【感想・ネタバレ】意識と本質 精神的東洋を索めてのレビュー

あらすじ

東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し、その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない。本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の方法によって展開した壮大な哲学的営為であって、その出発点には自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった。

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1276円

難解だけどめちゃくちゃ面白い

井筒 俊彦
(いづつ としひこ、1914年(大正3年)5月4日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。文学博士、エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、海外で高く評価されている[1]。アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ロシア語、ギリシャ語などの30以上の言語を流暢に操り、日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教の不二一元論、大乗仏教(特に禅)、および哲学道教の形而上学と哲学的知恵、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。


「だが東洋哲学の伝統の中には、これとは全く反対に、「本質」の実在性を全面的に肯定する強力な思想潮流がある。以下その方向に目を転じてみよう。しかし「本質」実在を主張する思想家たちを取り扱うためには、これまでやや漠然と無規定的に使ってきた「本質」という語を、ここでもっとはっきり規定しなおす必要がある。つまり、広い意味での「本質」あるいは「本質的なもの」を、例えば、個々の事物それぞれの自体性そのものとしての「本質」、個々に実在しながらも自らは普遍者であるような実在的普遍者として考えられた「本質」、外的実在性をもたずに、ただ抽象的思考の次元でのみ存在する概念的普遍者としての「本質」等々に区別して、その上で問題を検討する必要がある、ということ。一口に「本質」の実在性を肯定するといっても、どういう意味での「本質」を肯定するのかによって、議論がだいぶ違った様相を呈してくるからだ。むろん、このような区別は「本質」の否定にも関わらないわけではないけれど、肯定する場合のほうに実際上はむしろ問題が多いのである。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「およそ概念とか概念的・抽象的思惟とかいうものを極度に嫌った本居宣長は、当然のことながら、中国人のものの考え方にたいしてほとんど本能的とでも言いたいほどの憎悪の情を抱いた。彼の目に映じた中国人は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」、人間本然の情をいつわり、それにあえてさからってまで、大げさで仰々しい概念を作り出し、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」を振りまわさずにはいられない人たちである。だから『詩経』の風雅三百 は別として、中国の思想家の書き残した書物は、ちょっと見には「いとかしこくは聞ゆれども」、その実、大抵は内容空疎なこけおどしで、とうてい範とするには足りないものだ、という。例えば『易』などという下らない書物、自分ではまるで宇宙の理法を窮めつくしたとでもいうような口ぶりだが、本当はこの書物に説かれている思想を支える太極、無極、陰陽、乾坤、八卦、五行、等々の概念は、ことごとく「くだくだしくこちたき」架空のこしらえごとで、「まことにはその理とてあることなし」といった代物にすぎない。ということは要するに、これらのものが事物、事象の実在性から遠く遊離した抽象概念にすぎない、ということだ。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「中国的思考の特徴をなす と宣長の考えた 事物にたいする抽象的・概念的アプローチに対照的な日本人独特のアプローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。世に有名な「物のあはれ」がそれである。物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である、という。明らかにそれは事物の概念的把握に対立して言われている。  概念的一般者を媒介として、「本質」的に物を認識することは、その物をその場で殺してしまう。