中村彰彦のレビュー一覧
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本能寺で信長が討たれてからは主君秀吉の下で天下取りの為に奔走する。茂助は山中鹿之介や本多平八郎などの武辺者にどことなく共感するところがある。肥後の統治を失敗した佐々成政が責任を取り切腹となったが牢人となった佐々の家臣を多く召し抱える。息子金助が成長しこれからは乱世では無く治世の時代と考えた茂助は金助に算用を習うよう教育する。しかし初陣となった小田原攻めで金助は流行病で亡くなってしまい悲痛に暮れていたが北条氏滅亡後関八州は家康へそして家康の旧領は茂助含め家康への監視役として豊臣恩顧の家臣団が選ばれ浜松城城主となる。盟友前野長康の長男が秀次の事件で切腹を言い渡され父長康も責任を感じ詰腹を切る。蜂須
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「真のサムライ」と称された会津人の松江豊寿にまつわる心温まる歴史小説。
松江氏は、教科書レベルでは歴史の表舞台に登場しない人物かもしれないが、このような清廉で筋が通った歴史上の人物の生きざまを学ぶことは大切だと思う。
GWに徳島鳴門市ドイツ館を訪れるつもり。
ちなみに、このような歴史の中で、ベートーヴェンの第九が日本で歌われるようになったのも、この徳島から。
以下抜粋~
・真崎中佐は、俘虜たちを精神的、肉体的に抑圧すべき対象とみなしていた。一方松江中佐は警備兵たちにいかなる暴行も許さず、俘虜たちに対して人道的に接するよう求めつづけた。
この頃、松江はよく語った。
「かれも祖国のために戦ったの -
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ゴジラに破壊されようが、巨神兵に薙ぎ払われようが、華の都大東京の象徴・東京タワーは再建されるが、華のお江戸の江戸城天守閣は再建されなかった。それはなぜかと問われれば、初代会津藩主の名君保科正之がいたからだ。
3代将軍の家光の異母弟として生を受け、権力争いに巻き込まれることを避けてひっそりと育てられていた正之だが、その存在を知った家光に抜擢され、その才能を評価されてからは右腕として手腕を発揮した。頼朝と義経みたいだが、最期までその兄弟愛が深かったところが違う。
明暦の大火により焼け落ちた天守閣の再建よりも民の復興を優先すべきであると献策し、天守再建論を退けた。また人口増加により深刻化 -
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以前は会津のことはほとんど知識がないまま読んでいたので、再読しました。
全7編の短編集
「修理さま、雪は」・・・藩主松平容保の側近 神保修理の妻 雪子の物語
「涙橋まで」・・・現在も"会津女性の華"とよばれる中野竹子の物語
「雁の行方」・・・家老 西郷頼母改め保科近のりの晩年
「残す月影」・・・新島(山本)八重の人生劇
「飯盛山の盗賊」・・・白虎隊の悲劇の裏側
「開城の使者」・・・会津降伏の使者となった鈴木為輔の物語
「第二の白虎隊」・・・降伏から数年後、豊津藩へ留学していった郡長正と少年たち
官軍側の薩摩・長州側の人たちからみれば、一方的に会津側に立った著者の本は