本当なら、全61巻、12000ページあるという「実録」そのものを読みたいところではありますが、さすがに躊躇してしまうので、とりあえず昭和史の研究家の何人かが語っているこの本で概略をつかんでおこうと思いました。
・そもそも「実録」を残すというのは、古代中国の皇帝が亡くなった時に編纂する伝統が生まれ、
...続きを読むその後朝鮮やベトナムにも広がったものだそうで、それでも平安時代には世界中で途絶え、復活したのは「孝明天皇紀」。その後「明治天皇紀」が編纂され、今や日本にしか残っていない伝統とのこと。
・特に昭和天皇は、世界を相手に戦争を行った昭和という時代の帝であるということから、その時天皇はどう判断し、どう行動していったのかを記録に残しておくのは、後世の日本に対して絶対に必要なことでありましょう。
・そんな難しいことはさておき、いくつか得られた知見をいくつか残しておこうと思います。
・昭和天皇がお生まれになったのは明治34年で、その養育担当としては、薩摩出身の川村伯爵なる人物がなったそうですが、その候補選びの中には、「花燃ゆ」に登場している小田村伊之助(楫取素彦男爵)も上がっていたそうな。伊之助は今ドラマで文の姉・寿と結婚しているが、今後、寿とは死別し、その後文と再婚して、維新後は明治天皇の皇女の養育担当になっていくらしい。
・幼少のころは、「世界すごろく」と「相撲」が大好き。動物や魚介類にも関心が高く、現物と図鑑を照らし合わせ、分類や名前を把握することに熱中されていたとのこと。また、イソップ物語を愛し、自ら創作もしていたとのこと。
・4歳の時に、日露戦争における日本海海戦(バルチック艦隊を破る)勝利の報告を受ける。昭和天皇は生まれた時から、軍人としての教育を受けて育つ。
・大正10年に皇太子としてヨーロッパを訪問。エッフェル塔に登ったり(塔を設計したエッフェルさんの案内)、初めて地下鉄に乗ったりしたそうで、「自分の花は欧州訪問の時だった」と晩年侍従長に回顧している。ちなみに、その欧州訪問には「天皇の料理番」も同行しているはず。
・天皇が即位された昭和の初めは、満州事変が勃発し、陸軍を中心に日本は中国大陸に進出。欧州訪問の際、第一次世界大戦の跡地を訪問して戦争の悲惨さを実感していた天皇は、陸軍の戦争拡大には大いに懸念を示していたようで、時には明確に反対の意思表示もされていたよう。
・特に国際連盟脱退のきっかけとなった「熱河作戦」の取消には、相当頑張って内閣や軍に「中止」を求めたようですが、軍部からクーデターまがいの脅しを受けて相当苦悩したとのこと。ここでもう少し天皇が頑張って作戦を中止させていれば、その後の軍の暴走は止められたかもしれないとのこと。まだ若かった天皇にはそれが出来なかったのでしょう。
・天皇は「日独伊三国同盟」にも反対され、再三政府に政府に問いただしたが、その時の松岡外務大臣が延々とその利を説明し、その中で、いずれソ連を加えた「日独伊ソ4ケ国同盟」にする作戦を聞かされる。ヨーロッパはドイツとイタリア、東欧はソ連、アジアは日本が抑えれば、アメリカは戦争に参加できなくなる、という構想。
・しかしその構想は進まず、やがて日米間での戦争が避けられない状況の中で、天皇は最後まで「交渉」による戦争回避を望まれ、ローマ法王による調停の可能性まで言及されている。また、開戦を推していたのは陸軍だけで、海軍は勝ち目なしと判断、政府自身も反対姿勢をとっていた。その天皇がいつ、開戦やむなしと決断したのかについては、この実録でも実際には述べられていない。
・この本の中で解説している半藤一利は、その決断は真珠湾攻撃開始の1ケ月前の11月8日、その日行われた東条英機首相らからの説明で、初めて真珠湾攻撃が準備されていることを知り、「そこまで進んでいるならやむなし」と。
・ただ、その際、天皇が「この戦争の大義は何か?」という問いに対し、東条は「目下研究中にて、いずれ奏上する」と答えている。欧米が支配するアジアを解放して「大東亜共栄圏を作る」という大義は全くの虚構であったようです。
・そして真珠湾攻撃のその日。天皇は午前3時には起き、作戦部隊である海軍の軍服を着て「トラトラトラ」の報告を聞く。決心したうえは、大元帥として勝たねばならぬ、という決意だったのでしょう。
・最初は優勢に進めた戦争ですが、やがて劣勢となってきて、軍部はミッドウェイ海戦や本土空襲について、あるいは国内の兵器状況や食料状況について、天皇には偽装した内容、水増しした内容を報告。一方天皇は、実はアメリカの短波放送を通じて世界の戦況を直接聞いており、状況は把握していたとのこと。また、戦力の把握についても戦力査閲使を使って把握していたとのこと。
・天皇が敗戦を覚悟したきっかけの一つとして、皇太后からの叱責があったとのこと。空襲がはげしくなり、天皇が皇太后に疎開を進めた際、母である皇太后は「私は何があろうと帝都を去らない」とピシャリと断った。これは皇太后から戦争責任を厳しく問われたこととなり、その直後天皇は一両日病床につかれてしまったそう。その後広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦してきて、敗戦を決意したのではないかと。
・日本の政治判断は、常に天皇に責任が及ばぬように、内閣が決定しそれを天皇が承認する形で進めてきましたが、この敗戦だけは天皇が決断される。今後本土決戦を視野に入れた戦争継続か、無条件降伏かを内閣で審議した結果、結論付けることができず、当時の鈴木首相が、天皇にご判断を仰ぐということでそれは実現。このシナリオは、実は鈴木首相と天皇との合作によったとのこと。
と、ページをめくりながらつらづらと記載してきましたが、これまで本や映画でしか昭和の歴史を知らなかった自分としては、随分生々しい天皇に関する情報がいっぱいで、非常に興味深く読みました。その時、その時の天皇のご判断がどうだったのかはについてよくわかりませんが、なんにせよ、今後この「実録」は、昭和を研究する学者たちにとって極めて貴重な資料になることでしょう。