ハンナ・アレントのレビュー一覧

  • 人間の条件

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    第1章 人間の条件

    [要旨]

    〈活動的生活〉は人間の3つの基本的な人間の条件である、労働・仕事・活動を示すものである。その中核は、不死への努力である。一方で、それと本性上矛盾する形であるのが、〈観照的生活〉である。これは、絶対的な「静」を理想としており、永遠なるものの経験をその中核にもつ。そして、ローマ帝国の没落や永遠なる個体の生命を説くキリスト教の福音が、西洋人の排他的な地位を占めるようになったという2つの事件を通して、不死への努力が空虚なものとなったことで、前者は後者の侍女となり下がってしまった。近代がこうした伝統と訣別し、ヒエラルキーの転倒がマルクスとニーチェによって行われたが、〈活動的生活〉の中核である不死への努力が忘れられたままであったので本質的な違いは生まれなかった。

    第2章 私的領域と公的領域

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    2015年02月24日
  • 人間の条件

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    この本は、生き甲斐を考える上での思考の土台を作ってくれる。自分探しの前に読むべき。
    人間の条件を、「労働」「仕事」「活動」の三点から、数多くの思想家の言葉や書物や当時の科学の発見を引用しながら、淡々と現したものである。その幅は広く、そして深い。理解に達しているとは言い難く、これから何度も読むことになりそうだ。
    結局のところ、どう生きるかは、どう世界を捉えるかとほぼ同義である。故にその前提を何処に置くかが重要である。生物学的にヒトだとしても「人間の条件」を必ずしも有しない、というのがこの本の言いたいことでもある。
    友情ものの物語では、「ヒトは一人では生きていけない」という思考停止ワードだけで終わらせるところであるが、この本は最初に提示した三つの言葉を中心に掘り下げる。補足もたくさんあり興味深い。

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    2014年07月10日
  • 人間の条件

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    本書では、「活動的生活」の中核たる不死への努力を浮き彫りにしている。第1章によれば、「活動的生活」は、労働、仕事、活動という三つの活動力からなる。第2章によれば、かつてポリスでは家族という私的領域を前提とし、その上に公的領域での政治的活動は展開されていた。しかし、公的でもなく私的でもない社会的領域が近代に勃興したという。第3章の議論によれば、「労働」とは、生命維持の必要物を生産するための活動であり、マルクスのようにこれを「仕事」と混同すべきではない。第4章は、「仕事」を扱っている。「仕事」とは、耐久性のある物をもたらす行為であり、これが活動や言論が存続するための条件となる。第5章によれば、「活動」は、たんなる生命維持の過程から人間を解放して新しい「始まり」を示す行為であり、これは、人間が活動と言論という他者との関係の中でユニークなアイデンティティを示すことでもある。第6章は、活動的生活と近代の関係が扱われている。それによれば、近代では生命過程こそが最高位に位置づけられるようになり、近代の技術と諸理論は、いわばこれに貢献している。アレントは、労働や仕事が人間生活に不可欠だが、これらからは人間的な生の意味が生じないとを訴えているように見える。

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    2018年02月20日
  • 人間の条件

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    500頁を超え、さまざまなテーマやアイデアが布置されているこの著書をレヴューするのは難しい。
    観照(理論)と対照させながら、〈活動的生活〉内の、労働、仕事、活動の推移を見るというのが概略。
    第1、2章の読みにくさを通り越せば、いくらかアレントの言いたいことが視えてくる。

    神を利用する必要のなくなったあとの哲学書は、別のところに人間の行動の根拠や目的、担保を求めなければならず、
    アレントのそれへの応答が〈約束〉や〈許し〉なんだろうけど、代置された概念は、なんと脆くみえることだろうか。
    それが人間のもつ困難だ。
    そのことからか、アレントは仕事に依拠した科学への関心を示しているんだろう。

    活動、とくに言論に価値を見出そうとする彼女の筆。
    テーブルである公的空間と活動のかけあわせによる論筋は、さすがオオモノ現象学者のもとにいただけはある。
    ただ、言論に何をどう見出そうとしたのかは具体的にはわからない。
    公的〈場〉の設定をした後は?
    〈最大多数の幸福〉という語が散見され、ベンサムが最後に登場しているように、
    おそらくこういうところに、彼女の政治の目的が見えるんだけれども、
    どう政治‐言論と、生の幸福を結びつけるのかという部分は、
    『革命』『暴力』に持越しかな、というところ。

