暮しの手帖編集部のレビュー一覧
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2024年刊。
「暮しの手帖」、1948年から77年まで、そのポスターと新聞広告、全144ページ。すべて花森の手書き、そのキャッチコピーも花森による。とくに中吊り広告と書店用ポップには溜め息が出る。
巻頭の河津一哉のエッセイがいい。19歳、九州から上京したその夜に「暮しの手帖」に出会い、その8年後まさかの編集部に勤めることになった。花森編集長との個人的なエピソードも紹介している。花森が綴った「従軍手帖」への言及もあり。
(p.s. 書名『花森安治の広告デザイン』はmisleading。花森がほかのところの広告も請け負っていたとも読める。) -
Posted by ブクログ
七十三人分の随筆を読んでいると、当然のことながら既に読み親しんでいる人もいれば、名前は存じ上げているものの著作には手が伸びていなかった人もいる。この随筆集を読む切っ掛けとなったのは津村記久子や岸本佐知子が何を書いているのかが知りたいからであったりするのだけれど、読んだことのない人の中にも、今度はこの人の本も読んでみたいなと思わせてくれる人もいるし、ちょっと自分には荷が重いかもと感じてしまう人もいる。そんな出会いがこのような随筆集のいいところなのかも知れない。
第一集同様「あなたの暮らしを教えてください」という問い掛けに答えた随筆の中から「日々の気付き」に関するものを集めたという第二集。「忘れないでおくこと」とのタイトルの本の扉には『無心でからっぽな、この美しいもの』との言葉がある。その言葉の意味は読み終えても尚つかみかねるけれど「忘れないでおくこと」というタイトルにはピンとくる。
随筆は概ね年代順に並んでおり、2007年から始まって2021年のものまで。その間「忘れないでおく」と皆が思ったであろう二つのことがあったことは、静かに、だが確かに、随筆の並びの中に、そして特に2011年以降の随筆に、通底しているように読める。けれど一つ目の大きな出来事の記憶は、時が経つとともに少しずつ意識下の浅いところから深いところへ沈んでいく。その沈みゆく様が、別々の人の随筆でありながら見て取れるように思うのは不思議な気もするし、やはり人というのはミームのようなものに支配されている生き物なのだと再確認するだけのことなのかも知れないとも思う。そうして最初の大きな出来事が徐々に意識下の深いところへ沈んでいったと思ったら、その次にはより汎世界的な規模の出来事が起こり、そこからまた随筆の調子も少し変わる。巻末に置かれた中島京子の『忘れないでおくこと』で言及されているパオロ・ジョルダーノの言葉を引くまでもなく、心への大きな負荷は余りにも鮮明過ぎて忘れようがないと思えるが、岡崎京子が言ったように「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」な生き物なのだ。
「忘れないでおく」と思うことは、当たり前だけれど、過去のこと。それがついさっき起きたことだとしても、既に何十年も、ひょっとしたら自分が生まれる以前の歴史上の出来事だとしても、過去に属している。「属している」と整理した途端に気付くのだけれど、この言葉が示唆する行為は「コト」を「モノ」として見てしまう思考に繋がり易い。過去をモノ的に捉えて記憶に留めようとすれば、記憶の劣化に伴ってそれはいつか忘れ去られてしまう。けれど「忘れないでおこう」という思いはコトであり、その視線は未来に向いている。記憶を情報(モノ)として覚えておくのではなく思考(コト)として覚えておくには行為が必要だ。多分、お祭りや儀礼の決まり事や所作も、忘れないでおく「コト」の工夫なんだろうなと随筆集から思考がふらふらと漂っていく。随筆を寄せている人の多くが日々やっていることを書いているのもそんな無意識の心の働きなのかも知れない。何故そんなことをやっているのか理由も忘れてしまったようなことでも、それを繰り返す内に解ることもある。それはひょっとすると「蘇る」思いなのかも知れない。 -
Posted by ブクログ
