「d」と「何も言う必要がない」という2つの中編小説からなる。それぞれ独立はしているが、根底ではつながりあっている。
これについては「あとがき」等で触れられている。
「d」は「ディディの傘」という短編小説がもとで、その後幾度かの加筆、改変を経て本書に収録。
「何も言う必要がない」は「d」執筆後に、筆者が社会情勢を前にある種の使命感をもって書いたものだという。
韓国現代社会で次々に噴出する社会的不合理を前で、戦い、無力感に苛まれ、生活し、悩む人間の心境小説的な作品だ。
読み通すのにけっこう体力が必要な小説だった。
通常の小説の半分くらいのペースで読んだと思う。
言葉一つ一つの意味、エピソードの暗示、人間関係の機微を読みとるのが難しいから。それは難解だというよりは、複雑さを偽ることなく表現しているから、と思う。
次から次へと吹き出る韓国社会の不合理や矛盾を、正解と不正解、善と悪、男と女といった二分法で単純化することなく、目の当たりに感じた市民の感覚を大切に書き綴っている。
矛盾、説明困難、矛先の向けようのない怒りや、どうしようもない無力感、学生運動の記憶、性の多様性を前に、苦労して苦労して紡ぎ出した言葉と感じる。この小説の難しさは小説の構造や言葉にあるのではなく、そういった人間感情の理解の難しさに起因する。
現代社会(あるいは戦後社会も含め)を生きる韓国の市井の人々の心の中にある「つぶやき」を、集めたかのような、だから、その語り口は長い長いtweetのような錯覚を覚えた。
この30〜40年くらいの間に韓国で起こった社会的事件を目の当たりにした人々のつぶやきを一つの物語にしたような。そして、韓国社会がそれに「いいね」したのだ。
登場する年号と日付は韓国人の心に刻印されている。あまりにもいろいろなことがありすぎて、歴史の教科書のように重要な年号と日付が並び、もうそれらを一つのストーリーとしてまとめ、理解することを韓国社会が求めているのではないか。
撤去民をめぐる事件と、セウォル号事故と、朴槿恵弾劾と…それ以前の戦後韓国史や学生運動も含め…一体何があったんだと。
小説全体のプロットやディテイルは、残念ながら読後あまり記憶に残っていない。
残っているのは、韓国現代史のストーリーだ。
でもまあ、だから、それでもいいんじゃないか?