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    2012年07月02日
  • 人間の条件

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    名著だと思う。ハイデガー・ブルトマン・ヤスパース等に薫陶をうけながらも、ナチスの台頭によって、フランスへ逃れ、ユダヤ人として収容所暮らしもしたアレントが、国を失った人間の「生存の恐怖」を感じながら、亡命先のアメリカで1958年に上梓した政治哲学の書である。テーマは「私たちが行っていること」を理解することで、文中では「どうすべきか」という主張を抑制しているが希望も語っている。全体として、西洋古典文明・キリスト教・デカルトの懐疑・ガリレオの科学革命などの分析を通し、生命観・宗教・科学などを分析し、これらの営みが深く政治に関わっていることを指摘している。人間の行動は「労働」(生存のため消費されすぐに消える物を作る行為)、「仕事」(世界のなかで比較的長く残る物を作る行為)、「活動」(演じる等の行為で人の多数性に依存する行為)の三つに分かれる。また、公共は「テーブル」であり、そこに集う人間を集めると同時に切り離す。テーブルがなくなれば、私的領域も消え、ただただ孤独な人間たちが、同じように振る舞うように強制される「社会」が台頭してくる。ギリシア・ローマの古典文明では、公共の領域は人に見られることで「自分が誰か」を示す場であり、はかない生命の人間がその中に「勇気」をもって自己を顕し「活動」することで、不死の生命(名声)を得ようとする場であった。キリスト教はこの価値観を転倒し、世界こそはかなく、「魂こそ不死」と主張した。これによって、公共で不死を得ようとする「活動する人間」の源泉を奪ったのである。しかし、キリスト教的生命観もデカルトの懐疑によって決定的痛手をうけ、「欺く神」の「不条理」のなかで、魂の不死も信じられなくなった。「仕事」は芸術作品のように「世界」にのこる物を樹立しようとする孤独な行為であるが、イデアを「世界」に写し取る行為でもある。イスを作る職人はイスのイデアをみて設計するのだ。プラトンはこの「仕事」の行為を政治に応用し、哲人王が考え、民が行動するという支配を考えた。アレントによれば支配は政治からの逃走である。政治は本来、多数の人間が「活動」することなのだが、「活動」は人の網の目の中で作用・反作用をくり返し、本来、とりかえしもつかないし、一定の範囲に閉じ込めておくこともできない。これを無理矢理、型にはめるのが支配なのである。この型が「仕事」をする人が用いるイデアである。「仕事」は近代の価値観のなかで勝利を収めるが、ガリレオによる望遠鏡の利用は人間に地球外へ離脱することを教え、デカルトの方法的懐疑によって「世界」からも離脱し、存在するものは自分の精神だけとなった。「仕事」をする人間は自分が働く場であり、物を残す場でもある「世界」を失ったのである。こうして、自然への無制限の暴力、環境破壊がおこってくる。「労働」は生存と結びつき、自然のリズムのなかで行動する喜びをともなっていたが、産業革命以降、消費社会の台頭と連動して、リズムが加速され、人間的な行動ではなくなっていく。そして、ただやみくもに消費し生存する形にゆがめられた「労働」だけが残る。ここでは「生命」が「最高善」とされる。歴史は「労働する動物」の勝利の過程であった。現代は「不死」を信じないのに「人の命は地球より重い」と考える時代で、「生きるために働く」のか「働くために生きる」のか分からない時代である。生命を維持するという目的はあるが、生きる意味を見出せないのだ。だが、「目的」ではなく「意味」を思考し、「活動」の「とりかえしのつかない」ことを「許し」、「約束」をして「活動」の意味をふたたび見いだすところに希望はあるのである。アレントは東洋の思想については述べていない。東洋思想がアレントの指摘とどう結びつくのかということは課題として残る。