概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。この生きた事物を、生きるがままに捉えるには、自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じるほかに道はない。そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ。  「たとへば、うれしかるべき事にあひて、うれしく思ふは、そのうれしかるべき事の心をわきまへしる故にうれしき也。又かなしかるべき事にあひて、かなしく思ふは、そのかなしかるべきことの心をわきまへしる故にかなしき也。されば事にふれて、そのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを、物のあはれをしるといふ也」(『石上私淑言』)。「たとへば、めでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情の感く、すなはち是、物のあはれをしる也」(同上)、等々。引用するとなれば限りがない。要するに、「物の心をしるは、すなはち物の哀をしる也」(『紫文要領』)ということに尽きる。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「 「いかなるものにも、そのものをまさにそのものたらしめているリアリティーがある。だが(ここで注意すべきは)このリアリティーは一つでなくて二つであるということだ。その一つは具体的、個体的なリアリティー ​( aqīqah ​ ​ juz īyah) ​であって、これを術語で ​ huwīyah ​という。もう一つは普遍的リアリティー ​( aqīqah ​ ​ kullīyah) ​で、これを ​ māhīyah ​と呼ぶ。」西暦十五世紀の代表的イスラーム哲学者ジョルジャーニー ​( d. ​ ​ 1413) ​は、イージー ​( d. ​ ​ 1355) ​の世の有名な体系的神学書『存在の階層』 ​( Mawāqif) ​にたいする 解 ​( Jurjānī: ​ ​ Shar ​ ​ al ​​-Mawāqif) ​の中で、こう言っている。フウィーヤとマーヒーヤ、この二つをイスラームの哲学者たちが二つながらに事物の「本質」と考えていることは、彼らが後者を「特殊的意味での本質」 ​( māhīyah ​ ​ fī ​ ​ al ​​-ma nā ​ ​ al ​​-khā ) ​と呼び、前者を「一般的意味での本質」 ​( māhīyah ​ ​ fī ​ ​ al ​​-ma nā ​ ​ al ​-​ āmm) ​と呼んで術語的に区別しながら、それらを共に広義のマーヒーヤに含まれるものとしている事実によっても明らかである。もっとも、この術語は、フウィーヤ、マーヒーヤよりも時代的に後で成立した、古典時代以後の用語法だが、術語成立の時期はとにかくとして、イスラーム哲学ではごく早い頃から一般に、フウィーヤとマーヒーヤとは共に存在者の「本質」であるとされていた。つまり、あらゆる事物に二つの次元の異る「本質」が認められていたのである。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「勿論、それでもなお、事実上、詩人は普通の言語を使って詩作しなければならない。しかし彼は普通の言語を絶対言語的に使う。普通の言語を普通の仕方で使えば、事物の感覚的形姿が浮んでくる。例えば「花」という言葉。それの呼び出すものは、ごく平凡な、どこのどの花にでも無差別的に当てはまる一般的「本質」によって規定された感覚的花の形象にすぎない。マラルメのいわゆる存在の「輪廓」だ。存在の感覚的な「輪廓」は移ろい易い。花は咲いて、やがて萎む。  だが、詩人が絶対言語的に「花」という語を発するとき、そこに或る異常なことが起るのだ。存在の日常的秩序の中に感覚的実体(「輪廓」)として現われていた花が、発音された語のひき起す幽かな空気の振動と化して消え散っていく。花の「輪廓」の消失とともに、花を見ている詩人の主体性も消失する。生の流れが停止し、あらゆるものの姿が消える。この死の空間の凝固の中で、一たん消えた花が、形而上的実在となって、忽然と、一瞬の稲妻に照明されて、白々と浮び上ってくるのだ。花、永遠の花、花の不易が。  「私が花!  と言う。すると、私の声が、いかなる輪廓をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、我々が日頃狎れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁たる花のイデーそのものが、音楽的に立ち現われてくる」(『詩の危機』)、とマラルメは書いている。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「宋儒たちは、これに反して、経験的事物それぞれの「本質」を、それらの死と「忘却」の彼方にではなく、むしろ存在の経験的次元そのものにおいて、潑剌と躍動する事物の生命そのものの中に探求する。