のペストが終息した6世紀末には地中海全体が疲弊し、人々が内陸部、北海沿岸へ移動し、現在の英国・フランス・ネーデルランドの成長に結びついた(P20)
・ユダヤ人に対する差別は、公職への就任禁止を最初として、居住制限、土地取得禁止、ギルドへの加入禁止に続き、1215年第4ラテラノ公会議では、永遠の隷属という罪の宣言もと、7歳以上の男女全てに、とんがり帽子と黄色い識別章の着用が義雨付けられた。中世のカトリックでは利息が禁止されていたので、高利貸しはユダヤ人の独壇場であった、ユダヤ教でも禁止であったが、相手が異教徒であれば問題なしであった(P29)
・西ヨーロパに限って言えば、1337年に始まる英仏百年戦争が終結した1453年と、宗教改革が本格始動する1517年が、中世と近世をわかつ一応の目安となる、そこに感染症が潜んでいた(P32)
・呼名のスペイン風邪は、スペイン発祥ではなく、戦時下の検閲で中立国であったスペイン出の流行ばかりが報道されたことによる(P43)
・ナイチンゲールは、化学的根拠を示ないまでも、清潔な環境維持、太陽光の取り込み、絶え間ない換気、密集・低温回避など、かなり的確な防止策を提示、実行していた(P63)
・アテナイ(アテネ)とスパルタの都市国家の戦いは、スパルタの勝利となったが感染症により衰退の道を歩むことになった。ギリシア全体の地盤沈下ともなり、中長期的にはギリシアに対するマケドニア覇権の下地を整えることになった(P78)
・264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、西暦2000年を贖罪の年として懺悔を行った、懺悔の必要のある行為として、ユダヤ人迫害・異端審問・人種差別とならぎ、十字軍遠征を挙げた、十字軍のもたらした益は、古代ギリシアの英知であった(P94)
・スペイン人が中米大陸に持ち込んだ感染症は、天然痘・インフルエンザ・麻疹・百日咳など多岐にわたるが、最も甚大な被害を及したのは天然痘であった。数万人の兵を動員できるはずのアステカが、数百人のスペイン人によって滅ぼされた、住民の3分の一が死亡、ユカタン半島であは1648年から3年間で、天然痘と黄熱病により飢饉が重なったせいもあり、半分が死亡した(P121)
・15−17世紀に及んだ大航海時代において北米大陸に感染症が広がり、マサチューセッツ湾には全滅した集落もあった、無人となった3年後、1620年12月26日にメイフラワー号が上陸した(P123)
・イングランドがスコットランドとの同君連合から合同へと転じて、国名をグレードブリテン連合王国としたのは、1707年である(P124)
・1775年に始まるアメリカ独立戦争に際して、アメリカ軍はカナダ領内にも侵攻、カナダ全域を併合しかねない勢いを示していたが、アメリカ軍内で天然痘が大流行して撤退した(P125)
・737年からの日本国内での天然痘の流行は、総人口の25−35%を死に至らせた、他領への逃亡数も含む(P150)
・インフルエンザウイルスの流行がやまないので、869年6月に改めて御霊会を実施した、当時の国の数と同じ66本の鉾をたてて、祇園(八坂神社)の神を迎えた。これが現在まで続く祇園祭の起源である(P152)
・幕藩体制を維持したままの近代化も不可能ではなかったが、孝明天皇の崩御(天然痘による)により消えた(P169)
・20世紀はアジア発の感染症が目立っていたが、2014年からのエボラ出血熱に見られるように、今後はアフリカ発の感染症が増えると推測される、急激な環境破壊により、人口爆発と都市化、森林の野生動物の減少が同時進行していることで、人間と野生動物の住み分けが破壊されつつあるのがアジア、アフリカの共通点である(P184)
2020年10月3日作成 -
Posted by ブクログ
歴代の覇権国家のあり方とその成功・失敗から学びたい人におすすめ。
【概要】
●覇権国家は必ず衰退する、その理由はイノベーションの妨げになる既得権益層の抵抗
●資本主義の欠陥が目立つ世の中、日本の選挙投票率の低さもその一つ
