井筒俊彦のレビュー一覧
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イスラムをイスラムたらしめているものを、仏教、キリスト教との比較、日本人の視点から、素人向けに説明。
20年以上前の本ですが、古さはありません。イスラムについて、正しく知識を吸収しているという、本当によい気分になる本でした。
これを理解してこそ、いまイスラム世界で起こっている紛争を理解することができると思う。
・イスラムは政治・経済・生活のすべてがコーランに帰結する
・イスラム世界のすべてが聖であり、聖俗の区別はない。(よって聖職者という人たちも存在しない)
・多数派のスンニ派はコーランを外部的に理解する
・少数派のシーア派(イラン)は内部的に理解する
・中でもスーフィー派、仏教的な思 -
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以前読んだ『マホメット』『イスラーム文化』の著者であり、東洋哲学者。また、イスラム研究家でもある井筒俊彦さんを読む。
他の方のレビューを拝見するととても評価が高くきっと素晴らしい本なんだろうと思い、つい手にとってしまったが、極めて難解である。
どれ程の知識を持ってすればこの様な本が書けるのか、改めて著者の天才ぶりに脱帽す。
本質は西洋哲学が有であるなら東洋哲学は無であり、それぞれは背景にある宗教的は排除出来ない。
p233より、
「ア」(a-)はサンスクリット語では否定を表わす接頭語である。「非×」、「不×」、「無×」、どんなものをもってきても、「あらず、あらず」とそれは言う。経験的事物、事象 -
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分厚い氷の上を滑るようだ。
p41 我々が何故に本質を求めるのか。もの事に同一性を認めることによって、既知とする。これによって、再利用が可能となり、(ある程度の)予知が可能となる。
p241 「神は世界を創造した」というのは、言語によって世界を表現したという理解でよいのか。世界を記述する表現の無限性、あらゆるものを内包しうる事を神性に喩えるということだろうか。
前段に、「文字の組合わせ」を変えると世界が変る、とあった。
「太始に」とは時間的始まりを意味しない。〜どの一点を取って見ても、そこに必ず太始がある、これは道元の世界にも通ずるか。 -
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サブタイトルは精神的東洋を索めて。
その精神的東洋について西洋という対象軸を明示しつつ論じている。今日的な通念=西洋的思考とは違う知の在り方が詳らかにされる。
東洋を知ることで、私たち日本人がいかに言葉至上主義的なロゴス的な西洋的思考で世の中を見ているかを思い知ることができる。東洋に身を置きながら、東洋的な思考態度を削り取られていることに気づく。もちろん、そのエッセンスは私たちの内奥に伏在している。よくも悪くも借り物のモノサシを当てがわれている。
イスラームがやはり自分としては興味深い。地球規模で考えるとおよそ4人に1人はムスリムという事実。これが何を意味するか。
カッバーラーも面白い。
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東洋と一口に言っても幅広いのに、よくも日本、中国、イスラムと様々な知見を持って語ることができるものだと大変驚かされる。
読み始めて思ったことは、そもそも今の時代において、物事の本質についてどこまで語る必要があるのかということだ。
しかし、そのように考えるより様々な文化がどのように本質を考えてきたか知ることができると思うと面白く感じる。
内容が東洋思想なのに西洋思想をバックに感じる。
まず、本質はコトバや意識で世界を分節化されているものだという。
構造論のように捉えているのではないだろうか。
そして本質が普遍的である場合と、モノに固有である場合とを挙げる。
普遍論争のようだ。
本居宣長のもののこ -
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ネタバレ『意識と本質』は、人間の意識の仕組みと、その奥に広がる「本質」の世界について、東洋思想の伝統を縦横無尽に駆使しながら探究した、井筒俊彦の驚くべき著作です。確かに、カスタネダがドンファンとの出会いを通じて体験した「別の現実」を、東洋思想の言葉で解き明かそうとしたら、こんな感じになるのかもしれません。