本を頭の中で音読するように読むようになって気付くのだけれど、句読点や改行などの息遣いがピタリと読む速度に合う文章とそうでない文章とがある。もちろん、音読すると言っても実際声に出す訳ではないが、読む速度は自ずと呼吸のリズムに合わせたものとなる。だから、自分の呼吸に合う心地よい拍の文章と息苦しい拍子の文章がある、と言い換えた方が感じるものに近いかも知れない。とは言え、読み進める内に拍子が合って来る人も居るので、必ずしもこちらの息遣いは固定された感覚ではない。ただし、音楽でいうところの速度記号の表示がある訳でもないので、適切なテンポが判らないままの文章もある。逆に読み慣れた作家などの文章はその作家の(場合によっては想像上の)声で再生されるので、自然に聞き入ることができる。七十人分の随筆を読み進めていると、そんなことが気になってくる。
そして、当たり前のことだけれど、文章には個性が出るものだなと、改めて強く思う。三崎亜紀の随筆は三崎亜紀の小説を読んでいるようだし、蜂飼耳の随筆は蜂飼耳の詩を読んでいるようだ。片桐はいりの随筆は片桐はいりの芝居を観ているようだし、山根基世の随筆は山根基世のナレーションを聴いているような感覚で、その再生された声を聞いてしまう。言いたいことがはっきりしている人も(例えば内田樹の随筆はいつもの内田樹節だし)、言いたいことを自分に問うかのように書いている人も(例えば木内昇の随筆は木内昇の小説同様に時間を遡ることが問い掛けの芯にある)、短い物語のように書く人も(例えば長嶋有の随筆は限りなく創作された一篇のよう)、とりとめもない出来事を記すように書く人も(例えばイッセー尾形の随筆は独り語りの芝居の訥々とした台詞にも聞こえる)、それぞれの声が、それぞれのテンポで語り掛けてくる。もちろん、対話の方法として対面で会話することに勝ることはないと信じてはいるけれど、文字だけでも伝わる「言葉では言い表し切れない」思いというものも確かにあるということがよく分かる一冊だ。
副題の「あなたの暮らしを教えてください」という出版社からの依頼に応じて寄せられた原稿用紙三枚から四枚ほどの随筆。けれども、案外と自分自身のことを語っている人は少ない。自分のことより、亡くなった人(特に両親、祖父母)の思い出、子供の話が多い。それもその筈、本書は暮らしの手帖に寄せられた随筆をテーマ毎に集めたシリーズの一冊だが、この一冊は「家族、友人、恩師」にまつわる文章を集めたものだという。それがタイトルに言う「何げなくて恋しい記憶」となり、「あなたの暮らしを教えてください」の返答になるのは、知人の「死」が自分の視線の先を自分自身に引き寄せてしまうからだろうか。例えば最も自分のことを語っていると思う木内みどりの随筆は(木内みどりのあの台詞回しさながらに威勢よく)自身の死後の始末の話を語ってはいるけれど、そこに思いが至る前段階で身内の死が関わっている。赤の他人の死ではなく、知人の死は誰にとっても自身の行く末を投影する鏡のようなものなのだ、と認識する。逆に川内倫子ら子供の話をする人は、その視線の先にどうしたって(川口倫子の写真に映る淡い思いと同じように)自身の子供時代が重なっていて、その更に先に親や祖父母の、子供時分には解らなかったありがたみに対する感謝が透けている。
だからこそ、編者がまとめたこれらの随筆にはどれも、どこかしら郷愁という言葉の響きがする。その感覚は失われてみなければ実感として湧かない感覚であるからこそ「何げなくて恋しい記憶」となるのだろう。けれど室生犀星が「ふるさとは」と謳ったように人は皆郷愁の中に留まることは出来ず「そのこころもて遠きみやこにかへら」なければならない。Life is going on。そして『奇跡は、いつも目の前にある』。しみじみとそんな思いに耽る随筆集。 -
Posted by ブクログ
文字の多さもあるが内容の重要さもあってか、読みきるのに3週間もかかった。兵士の見てきたモノや死者の数、爆弾の威力や投下数、それだけが戦争ではない。「普通の人々の生活」が戦争に翻弄された。その体験1つ1つが身に染みて、真に迫るものがあった。あとがきを書かれた編集者のお祖母様の言葉「戦争はじょじょにじょじょにやってきた」というのが印象的であった。いま再びきな臭い世の中だと、戦争経験者が口を揃えて語っているという。「じょじょにじょじょに」私たちは戦後を終わらせようとしてないか?加担してないか?思考を停止せず、しっかり生きていかなければならないと感じた。