そして窮め終ったすべての「本質」の形而上性のさらにその彼方、あらゆる「本質」のより深い、あるいはより高次の形而上性の源としての絶対的無に出合う。そこに彼らの「脱然貫通」が実存体験的に現成する。彼らのこの形而上的無の体験には、しかし、虚無の匂いはなく、そこに絶望の影もなかった。なぜなら、それは経験的事物の死によって成立する無ではなかったから。存在するものの死ではなく、生の源泉で、それはあった。あらゆる経験的事物それぞれの「本質」を無化し尽す形而上的無「本質」。宋儒たちは、あらゆる「本質」の実在的原点、すべての「本質」を己れの形而下的自己限定として、意識と存在の経験的次元に現成させる唯一の「本質」、をそこに見たのだった。  「無極而太極」、私が既に繰り返し口にしてきたこの言葉。無極にして太極、無極でありながら同時にそれがそのまま太極である、という。無・即・有。「理」の形而上的極限における無と有の、この矛盾的相即のうちに、我々は宋学的「本質」把握の東洋的性格を見るべきであるのかもしれない。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「 禅は現実を、「本質」によって固定された事物のロゴス的構造体とは見ない。そう見ることにまっこうから反対する。何々であるとして認知される事物、すなわち「本質」を核とする結晶体、はことごとく我々の目の曇りのゆえに虚空に現われる幻影のごときものにすぎない。「一翳眼に在れば空華乱墜す。」目の中にかげりがあると、現実にはありもしない幻の花が空から眼前にパラパラ降ってくる、と。ここに「目の曇り」というのは、後で明らかになるように、円悟克勤のいわゆる知見語言解会、つまりコトバの意味作用に基く「本質」形成的意識の存在分節機能のことだ。  しかし、もし花は花であるというふうに「本質」的に固定された事物がすべて我々の妄想意識の生みだす幻影にすぎず、経験的世界全体が存在論的根拠を欠く幻影のごとき事物の偶然的集合にすぎなくて、宋儒たちの描いて見せる「理」の秩序としての世界とはおよそ似ても似つかぬものであるとするならば、はたして現実はカオス以外の何ものでもないのか。アヴェロイスなら、きっとそういう結論を引きだすだろう。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「これに反して分節 ​( Ⅱ) ​の次元では、あらゆる存在者が互いに透明である。ここでは、花が花でありながら あるいは、花として現象しながら しかも、花であるのではなくて、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。 ​「 ​のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。分節 ​( Ⅰ) ​の次元では、花は一つの、それ自体で独立した、閉じられた単体だった。花はすべての他のものにたいして固く自らを閉じていた。だが「本質」のない分節 ​( Ⅱ) ​の世界に移される時、花は、頑なな自己閉鎖を解き、身を開く。  無「本質」の世界。それは存在的透明性と開放性の世界。「水清くして底に徹す。魚の行くこと遅遅たり。空闊くして涯りなし。鳥の飛ぶこと杳杳たり」(宏智『坐禅箴』)。この魚は、道元のいわゆる「魚行きて魚に似たり」の魚、この鳥は「鳥飛んで鳥のごとし」の鳥。魚は魚、鳥は鳥として立派に分節され区別されていながら、しかも、この鳥とこの魚との間には不思議な存在相通があり、存在融和がある。つまり、分節されているのに、その分節線が全然働いていないのだ、まるで分節されていないかのように。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「 『無門関』第二十四則、宋代初期の臨済禅の巨匠、風穴延沼を主人公とする問答、題して「離却語言」。ある時、一人の僧が風穴に向って、前にも述べたコトバの分節機能に関する問題を投げかける。曰く、「語黙、離微に渉って、如何にせば通じて不犯なる」と。「離」とは一切事物の差別を離れ超えたところに現成する絶対無分節態。「微」とはその無分節者が経験的に自己分節した微妙な働き。言うまでもなく「語」はもの言うこと。例えば「花」とか「鳥」とか、語を発すれば、そのとたんに存在は花というもの、鳥というものに区別されてしまう。(勿論、これは普通の分節の事態を考えてのことである。)しかし反対に、「黙」して語らなければ、勿論、何ものも言語的に分節されはしないけれど、そのかわり存在の差別相は無視されてしまう。そこで、僧は言う、この両面をともに生かした形で呈示するには、一体どうやったらいいのか、と。黙っていても、口を開いても、存在の真相は死ぬ。しかも人間は常に必ず黙するか、語るか、どちらかの一方を選ばざるをえない。禅では修行道的によく活用されるアポリアだ。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