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    2012年06月01日
  • 人間の条件

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    これはいい本だと思う。広く勧めたい。
    しかし、かと言ってここでのハンナ・アレントの思想に深く共感できるわけではなく、そもそも彼女の思想は私には非常に隔絶したところから不意にやってくる「他者の声」にすぎない。それでも、この本は素晴らしく豊かな示唆に満ち、読者に沢山の思考をもたらすだろう。考えさせてくれる本である。
    ただし、論述が下手なせいもあり、また、発想があまりに独創的なせいもあって、少々わかりづらいかもしれない。たとえばアレントは「活動力」を「労働」「仕事」「活動」の3つに分けるのだが、「労働 Labor」と「仕事 work」の違いは、どうもわかるようでわからない。
    先が見えない(論旨のみとおしがたたない)文章なので、どうもわからないようであれば、繰り返して読むことをおすすめする。

    現代が「労働」(と消費)に覆い尽くされ、活動(他者とのコミュニケーションや論述)や(創造としての)「仕事」が抑圧されてゆく、というハンナ・アレントの予見は鋭い。この本は1958年のものだが、まさに現代は彼女の予想したとおりの事態に至っているのではないだろうか。

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    2011年07月10日
  • 人間の条件

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    1958年、ユダヤ系ドイツ人であるハンナ・アレントによって出版された政治理論を扱う英語版の訳書。彼女自身、ユダヤ人であるという偶然性によってナツィによる迫害を受けた経験をもつため、人間は先天的な要素ではなく後天的で自発的な行動が見止められる存在であろうと説かれている。
    アレント思想のその後の軸ともなる用語-例えば「労働labor」「仕事work」「活動action」-はたくさん出てくる。けれども、ここで強調されるのは、人間が、有機体として種の生命を担うと同時に、個人として独自的な生も担い、誰一人として同じ人間などいないということ。『人間の条件』では、そのような人びとが、それぞれの独自性を保ちながらも、他の人びとと共生してゆく政治について論じられている。

    ※アレント自身の英語が整理されきれていないせいか、時に誤訳があるの。例えば27ページ「アウグスティヌスは、少なくとも市民であることが以前は何を意味していたかと言うことを知る最後の人物」など。
    またアレントの著書の多くがドイツ語と英語で残されているため、訳語の統一が未だに不完全。

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    2019年01月16日
  • 今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢

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    全体主義に対するアレントの見解をわかりやすくまとめた本。読書案内も併録されているので入門にはうってつけだと思う。

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    2026年06月14日
  • 今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢

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    現時点では難しかったが、言っている意味が全部わからないかというとそうでもなく、理解と無理解の間のような難易度だった。
    引用自体はやはり難解だが、その後に続く著者による説明にはギリギリついていけたりいけなかったりだった。
    もう少し易しい完全初学者向けの本も、アレントの著作も両方読みたくなった。

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    2026年05月18日
  • 今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢

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    約100ページと言う制限のためか、抽象的な書き方が多く、具体例が少ないため何の事を言ってるのか分からず、読み切るのがしんどかった。先に同じテーマの「悪と全体主義(仲正昌樹)」を読んでなければ即死だった。要点はまとまっているのでしょうけど、私には、、、。頭がいい人のための入門書。

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    2023年08月02日
  • 今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢

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    「100分de名著」ならぬ、「100頁でハンナ・アーレント」という挑戦的な一冊。
    ハンナ・アーレントを100頁にまとめるというのは、なかなか難儀な挑戦だが、それでも「全体主義」というキーワードを中心に据えながら、できるだけ簡潔にまとめようという著者の意図は伺えた。またこの挑戦はある程度奏功しているように思われた。

    ただ強いて言えば、展開される議論の全体における位置づけが不明瞭に感じられる所があったり、(これは著者の文体の癖かもしれないが)「〜ではない」といった否定語で議論を進めている箇所が散見され、これが読みにくくさせているように思われた。全体のマップを示しつつ、思い切って肯定文体で踏み込んでゆけば、全体がもう少し明瞭になったのではないか。

