井戸川射子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
二篇ともめちゃくちゃよかった。
読みにくくて挫折とかは、私は感じなかった。
見えるものや聞こえる音、視点の移り変わりが全部書かれているので、圧倒的に主人公が「生きている」感じが表現されていて凄いと思った。
【ここはとても速い川】
心に残る場面はいくつもあるけれど、
32ページの『列に続いてないとおばあさんも気づいてまうやろう。屋根もないから太陽も雨も先に生えてるもんたちと分け合えるやろう。』
これは植え替えられた花についての一文として読んだけど、施設で生活している子とそうでない子の比喩なのかな?と感じた。
集もひじりもどうか幸せに暮らしていてほしいと思うラスト。
【膨張】
アドレスホッパーという単語だけは知っていてもあまりどんな暮らしをしているのかは知らなかったので面白く読んだ。ただ、これは解説にもあったけれど新しいライフスタイルを説く話では全然なくて。
後半、すごく苦しく切なかった。 -
Posted by ブクログ
「ここはとても速い川」
施設で暮らす主人公「集」は5年生。
一緒に生活している一つ下の親友「ひじり」とのやり取りや、ひょんな事から知り合う若者「モツモツ」と決行したある作戦、夏休みの宿泊訓練など、日々の出来事が集の目線で語られます。
ダダーっと一気にしかも次々に話題が移っていくこの文体がすごくいい。整っていなくて子どもが話しているそのままの感じ。あっちこっちに飛びながら時々フッと出てくる言い回しや比喩によって、この世界にググッと近づく感覚が読んでいておもしろい。
子どもらしい文章の中に急に差し込まれる、集やひじりの抱える問題にギクッとしたり。集の心境が垣間見えて切なくなったり。出てくるアイテム(亀ゼリー、スライム、アガパンサス、絶品チーズバーガー…他多数)もいちいち情緒的。
「膨張」
主人公「あいり」は特定の定住する住居を持たず、ゲストハウスやホテルなどを転々としています。
こちらもあいり目線で心情がつらつら移り変わっていく文体。そこに乗っかってあいりを追体験しようとするのですが、掴みどころがない。なんとかくらいつくもラストでは見事に振り落とされました。えーっ?何なに!?
これは、他の井戸川作品も気になる〜 -
Posted by ブクログ
ネタバレ井戸川射子さんは詩人だそうだ。
詩はまだ読んでおらず、この小説が凄いと、石井千湖さんの紹介をきいて、手に取った。
なんという繊細にして大胆な子どもらの描写。
ワンパラグラフが長いように思う。そして、あまりに息継ぎもなく、流れるように、日常の中で意識が止まらないのと全く同じように、主語、語り手である集くんの、頭の中によぎることや確信に至るか至らないかに限らず考えていることが、情景風景ほかの人との会話なども絡みながら、さらさらと、ちくちくと、織り出されていく。
パラグラフは一気に読まないとダメだし、一気に読ませる。ここに伝えたいこと、他人じゃなくても自分に言い聞かせたり残しておきたいことだから息継がず一気だ。
それで、一気に読み終われるかというと、どうにも胸が詰まり時々休まないとこちももたない。
子どもたちはきちんと自分の欲望やもしかして他人の欲望の犠牲(いわゆるハラスメント)と感じることをノートに書き留めている。
児童養護施設では一般の家庭より詳しく性に関する教育注意喚起をしている。ルールもきちんと決められていてその運用を年齢とともに各自工夫している感じがする。そんな中でもこれおかしい?感じ悪い?セクハラ?と思ってしまいようなこと、微妙な感じで、どうなん?て躊躇しながらも記録はとっていく。子どもだから判断能力ないとか、思い違い思い込みでは?とかよく大人サイド加害者サイドが言い訳して逃れてるけど子どもや子どもでなくてもされてる方はわかっている、ということをつきつけてくる。
道や草や川、夕焼け、建物が光を取り込む様子ととにかく敏感に違いや整いや整っていないことを繊細に言葉にする。園長先生への、ひじりのノートに関する対応を走って確かめようと、自分のこれまでの既に重い局面をたくさん経験していることについての考えも確かめようと畳み掛けるように質問が繰り出されるところ、目の端に涙がたまる。
川の流れが早くてひじり君を助けようと集君も流されてしまう。死の恐怖とか、よりも、なにか掴むもの、しがみつかないと!と思い、先生は下で捕まえるからそのまま抵抗しないで流されて、という。これが生きるということで子どもは子どもなりに、大人、先生、責任を負うものはそれなりに体得している。
そして随所に出てくる川の流れ、水の流れ、それは一筋の流れではなく、たくさんのそれぞれ個別な流れが集まりぶつかり合いできているのだと。これが世の中というもの。