「分節されたもの(例えば花)が、その場で無分節に帰入し、また次の瞬間に無分節のエネルギーが全体を挙げて花を分節し出す。この存在の次元転換は瞬間的出来事であるゆえに、現実には無分節と分節とが二重写しに重なって見える。それがすなわち「花のごとし」といわれるものなのである。  この実に微妙な事態を見事に言い表わした有名な公案がある。或庵の「胡子無鬚」がそれだ。『無門関』に収められて第四則をなす。胡子(西方の異国インドから来た人)すなわち達磨、に鬚がない、という、ただそれだけのことだが、たった四語のこの言葉には、存在の幽深な真相が秘められている。我々の見慣れた絵に描かれる達磨は、きまって濃い鬚を生やしている。それなのに、彼の顔には鬚がない、と或庵は言う。有鬚でありながら、しかも無鬚。分節と無分節の二重写し。「胡子、甚に因ってか鬚無き」と或庵は我々に問いかける。現にちゃんと鬚が生えているのに、一体どうして一本も鬚がないのだろう、と。」

—『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

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2026年08月29日

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河合隼雄さんののオススメの一冊なので読むことにしたが、数年来、途中で文章が入ってこなくなり読書が頓挫した、さすがに3度目のチャレンジで挫折したときは自己嫌悪になった。
しかし、読む姿勢を変えて4度目で成功?した。
その姿勢とは、宇宙の法則、つまりは「神の意志」と「人間の理性」の科学的な相関性について説いた「神々の沈黙 ジュリアン・ジェインズ」を事前に読んだからなのだ。実はこの本も河合隼雄さんのオススメ本。
この本のおかげで、「意識と本質」の読者としての立ち位置を変えることができたので、やっと「意識と本質」を最後まで読むことができた。
要は、この本のタイトルは「宗教の解体新書」なのだ。「神はいる」という前提がなければ読み進められない本なのだ。ブルーバックスを読むように理解するのではなく聖書をよむように信じることができなければ、跳ね返されてしまう。

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2025年06月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

帰省時に改めて読み直した。大学入って最初に読んだ本。半年かけて1/3くらいしか読めんくてそこで断念した。
わかりやすいのに、1時間かけて数ページしか読み進められないっていう内容のその密度と伏線の張り具合に対して半年かけて戦ったおかげで、読書へのキャパシティが異常にあがった。そのおかげでそれ以降本読むこと自体のハードルが異様に下がった。
無意識を通した文化、宗教、言語が人の捉え方にどう影響するかっていう内容自体、全て自明のもんだと思ってた自分にとって全て新しくて、それからの人の思考過程に対する興味はこの本が原体験になって派生した。
東洋の思想が豊かだったっていう主張も、西洋が一番かっこいいし進化してるぐらいの知能やった自分にとって、目から鱗やったし、他の文化をもっと知りたいっていう志向性に繋がった。ひいては二元論的なものの見方を避けようと思うようになった。
っていう色んな点で、自分の原体験の一つになってる。読んでよかった本ナンバーワン

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2018年01月01日

Posted by ブクログ

以前読んだ『マホメット』『イスラーム文化』の著者であり、東洋哲学者。また、イスラム研究家でもある井筒俊彦さんを読む。
他の方のレビューを拝見するととても評価が高くきっと素晴らしい本なんだろうと思い、つい手にとってしまったが、極めて難解である。
どれ程の知識を持ってすればこの様な本が書けるのか、改めて著者の天才ぶりに脱帽す。
本質は西洋哲学が有であるなら東洋哲学は無であり、それぞれは背景にある宗教的は排除出来ない。
p233より、
「ア」(a-)はサンスクリット語では否定を表わす接頭語である。「非×」、「不×」、「無×」、どんなものをもってきても、「あらず、あらず」とそれは言う。経験的事物、事象の一切をあますところなく否定する「ア」は、確かに無的、無化的性格をもつ。

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2016年02月26日

Posted by ブクログ

分厚い氷の上を滑るようだ。
p41 我々が何故に本質を求めるのか。もの事に同一性を認めることによって、既知とする。これによって、再利用が可能となり、(ある程度の)予知が可能となる。
p241 「神は世界を創造した」というのは、言語によって世界を表現したという理解でよいのか。世界を記述する表現の無限性、あらゆるものを内包しうる事を神性に喩えるということだろうか。
前段に、「文字の組合わせ」を変えると世界が変る、とあった。
「太始に」とは時間的始まりを意味しない。〜どの一点を取って見ても、そこに必ず太始がある、これは道元の世界にも通ずるか。

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2015年04月09日

Posted by ブクログ

サブタイトルは精神的東洋を索めて。

その精神的東洋について西洋という対象軸を明示しつつ論じている。今日的な通念=西洋的思考とは違う知の在り方が詳らかにされる。

東洋を知ることで、私たち日本人がいかに言葉至上主義的なロゴス的な西洋的思考で世の中を見ているかを思い知ることができる。東洋に身を置きながら、東洋的な思考態度を削り取られていることに気づく。もちろん、そのエッセンスは私たちの内奥に伏在している。よくも悪くも借り物のモノサシを当てがわれている。
イスラームがやはり自分としては興味深い。地球規模で考えるとおよそ4人に1人はムスリムという事実。これが何を意味するか。
カッバーラーも面白い。