    いま私たちの社会には、体に纏わりつくような湿っぽく生暖かく重い風がゆっくりと吹いている。「空気を読む」というときに使われる「空気」、まさにその均質で重い空気が社会に垂れ込め、私は窒息しそうな苦しさに悶える。ある人は「新しい戦前」と言ったが、全体主義的社会に傾くこの空気を打破する小さな小さな営みの一つとして、わたしはハンナ・アーレントを読み続けようと思う。難解な書物が多いけれど、少しずつ 少しずつ読み続けようと思っている。

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    2023年01月05日
  • 責任と判断

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    ネタバレ

     こうした問題の議論において、特にナチスの犯罪を一般的な形で道徳的に非難しようとする際に忘れてならないのは、真の道徳的な問題が発生したのはナチスの党員の行動によってではないということです。いかなる信念もなく、ただ当時の体制に「同調した」だけの人々の行動によって、真の道徳的な問題が発生したことを見逃すべきではないのです。誰かが自分の「悪党ぶりをあらわに」しようと決心し、折りさえあれば、モーセの十戒の掟を逆転させて、「汝、殺すべし」という命令から始めて、「汝、嘘をつくべし」という掟で終わるような行動を試みることがありうることを理解することは、それほど難しいことではありません。
     どんな社会にも犯罪者がいるのは周知のことです。犯罪者の多くは、かなり想像力に欠けた人々のようですが、なかにはヒトラーやその取り巻きに劣らぬ才能を備えた犯罪者もいるかもしれません。ヒトラーとその取り巻きがやったことは悍(おぞ)ましい犯罪ですし、これらの人々がまずドイツを、次にナチスによって占領されたヨーロッパを組織した方法は、政治科学においても、統治形式の研究においても重要なものです。しかしこうした犯罪はどれも、道徳的な問題を提起するものではありません。
     道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。こうした普通の人々は、道徳的な基準が社会的にうけいれられている間は、それまで教え込まれてきたことを疑うことなど、考えもしなかったでしょう。この問題、この事実が提起する重要な事態は、ドイツの国民がナチスの教義を信じつづけたわけではないこと、僅かな期間の予告だけで、「歴史」がドイツの敗北を告げただけで、元の道徳性にもどったことです。この問題は未だに解決されていないのですし、わたしたちはこの事実に直面しなければならないのです。
     ですからわたしたちは、「道徳的な」秩序の崩壊を、一回だけではなく、二回、目撃したのだと言わざるをえません。戦後に「通常の道徳性」に唐突に回帰したことは、ごく当たり前のようにうけいれられていますが、このことは道徳性そのものへの疑念を強めるだけなのです。