自分は子どもの頃でもこの子たちみたいに世界をみれてなかった。さして不足もなくさして疑いもなく、なんかおもしろくないなとは思ったかもしれないけど、大きく足りてないものはなかったから細かいことも気にならなかった。それでも子どもの頃も今も大人になっても少し上流に行ったり下流に行ったりすれば景色がぐっと変わることに衝撃に近い感銘を受けることがある。梅田のビル群が見えるようなところに豊かな淀川がありこの子らの住む施設もあるのかと思うとその事実がまたなんともいえぬ事情となり、深い感慨となる。
おばあちゃんとの、連鎖し繰り返しくる悲しみと不幸せとその中で幸運だよかったと思えるようなことを確認するような会話。おばあちゃんはどうしようもすることができないことをすまなく感じているが、そんなに悪くないとも孫に精一杯教える。集くんは、施設のテレビで映画を見ながら、いい人悪い人を見分ける練習をするようにしているのだ。登場の仕方に注目すべきだ、と。
ママが集くんを産んだ時、男の子と知って、
よかったねえ。悲しいことは起こりにくい。こんなに血を出さんでも、自分の子どもに会えますわ。母港や母国の母の字の、一部にならんでええんやわ。、、と節をつけていっとった、とおばあちゃんが思い出すくだり。まさにこのことがフェミニズムに関わる問題そのもの。母がつく言葉の一部になりたくない。
タンスのささくれだったところを触りながら、家具に生まれ変わるのもよいかもな、馴染んでも気にもされずいて使い終わりも自分で決めないから。というくだりが圧巻である。この子らは、集くんを生きるためのちょっとした知恵(悪気のあるものや打算的なものではない)や、それ以上に否応なしの死生観を持っている。
同じ文庫本に収録されている、膨張という作品は作者、詩人の小説第一作だそうだ、ここでも繊細な詩的な言葉が連なり連なり、シーンが変わるところまで息を継げない。塾の生徒たちをみて
散在するかたまりたちがほどけていって、集まる若さは噴水だ、小さくても見応えがある。歳をとると川になってしまう。…どれも混ざり合わない、大きな水の流れ
という文章などがあり膝を打つ感じなのだ。でも、ここはとても速い川、ほどの共有感、共通感覚はない。あまりにも痛々しく現実的で読む方も避けてしまうからかも。
関西弁で、笑ったらちよっとわるいとこだけど笑ってしまうような速い川の子どもらや少しずるこくそれを気づかないふりして自分なり言い訳がましく生きてる大人たちの生き方暮らしぶりより、標準語でもっと堅苦しい言語を用いてアドレスホッパーなる部外者からは信仰宗教、カルト的に見える背景があるからだと思う。関西弁て、生粋の関西人でなくでもなんらかの共有体験がありニュアンス分かる人には最強の言語ツールであるな、とも。関西弁の方が身体感覚強い気がする。これは蛇足。
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Posted by ブクログ
「ここはとても速い川」と「膨張」の2編が入っていて、星4はほぼ前者向けです。
「ここはとても速い川」は、小学5年生の男子が一人称の関西弁で、頭の中に浮かんだことを全部書き出してる感じ。ナレーション的なものがないので、わかりにくい部分もあるけど、これが本当に小学5年生の子どもの全思考だとすると、ストレートな強い感情とともに繊細な思いもたくさんある、というところに感動しました。
「膨張」は出だしから「?」の連続。こちらも一人称で書かれていて、しばらくは訳がわからなかった。
ようやく状況がわかってくると、まあまあ面白くなるんだけど、いろいろと共感できない点が多くて、突然の終盤がプツッと終わった時、作者は何が言いたかったんだろうなと思いました。 -
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あなたは、嘗ての幼い娘達と多くの時間を過ごしたショッピングセンターの喪服売り場で働く。そんなあなたは、そこのフードコートの常連である少女と知り合う。一歳の弟の子守りに苦労していると語る少女の姿に、あなたは嘗ての自分を重ね合わせる———
(この世の喜びよ)
語り手はフードコートの少女と、かつての自分を重ねている。1歳の娘を持っていたかつての自分と、1歳の弟の世話を焼く少女を。少女の目線から見れば、語り手の存在は、子育ての先輩という面も持っていたが、同じ悩みを持つ友人と思っていたのではないかと思う。それは、語り手自身が、人と会話するときに、自分と相手の間に若いときの自分を一枚挟んでいることが原因であるとも考えられる。そして、何度目もの会合の先に、二人の関係は深まっていく。少女は気の知れた友人として日常の様々なことを相談していく。弟のこと、母のこと、受験のこと、スキンケアのこと。そこまでは語り手も同じであり、自身の娘のことを中心に相談し合っている。しかし、そんな語り手の少女への思いは、少女がそうであってほしいと思っていた友人同士という関係から少々逸脱し、母娘に近い関係へと変化してしまったように思えた。少女は自身の肌荒れを語り手に相談する。そこで彼女が望んでいた返事としては、同情や共感、そして励ましであったと思う。しかしながら、語り手が少女にかけた言葉は心配であった。それは、これまでの二人の会話に何度も登場してきた、語り手が自身の娘に届ける言葉のような姿をしていた。聞きたかった言葉とは似つかぬ形を突きつけられた少女は語り手の目に、どんどん小さくなる自身の背中を見せつけた。そんな光景は奇しくも、少女の年齢に見合った、母に対する小さな反抗のように見えた。