西と東を縦横無尽に往来して知の舞台を賑やかに描き出してくれた著者に敬服。
★5つでは足りない。

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2014年12月07日

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東洋と一口に言っても幅広いのに、よくも日本、中国、イスラムと様々な知見を持って語ることができるものだと大変驚かされる。
読み始めて思ったことは、そもそも今の時代において、物事の本質についてどこまで語る必要があるのかということだ。
しかし、そのように考えるより様々な文化がどのように本質を考えてきたか知ることができると思うと面白く感じる。
内容が東洋思想なのに西洋思想をバックに感じる。
まず、本質はコトバや意識で世界を分節化されているものだという。
構造論のように捉えているのではないだろうか。
そして本質が普遍的である場合と、モノに固有である場合とを挙げる。
普遍論争のようだ。
本居宣長のもののこころを知るの説明は、実存は本質に先立つという実存主義のようだ。
そのような西洋と東洋の対比を考えながらじっくりと読み進めることができる。
人間が別の場所べつの時代で考えていること、それはどこかで共通項があり限界もあるのだと思いを馳せた。

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2017年09月15日

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言語の有意味的使用に対して、禅はまっこうから反抗し挑戦するかのごとくに見える(p356)というような箇所に惹かれて読み始め、おかげさまで言葉への信頼回復。脳ミソっていったい何次元なんだ? 大変なインパクトでした。

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2013年08月22日

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ネタバレ

『意識と本質』は、人間の意識の仕組みと、その奥に広がる「本質」の世界について、東洋思想の伝統を縦横無尽に駆使しながら探究した、井筒俊彦の驚くべき著作です。確かに、カスタネダがドンファンとの出会いを通じて体験した「別の現実」を、東洋思想の言葉で解き明かそうとしたら、こんな感じになるのかもしれません。
井筒の議論は、私たちの「普通の」意識が世界をどう切り分けているのかという分析から始まります。例えば、私たちが「これは木だ」と認識するとき、実は無限の可能性の中から特定のパターンを切り取っているんです。井筒はこれを「意味分節」と呼びます。面白いのは、この分け方が文化によって全然違うということ。まるでドンファンが、私たちの「普通の見方」が世界の一つの解釈に過ぎないと指摘したように、井筒も私たちの「当たり前」を揺さぶってきます。
でも本書の本当にすごいところは、その先にある「本質」の世界についての探究です。禅の悟りの体験や、イスラーム神秘主義での神との一体感は、普段の意識の仕切りを超えた「別の現実」との出会いなんです。カスタネダが砂漠でペヨーテと出会って体験した世界の見え方の変容と、東洋の賢者たちが伝えてきた体験には、不思議な共通点があるように感じられます。
井筒は、このような深い洞察を、様々な思想伝統を比較しながら展開していきます。イスラームのスーフィたち、道教の達人たち、禅の達人たち―彼らは違う言葉で語っているけれど、どうやら同じような「現実」を体験していたらしいのです。それは、ドンファンが語る「力の場」や「見ること」という体験と、どこか響き合うものがあります。
本書の面白さは、これらの探究が単なる机上の空論ではなく、人間の意識と存在の本質に迫る実践的な意味を持っている点です。私たちの「普通の意識」がいかに限定的なものか、そしてそれを超えた体験の可能性について、東洋思想の伝統は具体的な道筋を示してくれているのです。
現代を生きる私たちにとって、この本は貴重な道しるべとなるはずです。私たちの「当たり前」の認識を超えた世界の広がりを、東洋思想の言葉で鮮やかに描き出してくれているからです。それは、ドンファンが若きカスタネダに示した「別の現実」への扉を、哲学の言葉で開いてくれる本なのかもしれません。

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2024年11月27日

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東洋・イスラーム学の碩学である故井筒俊彦氏の力作。東洋哲学の認識論をベースにした<共時的構造化>論を展開しています。実は長年の間、読みかけになっているので、いつかは完読したいと思ってるのですが。