井筒の議論は、私たちの「普通の」意識が世界をどう切り分けているのかという分析から始まります。例えば、私たちが「これは木だ」と認識するとき、実は無限の可能性の中から特定のパターンを切り取っているんです。井筒はこれを「意味分節」と呼びます。面白いのは、この分け方が文化によって全然違うということ。まるでド -
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この本に出逢って、どのくらいの時が過ぎただろう。
”写真を撮る”ということが自分の業で、それにはその対象の本質を掴むことが必要であるとの思いから、この本を読み始めた。
井筒先生のことを司馬遼太郎は、「天才20人」が一人のひとに凝縮されたようなものだと語っている。
この著作を読み進めるうえでは、少なくとも仏教、イスラム教、朱子学、言語学、現象学、西洋哲学といった思想・思考を知っておいたほうが良い。
30カ国語ができた井筒先生は、そうした思想を原典で読んでいる。
おそらく、メルロ=ポンティやハイデガーなどの著作はリアルタイムで読んでいる筈だ。
基礎的な著作がひどいときには20年遅れで -
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生きることに疲れたら、自己啓発本を読んで気を紛らわすのも、小説を読んで現実から逃げるのも、マンガを読んで時を遊ばすのもいいだろう。
だが、本格的に人生の悩みを捨て去りたいのなら、いっそのこと「悟って」しうのもありなんじゃないのか。
井筒俊彦のこの本は座禅を中心とし、東の洋のを問わずの本質を網羅している。
そこにあるのは悟りへの道だ。
井筒の主張では(恐らくは真実だが)この世を分け隔てているのは言葉である。
言葉を全て捨て去ればこの世は一つである。
さて、人間の悩みの中に言葉はいくつあるか?
言葉がなければそれも喪失する。
座禅の先の悟りがいかなるものかもうお分 -
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ネタバレムスリムが良かった時などにマーシャアッラーと言うのを知っていたが、日常生活においてもアッラーの名前を口にするのが普通で、深い宗教的意義をもたらすため、神の名前を事あるごとに口にするのがイスラム教の特徴らしい。ユダヤ教のヤハウェとは真逆だ。そして、神は絶対的支配者であり、人間は神に従うしもべとして位置づけられるのがイスラーム的な信仰の在り方。普通一神教と聞くと、全知全能で抽象的な神というイメージだが、アッラーはそういう哲学的・形而上学的な神ではない。アッラーは歴史の中でアブラハムやイサクやヤコブと関わった人格神だ。つまり遠い存在、抽象概念としての神ではなく、人間の歴史や生活、行動に直接関わる神で
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ネタバレ『後記』にあるが、本書は1981年に著者が行った3回の講演を文字起こししたものにペンを入れたものである。本書冒頭の『はじめに』は講演の導入部であり、本書の構造については触れていないので、読み始めると「口頭発表みたいな口調(の文体)だな」と思うかもしれない。
本書は40年以上前の古いものだが、当時の時流を追う内容ではないため現在でも十分に読む意味はある。私は本書をイスラーム文化を教養程度に知る目的で購入したが、冒頭の『はじめに』を読むだけでそれ以上の価値があったと思うことができた。
『はじめに』では『あかの他人』であるイスラーム文化を知る意味について述べられている。
カール・ポッパー(ポパー -
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3回の講演をまとめたもの、聴衆が一般人なのと、井筒さんも口語なので、とてもわかりやすい。
岩波の担当者は、おそらく、井筒さんの一番やさしい論考をシリーズの1回目に置きたかったのではないだろうか。
40年前のこの講演の時も現在もイランはシーア派政権だが、シーア派とはコーランに忠実で、それゆえに頑固で西洋的な近代化を拒む宗派であることがこの本でわかる。しかし、井筒さんはシーア派が悪いとは言っていない。逆に、その教説にはイスラム教の情念が宿っていると展開している。
イスラムには僧侶はいなし、お寺もない。政治と宗教が一体化している。輪廻という考えはない、仏教を宗教とはおもえないのでは、などイスラムのな