●植民地問題と移民問題
●宗教観、文化・文明、それぞれと覇権の関係
●生存圏を確保するための、先進国の廃棄食糧活用、富の再分配など
【感想】
●世界史から見える教訓と日本の問題点について理解できた。
●「過去の成功にも失敗にも学ぶ点はたくさんある。問題はその見極めと、現代社会にどう活用するかである」と書かれているが、見極めと活用に関し、著者の考えがあまり書かれていないのは残念だった。
●多くの書物やメディアを通じて、現在の日本に対する問題認識を整理することができる。中でも先進国での日本の投票率の低さが問題として挙げられていたが、この点は同意であり、日本にとって憂慮すべき問題だと思う。
歴史の失敗を現代社会に活用するためには、国民一人ひとりが選挙の投票に取り組むところから始める必要がある。ひいてはこれが政治の改善に繋がると考える。 -
Posted by ブクログ
島崎晋(1963年~)は、歴史関連の一般書を多数書いている歴史作家。
本書は、700万年前にアフリカで誕生した人類(猿人)が、現生人類(ホモ・サピエンス)となり、日本列島に定住して日本人になるまでを概説したものである。
人類進化の700万年の歴史について書かれた本は決して少なくないし、(私もこれまでいくつかの本を読んできて)本書の内容に特段新しい材料があったわけではないが、ある程度の推測を含みつつも、アフリカの猿人は大きな「5つの選択」を経て日本人になった、と思い切って整理し、説明したところに本書の面白みがある。
本書で示されている5つの選択は、①氷河期の時代に、アフリカから「今、出る」か「まだ残るか」、②生き残るのは「大きな脳」(ネアンデルタール人)か「コンパクトな脳」(ホモ・サピエンス)か、③「大陸に残る」か「海を渡る」か、④インドシナから先は「南」に行くか「北」に行くか、➄縄文人は渡来系弥生人と「戦う」か「同化する」か、である。
しかし、実際の人類の進化の歴史(+日本人となった歴史)は、その5つに限らず選択の連続であり、そして、その選択は当人たちには(選択をしているという)自覚がなかったはずであるし、その無意識の選択の結果も後になってみないとわからないものだったのであり、極論すれば、「選択の連続」は「偶然の連続」だったとすら言えるのかも知れない。
事実、10万年前の世界では、ホモ・サピエンスに加えて、原人の一部や旧人の一部から進化したと思われる、ネアンデルタール人、インドネシア(フローレス島)のホモ・フロレシエンシス、シベリアのホモ・デニソワ、台湾の澎湖人など、少なくとも6種の人類が確認されているにもかかわらず、現在生き残っているのは我々ホモ・サピエンスだけであり、これは人類学上最大の謎の一つとも言われている。
我々ホモ・サピエンスは、なぜ現在、地球の生態系の頂点に立っているのか、また、我々は、なぜ現在、(相対的にみれば)食住に恵まれた日本列島にいるのか。。。それは、あとから見れば「必然」であったと言えるのだろうが、そのときどきにおいては、間違いなく「偶然」であり、その積み重ねの結果なのだ。
しかし、進化したホモ・サピエンスは(日本人としても)、いまや自らの進む道を“能動的に”選択する能力を持つに至ったと言えることを考えると、人類(及び世界)は何処へ行くべきなのか、人類なりに責任をもって考えていかなければないと思うのである。(地球規模の自然現象については、人類の能力が及ばないことは言うまでもないが)
ホモ・サピエンス、日本人の進化の歴史を考えつつ、人類の行き方へも思いが及ぶ一冊である。
(2019年3月了) -
Posted by ブクログ
日本史の授業では、淡々とその事実(あくまで仮説であったとしても)が語られ、伝記、伝承では人物は偉大なるヒーローとして描かれる。
どちらも歴史を学ぶという目的だけなら良いが、退屈すぎたり、風呂敷を広げすぎて眉唾であったり。
本書はその中間をうまく取った。
面白く、興味を持って歴史を楽しめる。
「鉄砲傷は馬糞汁を飲めば治ると信じられていた」(72頁)
果たして効果のほどは。