そんな展開、見ているこちらの胸が痛むような語り手と少女の思いの交錯からの、ラストシーンまでの流れが、本当に美しかった。この世にあるいくつもの喜びのなかから、自らの胸をいっぱいに満たす喜びを再び手にした語り手。若者でなくても、自分の胸は何度だっていっぱいにしてもいい。その喜びを、語り手にはこれからも手放さずに大切にしてほしい。
少女を通して、語り手は過去の自分と今の自分が混じり合う。かつての私があのときとった行動は、今の私のこの行動へとつながっている。私というあなたと、あなたという私がつながって、少女というあなたともつながった。自身とのつながりが、他者とのつながりがこの物語には紡がれて、ショッピングセンターでの一幕という、小さなお話を幾十にも層が積み重ねられ、これほどまでに大きく魅せている。 -
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家族に、友人に、将来に、そして自分自身に悩む。そんな日々を送る高校二年生の仲良し五人組。彼女達の悩みは多感な今の時期であるからの悩みであり、今の時期であるからこそ、結果を望む。なんともない日々も思い出となり、未来の自分へと繋がっていく———
良い。
高校二年生。彼女達は様々な悩みを抱えるのが常。母の再婚で姉となったり、恋愛に明け暮れたいがスポーツにも取り組みたかったり、自らの顔の一部がコンプレックスだったり、自らの空気の読めなさを自覚していたり、姉妹で仲が悪かったり、家計のためにアルバイトに打ち込んだり。そこでの日々は様々な事象から悩みを刺激されていく。友人間での会話、先輩との会話、家族との会話。自分自身との見つめ合い。
高校二年という時期であるからこそ、自らに悩む。しかしながら彼女達がそんな日々で学ぶことは案外芯を食ってたりする。大人と子供の中間地点に佇む位置から見る世界は、その当時でしか見られない景色。そこから感じることもまた然り。真に大切にすべきこと。自己の形成に直結すること。そんないくつかを平凡な日々から学んでいく彼女達は尊きものであり、それらを体験できる本書は素晴らしく、貴重である。
最近読み始めて気付いたけど、日常を描いた群像劇が好みかもしれない。特に大きな事件は起きず、平凡な日々が描かれる。そんな物語。まだ数冊しか読んでいないが、様々な人物の視点から日常が描かれる様子は、見ていて飽きないし、一冊の本で、複数の人物の人生を体験できるなんて、なんだかお得。 -
Posted by ブクログ
1980年
1987年
1993年
1995年
2003年
2023年
1996年
2004年
2011年
2022年
2024年
家族のことが淡々と語られていきます。
父がいない家庭で、兄弟にもまれて貧乏性に育つ女の子は、なぜか母を引き継ぐように父がいない子を育てていく。
そして起こる2度の震災。。。
忘れたいけど忘れられないトラウマを持ちながら、日々を暮らしていくしかない。
母がばばになり亡くなる。子どもだった自分が母になる。そして、、、
人って何でしょう。生きていくってどういうことでしょう。。。
淡々と、営々と続きます。
そこに勝ち負けはあるのでしょうか?
そこに生きがいはあるのでしょうか?
「家族なんかどれも、外から見たら異様なもんやろう」という言葉が痛かったです。
みなさまは、この作品をどう読まれるでしょうか?
〔作品紹介〕
記憶なんかは幻なんやから、自分の好きな角度速度で眺めたらよろしい。
自然を許すとはどういうことか。
されたことは消えないし、許していかないと自分の心に害が及ぶ。
でも、許すことは、考えないこと、忘れることとは違って――。
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『ここはとても速い川』で野間文芸新人賞、『この世の喜びよ』で芥川賞、『無形』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞!
早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞も受賞した純文学界のニュースター、待望の最新長編!
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1995年、その時、まず驚きだけがあった。母と娘の厚美と三人で暮らす銅子を襲った地震。開けた場所に皆で布団にくるまって感じた恐怖、倒れたミシン、昨日とは違う景色、避難所の体育館、シャワーを浴びにいった梅田……。震災から幾年月、銅子と厚美の日常は続いていくが、あの経験を忘れるということはなく――。
芥川賞作家の静謐な筆致が紡ぎ出す、昭和から令和、母娘三代に流れる「時間」と震災の「記憶」の物語。