合田正人のレビュー一覧
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ネタバレ「喜びは、行動とともにある。
幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」
アランの『幸福論』は以前からいつか読みたいと思っていましたが、原著を読むのは敷居が高いので、このシリーズでとりあえず読んでみようと思いました。
どんな本かというと「寒い夜に湯気を立てている一杯の温かいスープのような書物」であり、さまざまな生活の場面における幸福についての断章(フランス語でプロポ)全部で93編から成っているそうです。
アランに師事した小説家アンドレ・モーロワが遺した言葉に、「私の判断では、世界中でもっとも美しい本の一つである」という言葉があるそうです。
プロポの中で心に残ったものを挙げてみます。
〇私たちは他人の幸福を考えねばならない。というのはまさにその通りだ。しかし、私たちが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである、ということは十分に語られていない。
〇不幸になったり不満を覚えたりするのはたやすい。ただじっと座っていればいいのだ。人が自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように。
〇自分からは動かない。だからこそ不幸になるのです。気分にまかせて生きている人は皆、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち怒りだす。
〇人間にとっての最大の敵は自分自身である。
ただ待つだけだったら、不幸しかない。
アランが言いたかったのは、「困難も不幸も本当の原因さえ分かれば、多くの場合、対処法はさほど難しいことではない」ということです。
面白かったです。
読んでいて、目からうろこというのはこういうことではないかと、何度も思いました。
読む前は、こんなまぶしいタイトルの本を、自分が読んでもいいのかと思ったりしたのが、嘘のように軽くなりました。
〇「幸福は行動の中にしかない」
「意志」とともに「行動」を起こすこと。
アランの原著と世界三大幸福論のもうひとつの、ラッセルの『幸福論』も、読みたかったのでこのシリーズで購入しました。 -
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本書は2004年に出版された、フランス哲学者によるウィトゲンシュタイン(以下LW)評論の翻訳本。著者は既に鬼籍に入っているが、フランスにLWを紹介した最初の人物だという(ということは、それまでの現代フランス哲学はLWを何ら参照することがなかったのだろうか?)。専門である神学や古代ギリシア哲学、新プラトン主義の文脈からLWを論じているが、本文と解説で丁寧な解説がなされているためそれらの知識がなくとも読み進めることは可能。むしろ最近の哲学書のような重厚長大さがなく、本文も150頁程度とコンパクトであり読み易い。古田徹也氏による解説も充実しており理解を助けてくれる。
内容に関しては古田氏も指摘している通り、徹頭徹尾LWを「論理実証主義者」と称したり(命題が論理的形式を満たすかどうかは事実との照合/検証により行うべき、というLWの主張からだと思われるが、LWは端的には「論理は事実や対象ではない(よって観察もされない)」と言っているのであり、観察可能性を重視する実証主義者とは立場が異なるのでは。「実践主義者」とでもしたほうが実態に即していると思う)、哲学的言語を「言語の悪用」と断じたり(のちに「青色本」解説文で論じられるように、哲学は日常言語と論理形式/ルールが異なるだけで悪用とは言えないのでは?)するなどやや違和感も感じたが、後者の論点からは例えば『論考』が自らを「最終的に無意味と見做されるべきもの(6.54)」とする理由が、「言語をその根本に求める哲学が、まさにその言語によっては自らを表現できないため」だということが明快に導かれており、わかりやすさという意味ではかなりいい線を行っているのではないかと思う。
もちろん、本書の白眉はこれまでのLW論とは全く異なる視座からLW哲学に光を当てていることだ。『論考』終盤では神秘的なものに対する驚きの感情が述べられているのだが、僕にはこれがそれまで冷徹なまでにストイックに論理形式の語りえなさを記述していたLW像とは相容れないものののように思えて仕方がなかった。本書ではそのLWの感情こそが「事実に対する科学的記述とは疎遠な何か、実存的もしくは倫理的、美的秩序に位置付けられる何か」であり、まさに世界の外にあって「語りえない」ものだということを「示している」のだという。「言語の限界が世界の限界(言語の乗り越え不可能性)」、つまり「言語ー世界並行論」から逸脱した部分にLWは神秘さを見出しているのだということなのだが、これは少なくとも今まで僕が読んだLW論でははっきりと示されてこなかった視点であり、これにより『論考』をより一貫性ある形で読むことができるのではと思う(ただ、これをストア派のアパティア(超然さ)に引きつけて論じる部分はやや強引に思えたが…)。
後半は、『哲学探求』における「語の意義とは、言語におけるその語の使用である(43節)」からくる言語ゲーム、なかんずく「日常言語中心主義」をめぐる考察が主。ここから外れた語の使用を実践する哲学を断罪しているが、上記の通り「青色本」解説によればLWが攻撃するのは「属するゲーム、及びルールを示さないままの語の使用」であり、必ずしも哲学のみを対象とするものではないように思える。が、いずれにせよ「語の使用」を意味の場とするLWの主張が、変化球を用いることなく多くの第一次資料からの引用をもって論じられており、前半に比べるとストレスなく読むことができる。