別のところを悪くしそうだが、どんな地域、時代でも怪しげな「効果」はあるものだ。
「鬼平はインサイダー取引に手を染めた」(133頁)
白川の清きに魚の耐えかねて、元の濁りの田沼恋しき なんて歌を思い出す。
正しいことをしたければ偉くなれ、は湾岸署の刑事の言葉だが、正しいことをしたければ金をくれということだ。
単純に良い悪いは言えない。
「廃藩置県は大名たちから歓迎された」(182頁)
面白い。
されど、サラリーマン武士たちは.....。
今でもこの構図は変わっていない。
上は良かれと思っても、下の者たちは現場の気持ちをわかっていないとぼやく。
「ざんねんな現代史」はざんねんながら笑えない。 -
Posted by ブクログ
以前はテレビなどで放送される戦国時代の映画・ドラマ等を見て、昔の武将は勇気があって素晴らしいなと感動していたのと同時に、親から私達の祖先は武士であると言われたときに、私なら敵陣に向かって顔をさらけ出して、馬に乗って切り込むことは到底できない、先祖に対して申し訳ない気持ちになったことを記憶しています。
しかし近年になって、武士の実態はこうであった、という本が何冊か出版され、その中には実に人間らしい武士の姿が書かれていました。それを読んで、戦国時代の武将も私達とあまり考え方が変わらない人達であったとわかり、親近感を覚えたています。
従って、タイトルにある「残念な日本史」は、私にとっては残念ではなく、安心して読める日本史でもありました。また、戦国時代の映画を作る場合、自分たちの撮影したいシーンを再現するのは仕方ないことかもしれませんが、もう少し時代考証を考えてほしいものだと思いました。
以下は気になったポイントです。
・持統天皇が禁断令を出したにもかかわらず、双六に夢中になるものは後と絶たず、第45代聖武天皇、50代桓武天皇などは、螺鈿(らでん)細工の華麗な双六盤を愛用、所有していた、第72代白河法皇が、意の如くならざるもの、として「鴨川の水」「山法師(僧兵)」「双六の賽(さい)」を挙げている(p16)
・正史は、唐の「漢書」「後漢書」に倣おうとしたはず、これらの書は、帝室の歴史を編年体で記した「紀」、有力者の伝記を記した「列伝」、系図を記した「表」、制度や地誌について記した「志」の4つで構成される。養老4年に完成したのは、「紀30巻と系図1巻」なので、「列伝・志」は完成していない。「志」は「風土記」という、日本書紀から独立した別個の書物として扱われるようになった(p22)
・摂関政治とは、藤原不比等の次男房前を祖とする「北家」の誰かが天皇の外戚という立場に乗じ、幼少の天皇に代わって政務を執り行う摂政の職、もしくは天皇を補佐する関白の職にあって朝廷を牛耳った政治体制のこと(p26)
・日本の朝廷と宋王朝の間には外交関係がなかったので、交易はあくまで宋の海商による私的貿易として行われた、宋商船が出入りを許されたのは博多のみ、大宰府が一切の窓口業務を請け負った(p27)
・鳥羽上皇の崩御により、貴族や武士で不遇のものたちが崇徳上皇のもとへ結集、こうして起きたのが「保元の乱」あっさり負けたが、崇徳上皇は讃岐国へ流された(p35)
・平家全盛の時期であっても、宋から来航した唐船がそのまま瀬戸内海に入った例は極めて少ない、海賊の跋扈する瀬戸内海を水先案内人や護衛なしに航行するのは極めて危険であった(p41)
・壇ノ浦の戦いで、義経は平家方の船頭や水夫を射殺するように命じたが、これは当時の常識からすればどんでもない禁じ手であった(p45)
・武士の時代の本格的な到来を周知徹底させ、各人に統治者としての自覚を促す、そのための手引書として制定されたのが、1232年「御成敗式目」、逆に言えばそれまでの東国がいかに物騒な社会であったかが伺える(p50)
・足利尊氏は、武士や庶民に過分な負担をかけるわけにいかないので、天龍寺造営に目的を特化した貿易船(天龍寺船)の派遣を強行した、1回の派遣で十分な資金を調達できた(p58)