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2012年12月29日

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この本に出逢って、どのくらいの時が過ぎただろう。

”写真を撮る”ということが自分の業で、それにはその対象の本質を掴むことが必要であるとの思いから、この本を読み始めた。

井筒先生のことを司馬遼太郎は、「天才20人」が一人のひとに凝縮されたようなものだと語っている。

この著作を読み進めるうえでは、少なくとも仏教、イスラム教、朱子学、言語学、現象学、西洋哲学といった思想・思考を知っておいたほうが良い。


30カ国語ができた井筒先生は、そうした思想を原典で読んでいる。

おそらく、メルロ=ポンティやハイデガーなどの著作はリアルタイムで読んでいる筈だ。

基礎的な著作がひどいときには20年遅れで翻訳・出版されるこの国の文化程度を軽軽と越えていた人だ。

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2012年07月14日

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ネタバレ

いわずと知れた、「超・天才」。

「二十人ぐらいの天才が一人になっている」とは、司馬遼太郎の評。

日本におけるイスラーム研究の開拓者として知られるが、その分野は多岐にわたる。

この本を読んで、タイトル通り、「意識と本質」という、これほど言葉として表現するのに難しいことを、ここまで平易な文章で書き表せることに、驚嘆した。

一つの疑問を解消したいがために、様々な本を渉猟していたころ、この本に巡り合えたことに、感謝。

救いの一冊。

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2011年12月02日

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僕にとっては,とても難解で理解できたとは言いがたいが,もし時間が許すなら,もう一度読んでみたい著作である.
交通機関の発達,インターネットの普及等々,グローバリゼーションが進展する中,それぞれの国,民族の基底にあるものに意識を向けることは意味のあることに思われる.

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2011年05月05日

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東洋思想と西洋思想を架橋する試み。至極平易に書かれているが、射程は広く深い。

注意しなければならないのは、本書において東洋に引き寄せて分析・説明されているハイデガー等の西洋思想を、本書だけで理解した気分に陥ってはならないということである。

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2010年11月15日

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生きることに疲れたら、自己啓発本を読んで気を紛らわすのも、小説を読んで現実から逃げるのも、マンガを読んで時を遊ばすのもいいだろう。

だが、本格的に人生の悩みを捨て去りたいのなら、いっそのこと「悟って」しうのもありなんじゃないのか。

井筒俊彦のこの本は座禅を中心とし、東の洋のを問わずの本質を網羅している。

そこにあるのは悟りへの道だ。

井筒の主張では(恐らくは真実だが)この世を分け隔てているのは言葉である。

言葉を全て捨て去ればこの世は一つである。


さて、人間の悩みの中に言葉はいくつあるか?
言葉がなければそれも喪失する。


座禅の先の悟りがいかなるものかもうお分かりだろう。
根元から悩みを絶ちたい方にお奨めする。

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2010年05月23日

Posted by ブクログ

詩は言葉で出来ているものの、言葉なき世界にその根を下ろしている。
詩とは何かを問うすべての人にとって、本書は必読の一冊である。
四元康裕さんより

雑誌・文藝(2009年冬)のアンケートの答え:藤沢周より

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2009年10月15日

Posted by ブクログ

井筒俊彦の文章が初めてわかりやすく感じて、何が書いてあるのか朧げに浮かび上がってきた。

若松英輔が新聞の文芸欄で井筒の偉業を解説して、柳田國男や折口信夫の巫女や神話の話、言語のもつ霊性、アラヤ識、大乗仏教や空海、禅や無の思想などのことを書いていたのが印象に残っていた。自分の読書体験のなかでも井筒の東洋哲学や思想がいろいろなところで目につき気になって仕方がなかった。そうした経緯で彼の著書『イスラーム思想史』が重要な必読書となっていた。しかし哲学と宗教の専門用語と彼一流の深い表現についていけず何度となく途中で読むのを諦めた。彼の思想は難しくて自分には理解するのは無理だと思い込んでいた。
なのに、古本屋で彼のこの本を見つけ思わず手に取った。潜在的な知りたい思いが相手を呼び込んだような気がする。
結果、この本を読んでもっと難しい専門用語の羅列にもかかわらず、今までの彼の本の難解さが嘘であったかのように内容が理解できた。読んでいて驚きとともに気持ちよく何ともいえない喜びすら感じた。