ただ、『論考』『探求』の考察を通じて著者が抱いた大きな疑問「LWによって示された「論理形式」「言語ゲーム」などという表現は、どのような言語ゲームに属しているのか」についてはそのまま留め置かれたままである。これをラッセル流にメタ的に処理してよしとするのか、ゲーデル流に自己言及の連環として扱うのかというのは、考えるだに強烈に困難な問題であるように思える。 -
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『吉本隆明と柄谷行人』というタイトルだけで購入。
特に柄谷行人は、学生のときにこれを理解できないとダメなんだ、とほとんど強迫観念を持って読んでいた。吉本隆明も『共同幻想論』や『言語にとって美とは何か』の代表作は読んだが、時代的にも明らかに柄谷行人派であった。吉本が海外に依拠することをある種拒んだことに対して、柄谷が積極的に海外に出ていたことも影響していた。かなり柄谷の主観が入ったものであったが、彼の視点が自分にとっての海外思想取り込みのガイドラインにもなっていた。
今でも新刊が出れば買うのだが、情熱を持ってもう読むことはできない。ある種の懐かしさを持って読んだ。
著者は「個体」、「意味」、「システム」、「倫理」というテーマに即して二人の先行者の仕事を関連付け、比較して読み解きながら解らしきものを提示しようとする。これらのテーマは柄谷の著作では実に親しみのあるテーマだ。
いずれにせよ二人の課題設定自体は未だ有効だ。その当時から二人が対立しているとは思ってなかったが、改めて違いよりもその類似の方に目が行く。
ただ現在においては、主体の問題を扱うにあたっては神経生理学の知見を反映したものでないと議論に耐えられないと感じる。そこが20年前とは異なる点であるように思う。
また揚げ足取りのように思うが、数学者の遠山啓について吉本隆明との関係だけを殊更に大きく取上げているが、柄谷行人も遠山啓についてその影響を受けていることを隠していない。
具体的には『言葉と悲劇』において、「安易な構造主義入門などを読むよりも、遠山啓の数学入門書を読む方が構造主義の考え方がよくわかるはずです」(P.156)と言及している。また、『批評とポストモダン』においても「遠山啓の入門書は、私に現代数学の考え方を教えてくれたし、数学が数量や図形からはなれて存在することを啓蒙してくれた」と繰り返している。これを読んで当時『無限と連続』を手に取ったのでよく覚えている。
比較的重要なポイントであるように思うので指摘しておく。
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もはや何らかの解を求めて読んで考えるというよりも、純粋に考えるということについて楽しむために読んでいる。この機会にパラパラと『隠喩としての建築』や『内省と遡行』などを見返したが、難しいものを読んでたねえと思う。
改めて懐かしかった。 -
Posted by ブクログ
たいへん示唆的な哲学書である。しかも、訳文が読みやすい。「産業的」「優勝的」など意味不明な言葉が少しあるが、岩波版より論旨は追いやすい。結局、この著作のポイントは、すべてを生命の流れ、つまり「純粋持続」のもとにみるということだろう。また、進化の観点からみれば、知性は行動するために生命がつくったものなので、必然的に限界があるのである。ダーウィンやアイマー、ド・フリースやラマルクなどの進化論思想の読み解きも面白い。進化には結局、生命の意志があるのだ。思想の映画的メカニズムをもとに、科学思想を検討するところもみごとである。カルノーやクラウジウスなどの熱力学にも少しふれているが、アリストテレスの科学論が類や概念の絶頂、つまり特権的な時間、をみるのに対して、近代科学は特権的な時間を否定し、時間を細分化し、そこに運動をあてはめ、法則をみようとする。だが、どちらも「あらかじめ全てが与えられている」という観点からみれば共通なのである。これらの古代・近代の科学に映画的メカニズムをみたベルクソンは、存在の根本理解として、予見不可能な全てが全てに浸透している純粋持続を語るのである。古代の科学と近代の科学のちがいとして、実験をみるのは間違っているという指摘も面白い。実験は古代人もしていたのである。むしろケプラーの研究などは思弁の産物なのだ。彼の哲学は常識と「直感」を大事にしているが、とくに気になるのは、ベルクソン自身はいっていないが、中国思想との関わりである。王陽明の知行合一や、生命の流れとしての物質観は「易」とよく似ている。生命の哲学は東洋とつながるものだ。なかなか普遍的なテーマである。
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Posted by ブクログ
ネタバレおすすめ度:75点
「幸福は義務である。」
アランは視点を変えて楽観的にものごとをみることの大切さを説いた。意志する楽観主義である。
アランは「幸福論」最終章で次のように述べている。
「楽観主義は意志のものである。楽観主義が誓いを要求することがよくわかる。はじめはどんなに奇妙に見えようとも、幸福になることを誓わねばならぬ。」
邦題では「幸福論」と訳されてはいるが、フランス語で「プロポ」といういわば、「幸福小咄」「幸福のコラム」といった軽い読み物を意味していて、決して難解な哲学書ではないという。
心と体の結びつきを重視していて、心のこわばりを解きほぐす「身体的な運動」が、実は思わぬ処方箋になると考えていた。「体操」や「あくび」「笑い」、特に「微笑み」の重要性については何度も指摘されている。体が正しい方向に動き、能動的・活動的になっていくと、精神のほうもプラスのほうに傾いて、能動的・活動的になっていくと考えた。
「意志」「努力」「行動」の3つのキーワードのなかで最も重要なのが、「行動」である。アランは様々な事例を挙げたうえで、「幸福は行動のなかにしかない」とさえ言っている。
アラン自身も行動を起こした人であった。第1次世界大戦での従軍志願しかりである。
アランは職業は一生涯高校教師であった。また、生涯独身を貫いていたが、晩年の77歳で、かつての恋人と再会して結婚したという。