     こうして思考という危険で成果のない営みの最後の、おそらく最大の危険性が生まれます。ソクラテスの取り巻きには、アルキビデスやリティアスといった人々がいました。これらの人々は、ソクラテスのいわゆる弟子たちのうちでも最悪の弟子だったわけではないのですが、アテナイのポリスに深刻で現実的な脅威をもたらしました。それもシビレエイのソクラテスによって麻痺させられたからではなく、アブのソクラテスによって目覚めさせられたからでした。
     これらの人々は目覚めて、勝手気ままな行為とシニシズムにたどりつきました。これらの人々は思考することも教えられて、しかも理論を学ぶことができなかったので、ソクラテスの思考の吟味の成果のなさを、否定的な成果へと変えたのでした。敬虔とは何かを定義することができないなら、敬虔であることをやめようというのです。これは敬虔について議論することで、ソクラテスがもたらそうとしたこととはまさに正反対のことでした。
     意味を追い求める営みは、すでにうけいれられているすべての理論や規則を容赦なく新たに吟味し、解体します。これはいつでも、みずからに向かう刃となって、古い価値を逆転させて、これを「新しい価値」として宣言することができます。ニーチェがプラトンの哲学を逆転させたときも、まさにこのことを行ったので、プラトンを逆転させてもプラトンのままだということを忘れていたのです。マルクスはヘーゲルの哲学を「逆立ち」させながら、あくまでもヘーゲルの歴史哲学を構築してしまったのです。
     このような思考の否定的な成果は、古い価値と同じように、思考を伴わないありきたりの営みとして、眠りながらでも使うことができます。こうしたものを人間の行為の領域に適用した瞬間から、思考のプロセスを全く経験していないかのように進むのです。わたしたちはニヒリズムを歴史的に位置づけたり、政治的に非難したり、いわゆる「危険な思想」を思考したりする思想家のものと考えがちですが、実はこのニヒリズムと呼ばれるものは、思考の活動そのものに伴う固有の危険性なのです。危険な思想というものはありません。思考そのものが危険なのです。そしてニヒリズムは思考の産物ではありません。ニヒリズムは伝統を固持する傾向の裏面なのです。ニヒリズムとは、現在のいわゆる確立された既存の価値を否定しながら、そうした価値にあくまでも固執するところから生まれるのです。
     批判的な吟味を行おうとすれば、まずすでにうけいれられている意見とその「価値」が意味するものと、その暗黙の前提を調べることで、少なくとも仮説としてはこうした意見や価値を否定するという段階を経る必要があります。その意味ではニヒリズムは思考につねに存在する危険性とみなすことができるでしょう。しかしこうした危険性は、吟味されていない生は生きるに値する生ではないというソクラテスの信念から生まれるものではありません。そうではなく、もはや思考し続ける必要がなくなるように、なんらかの成果をみいだしたいという願望から生まれるのです。思考はどんな心情にも危険なものであり、新しい信条を生みだすものではないのです。
     こうしてみると政治的にも道徳的にも、思考しない方が望ましいと思われるかもしれませんが、思考しないことにも固有の危険性があるのです。人々を吟味の危険から隔離してしまうと、それがどんなものであっても、その時代にその社会で定められた行動規則に従うように教えることになります。人々が慣れ親しんできたのは、規則の内容でも、特定の事例を包摂する規則を所有することでもないのです(もちろん規則の内容を吟味することは、つねに人々を困惑させることになります)。ということは、人々が慣れ親しんでいるのは、自分で決める必要のない状態だということなのです。
     ですから、なんらかの理由や目的から、古い「価値」や徳を拒絶したいと考える人がいたら、その人は新しい決まりを提示しさえすればよいのです。この新しい決まりを確立するには、矯正も説得も不要です。新しい価値が古い価値よりも優れたものであることを証明する必要もないのです。人々は、古い決まりをうけいれるようになるのが素早いほど新しい決まりを自分のものとしようと努力するでしょう。特定の状況のもとでは、こうした逆転がきわめて容易に行われうるという事実は、そのときすべての人が眠っていたのだということを示すのです。二〇世紀にはわたしたちはこうした経験にいくつか直面しました。全体主義の支配者がいかに、西洋の道徳性の基本的な掟を逆転させることに成功したかをご覧ください。ヒトラーのドイツでは、「汝殺すなかれ」という掟が、スターリンのソ連では「汝の隣人について偽証するなかれ」という掟が、最も簡単に逆転されてしまったのです。

     政治体において平等はそのもっとも重要な原則であるが、社会におけるもっとも重要な原則は差別である。社会とは、政治的な領域と私的な領域にはさまれた奇妙な領域で、どこか雑種のようなところのある領域である。近代の訪れとともに、ほとんどの人は社会のうちで過ごすようになった。わたしたちは壁で囲んで守ってくれる自宅から足を踏みだして、公的な領域のしきいをまたいだ瞬間から、わたしたちが入るのは平等を原則とする政治的な領域ではなく、[差別を原則とする]社会という領域なのである。わたしたちは生計を立てるため、または職業につきたいと願うため、あるいは他人とともにあることの喜びに誘われたいために、この領域に入らざるをえないのである。そしてこの社会という領域に足を踏み入れたとたんに、「類は友を呼ぶ」という古い諺にしたがって制御されているのである。
     社会で重要なのは個人的に優れた特性ではなく、人々が所属する集団の差異である。ある集団に帰属するということは、同じ領域のほかの集団を差別することで、その集団の一員として識別されねばならないということである。アメリカの社会では、人々は職業、所得、人種の差異に基づいて集団に集い、ヨーロッパでは階級の差異、教育、作法に基づいて集団に集う。このようにして他の集団との差異を明確に示すのである。人格という観点からは、こうした差異に基づくやり方は意味のないものである。しかし問題なのは、社会的な領域では、人格というものが存在するのかどうかということなのである。いずれにせよ、なんらかの差異と差別がなければ社会は存在しなくなるのであり、自由な結社と集団の結成の重要な可能性が失われるのである。
     大衆社会とは、差異の境界をあいまいにして集団の違いを均らす社会であり、これは個人の全人格的な一体性よりも、社会そのものに危険をもたらすものである個人的な全人格の一体性の<根>は、社会的な領域の彼方になるからである。しかし順応主義は大衆社会だけの特徴ではなく、すべての社会でみられるのもである。その集団たらしめる差異の全般的な特徴に順応しない人々は、その社会的な集団にうけいれられないのである。アメリカにおける順応主義の持つ危険性は(これはアメリカ合衆国の建国以来の危険性である)、住民がきわめて不均質であるために、社会的な順応主義が絶対的な力を発揮して、国民としての均質性に代わる傾向があることだ。
     いずれにせよ政治体にとって平等が不可欠なものであるのと同時に、社会にとっては差別と差異は不可欠なものなのだ。だから重要なのは、どうすれば差別をなくすことができるかではなく、どうすれば差別をそれが正当に機能する社会的な領域のうちにとどめておくことができるか、そして差別が破壊的な力を発揮する政治的な領域に、はいり込まないようにできるかということにある。