井筒俊彦は人間存在の本質を宇宙生命の根源にまで突き詰めて解明しようとする。哲学や宗教、言語学や認識論、人類学や社会学などあらゆる知を総動員する作業だ。彼は人間が生きて学ぶ目的とそのための課題と方法を示唆する。
それは自分の濫読による知識の混然への啓示のようであり読書本来の目標や方法が示された気がする。真理への道筋を感受することはこれ程力を呼び起こすということを初めて知った。
読みながら、力が湧いてくる経験をした。
入り口に立てた気がする。

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2024年11月25日

Posted by ブクログ

かなり興味深く面白いものの、井筒さんの知識量と引用範囲が広すぎて、時々著書の趣旨を見失いそうになる。後半の8、9、10あたりはかなり難解だった。

表層意識、深層意識。分節、無分節。などなど難しい言葉が結構出てくるものの、かなり丁寧に反復しながら言葉の説明をしてくれる印象。とにかく東洋思想の意識・本質の捉え方は、極めて多層的で反二元論的であることがわかった。サルトルの嘔吐、荘子の道など、読んでみたい本が多く出てきた。

普段自分がどのようにして事物を捉えているのか。言葉無くしてその物の存在を証明することは可能なのか。その物を表す言葉(名前)は何を持ってそれになるのか。つまり言葉には必ず本質が求められるということなのか。

謎は深まるばかり。

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2023年02月05日

Posted by ブクログ

意識とは何か?を知るに非常に勉強になりました。
著者はイスラム哲学、仏教、禅、老荘思想、儒学、ソクラテス、プラトンのイデア論などのあらゆる角度から意識の本質を説明します。
意識にも表層意識と深層意識があり、著者はこの深層意識に立ち現れてくる存在の実体と表層意識に現れる実体の違いなどを様々な思想をでかがりに、さまざまな角度から物の本質を媒介として意識の本質を説明します。
説明された内容はすでに概念化されているため、この概念化を脱した脱概念のむき出しの実在の本質について解き明かします。なかなか面白く手応えがある読み物ですが意識を知るに大変参考になりました。

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2022年05月14日

Posted by ブクログ

ネタバレ

サルトルは嘔吐で、神降ろしに失敗して、それが"得体のしれない"ものに見えた。悟りや禊を終えてないものが、偶然、原初の存在を見せられるとどうなるかを示している。

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2019年12月19日

Posted by ブクログ

手が届きそうで、そうはいかない。そう易々と分からせてもらえない。なのにあとちょっとで届きそうだから追い求める。また今度リベンジしてやる。

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2009年12月08日

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2025年3月11日、グラビティで京大医学部目指してて京大理学部合格したと報告してる高三の子が投稿してた。試験問題を撮影した画像を載せてたらしく、京大入試問題だったのかな?

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2025年03月12日

Posted by ブクログ

とりあえず、読んでみたで終わる
残念ながらほとんど理解できず、井筒さんの世界観や考え方を勉強してから再チャレンジしてみる

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2024年08月30日

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本質をどう認識するのか(あるいはしないのか)という切り口から東洋哲学を分類し、論じた本。主張の全体像を見失わないようにしながら、かつ詳細をちゃんと理解するのはすごく骨が折れる作業だった。

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2013年06月09日

Posted by ブクログ

 言葉とは、本質とかなにか。哲学的には実に普遍的なテーマだが、それを東洋哲学の視点から語った本は案外貴重だ。とにかくよくもまぁこんだけ幅広くポンポン話が出てくるもので、著者の名を世に知らしめているイスラーム哲学は当然ながら、その出典は世の東西を問わずアリストテレスら西洋古典哲学に、儒学・老荘思想に禅の言語論や仏教的世界観、あげくにカバーラまで登場する。ただ、語られている論点は非常に限定されているし、文章自体は難解でもないので、案外読みやすい。あくまで「東洋思想によってどう語られてきたか」という切り口。それほど身構える必要はなく、場合によっては興味のあるところからじっくり読んでいけばよい。ただその場合、目次・章立てが非常に貧弱なのが難ですが・・・・・・

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2011年08月25日

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