・実在した一休禅僧は、第100代の後小松天皇のご落胤とも噂されている、権力者や金持ちばかりにすり寄る、京都五山(朝廷が住職を任命する臨済宗最高位の5寺)を嫌い、清貧と反骨に終始した庶民目線の生涯を送った(p59)
・応仁の乱以降、長禄3年(1459)春に始まった西日本一帯の干ばつは夏になっても続き、9月には台風、西日本一帯が深刻な飢饉となった、寛正元年(1460)の春夏も干ばつ等が続いた(p63)
・1477年に京での戦闘は収束する、足利義政は東山での山荘づくりを優先させて、1489年に建造させたのが銀閣寺、この背後には大飢饉・戦闘で命を落とした人が多くいる(p64)
・駿河の今川家で後継者争いに起因する内紛が起きると、特使として派遣された、太田道灌はまだ無名に近い伊勢新九郎(のちの北条早雲)と出会い、一致協力して調停による内紛の収拾を成功させ、外交家としての手腕も発揮していた(p67)
・1543年の鉄砲伝来とは、ポルトガル船の種子島漂着ではなく、漂着したのは中国・明の船、船長は島民と砂上で筆談を交わした(p68)
・戦国大名の多くが女性の口説き方、恋愛の過程までもが詳しく描かれた「源氏物語」というフィクションに浸ることで満たされぬ心を癒した(p75)
・現在撮影に使われるのは、サラブレッドやアングロアラブなどの洋種馬で、その繁殖は明治40年(1907)、岩手県小岩井農場が輸入したことに始まる。サラブレットは当時の軍馬より、20センチ以上大きい(p77)
・秀吉は、本来であれば、秀吉の父・弥右衛門か秀吉側親族の誰かの姓を用いるべきなのに、秀吉はできなかった。秀吉の実家は武士でなければ、村落や都市の上層でもなかった(p83)
・本能寺の変で、確かに言えるのは、入念な計画や準備がなされた形跡はないこと、殺したあとの行動については何一つ決められていなかった(p85)
・寛永寺を開き、総本山としての権限を喜多院(川越)から寛永寺に移した、寛永寺のある場所は江戸城から見て鬼門(邪悪な鬼が出入りするとされた北東)にあたっていた(p112)
・巌流島の決闘において、武蔵は遅刻などしておらず、小次郎と同時刻に到着した(小倉碑文)、小次郎は一対一の勝負を守ったが、武蔵は数人の弟子が決闘の様子を中止してきた。武蔵は小次郎を破りながら命を奪おうとしなかったが、弟子たちは小次郎にどどめを刺した(p119)
・イギリスが北米大陸を重視したが、オランダは最初からアジアに的を絞った、インド洋・南シナ海・東シナ海はポルトガルの独壇場であったが、息切れが始まり、それに乗じたオランダは、スリランカ・マラッカ・台湾を奪取していった、次の目標は日本であった(p122)
・高輪は、町奉行の管轄外であり、関東郡代となる(p132)
・吉原と宿場の女郎屋は合法的な遊び場、吉原の場合は、遊郭または廓と呼ばれた。宿場の女郎屋は、品川・内藤新宿・板橋・千束に設けられた、吉原の場合は、当初は人形町付近、明暦の大火以降には、現在の台東区千束に移された、違法営業の女郎屋は、岡場所と夜鷹(個人営業)があった、根津・深川・築地・品川・新宿・音羽・赤羽に岡場所にあった(p144)
2018年6月10日作成 -
購入済み
簡易的かな
史記を読んで歴史を知るためには確かに、本紀・世家・列伝を読みわたらなくてはならず、一般の社会人にはなかなか大変な作業だと思うので、時代ごとに整理してくれてる点はたいへん助かる読み物です。
それから、現代語に近い文章で読みやすさもあります。
参考になる地図や写真も出てきます。
ただ、ちょっと内容を省略しすぎかなと。
以前に列伝を訳したものを読んだのですが、それからすると同じ人物の同じ内容なのに、ややあっさり簡潔にまとめてあって、以前読んだものの方が、説得力や深みがあったように感じます。
史記の概要を、知識の一つとして一通りさらっと読んでみたい方には向いているかも。
個人的には、なにも一冊にまとめなくても良いので、同じ形式で、
殷・周くらいまで
春秋戦国と始皇帝まで
漢以降
くらいの三冊に別けて簡略化せずに書いて下さってる読み物があったら欲しいな…って思うのは、他力本願すぎますかね?(;^_^A