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    2023年03月29日
  • 人間の条件

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    現代では、人が「必要」から解放され、自由のままに自分が自分であることを表現できる「公的領域」が無くなってしまっている

    ■本書のメッセージ
    ・人間は「労働」「仕事」「活動」という3つの活動力で、人間は環境に関わる
    ・かつてギリシアのポリスにおいては、「活動」が公的領域でなされた。言論によって、自分が何者であるか、他者と異なるということを示していた
    ・しかし、現代にかけて、公的領域は消滅した。人間の自由な活動は無くなり、生命維持のための必要にかられた労働偏重の世界となっている
    ・公的領域は無くなり、私的領域が全体に拡大しつくした現代において、本当に、個人本来が自由に生き、行動をすることは極めて困難となっている

    【感想】
     生命維持の活動に追われていて、人間本来の活動ができていないのでは、という主張には納得する。これだけ働かないと生きていけない社会はどこかおかしいと思う。現代はどれだけの人が自由さを感じているだろうか。起きている時間の大半を仕事や労働に費やしている。社会のシステムが、それを人々に強いているなと思う。 

     哲学や社会思想家の基礎知識と、偉人たちの論理が自分のアタマの中で整理できていないと、読むのに大変苦労する。哲学科の大学4年生か修士ぐらいの前提知識が要求されている気がする。アリストテレス、プラトン、マルクスなど、有名な哲学者や思想家をたびたび引用しながら語れるが、そもそもその偉人たちが哲学界でどういう位置づけたるかを知らないと、筆者の主張とどう対比されているのかが読み取れない。

     分厚い哲学書は初めて読んだ。読書会で3回で読んだ。自分の主張の正当性をアピールする手法が、社会科学と異なることは、私にとっての発見だった。とにかく文章を重ねて綿密に論理を練る。過去の偉人たちの主張を借りながら、自分のコンセプトを述べていく。データを使ってサポートするのではなく、偉人や有名な書籍の言葉を使いながら論旨展開を行う。そこそこ説得力はあって、「まぁそうかもな」とは思わされる。
     社会科学者の研究は、こういった哲学者たちの作ったコンセプトや問題意識の延長線上にあるのだろうな。

     読んでもここまで理解が困難な文章は初めてだったかもしれない。著者はドイツ語を母国語として、英語で書いたというから仕方ないのかもしれないが。文章が極めて下手なので、人に薦めづらい。主張やコンセプトは練り上げられているから、惜しい。

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    2022年08月13日
  • 人間の条件

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    とても難しい。何を問題にしていいるかさえ最後までわからなかった。自分の力不足なので、一応最後まで目は通したが、またチャレンジする意味もこめて読書中とする。ところで、この本、料理研究家の土井さんが読んでいるので手にとったのだけれど、こんな本をよんでいるなんてある意味敬服した。

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    2024年07月22日