イタロ・カルヴィーノのレビュー一覧
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その都市はいったいどこにあるのか。強大な力を持って果てしなく領土を広げゆくフビライと、地の果てまでひとり行くマルコ・ポーロが、それでもまだ知ることのできない都市と、どこかで見た都市を巡って時を過ごす。見知ったようなそれでいて遠い世界のお伽話が、電車で向かう仕事先とさえ重なり合う重畳された時間の流れの中で、じわじわと響きあう。やがて、読者である自分自身がその都市のひととなった。
電車の中にあって片手をあげて寄り添う人々は、誰ひとり言葉を発せず、互いに隣には誰ひとりいないようにふるまっている。たとえあなたがそこで何を目にしようがそれはあなたの脳が見た景色であって、隣で光る板を睨みながら首を捻じ曲げた若者がそこにいたとは限らない。なぜならその若者にはあなたが見えていないからである。それがトキオの慣わしなのだ。あなたがどれほど信じたとしても、時折電車がゆれて黒びかりするバッグが脇腹を押したとしても、それはあなたが感じていると信じる何かではあっても、存在している証明ではない。その若者がようやく次の駅で降りてあなたのとなりに呼吸する空間が出来たとしても、その若者はあなたの存在を微塵も覚えていない。あなたは存在すらしないのだ。あなたが通り過ぎたトキオの街が本当にあったのかすら怪しい。なぜならトキオの住人は誰一人あなたのことを覚えていないのだから。それでもトキオはそこにある。征服されざる街として。 -
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カルヴィーノの作品は邦訳あるものは殆ど全部読んでたつもりだった。もしかしてカルヴィーノのファンと言っていいかもしれない。幾つかのものは再読すらしているから。「くもの巣の小道」は自分の楽しみのために、「冬の夜一人の旅人が」は若い友人に勧めるために。
しかしこれは未読だった。半世紀以上も馬齢を重ねていれば大概の小説とインド映画の筋は忘れてしまうのだが、児童向小説は比較的記憶から抜け落ちることがない。そしてこの「マルコヴァウドさんの四季」は児童向小説なのである。
子供のために書かれたからと言って、決して楽しい小説ではない。主人公のマルコヴァルドさんはトリーノを思わす工業都市に暮らす労働者だが、かれと4人の家族が惹き起こす騒動に語り手は決して同情的ではない。かれらの愚行に対する冷ややかな距離感が、全篇に独自のペーソスを行き渡らせている。
面白いのは、マルコヴァルド一家の愚行が、ほとんどの場合食べ物に対する欲望によって惹き起こされていることである。飢餓がかれらを愚行に走らせているのではない。かれらはそれなりには満ち足りているのだが、終始美味いものへの欲求があり、それが虚栄心を刺激してやまないのである。
この作品は20の短篇から成っており、5つごとに春夏秋冬に振り分けられているが、それらが厳密に時系列上に並んでいるわけではない。たぶんこの区分は上記のような「美食への渇望」を導入するために設けられたものであろう。
しかしこの小説では美食が事細かに描写されるわけではない。欲望の対象となる「美味いもの」は漠然とフンギのフリッターとかチェルヴェッラとか(チェルヴェッラというのは豚のセルヴェッソから作った腸詰めのこと)ウサギのローストとか書かれているだけである。マルコヴァルド一家がこれらにありつくことは決してないからである。
カルヴィーノには左翼的傾向があるからこの中に資本主義批判を読み取る者があっても無理ないことに違いない。しかし食いしん坊の間では消費への欲求は容易に美食への渇望へと置換される。カルヴィーノもまた自らの(胃の)中に同様の変換装置を共有していたのであろう。だからこそこれらの物語はかほども悲しいのである。同じ胃の持ち主である私にはそれがよく分かる。 -
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ファンタジー以外の児童書は滅多に読まないのだけれど、
児童文学作家の先生が描写がすごい本として挙げていて、読んでみた。
裏表紙の解説を読んで、抒情的なもっとウェットな内容を想像していたけれどとんでもない。
都会の中の自然や、季節のうつろいや音・色・香りなどに対する描写は確かに素晴らしい。
でもそれ以上に現代社会への皮肉が壮絶にこめられていて、読んでいて始終にやにやしてしまう。
子供と大人で楽しみ方が全く変わる作品だと思う。
マルコヴァルドさんやその一家が結構悪いことをするので
(それらもコミカルにユーモアたっぷりに描かれていて大変面白いが)
なかなか日本では出せない作品だなあと感じる。
他の方も書かれていたけど、これを少年文庫にいれる岩波はすごいと思った。その内容の普遍性と言い、描写の美しさと言い、実はかなり文学性の高い作品だと思う。
表紙・挿絵もとても合っていて素敵な本。 -
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若手建築家がおすすめの本ということで手に取りました
イタリアの作家さんの小説です。
あまり自分からは手に取らないたぐいの小説だったのですが、読み始めるとその独特の世界観にいっきに引きこまれてしまいました。
マルコポーロがフビライ汗に彼が訪れた(と思われる)幻想的な都市の様子を語る。という体裁で話は進んでいきます。
11の都市について語られるのですが、その語られ方がとても面白い。
短いパラグラフでそれぞれの都市がバラバラに語られているのですが、それぞれのパラグラフがまるで散文詩のような雰囲気を持っています。
その美しい文体が薄く引き伸ばされたようにレイヤー状に重ね合わされて、その総体として「見えない都市」というひとつの小説になっている。
こんな感じの印象です。
うーん、うまく説明できないのですが、とにかく文章が美しいんです!
とにかく今まであまり体験したことのない読書体験でした。
そして、たくさんのインスピレーションに満ちた本でもありました。
もし、、、もし可能なら、、、
映画化してほしい!しかも3Dで!
そんな希望が湧いてしまう本でした。 -
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ネタバレイタリアの作家イタロ・カルヴィーノが、文学について雑誌などに書いた文章が死後まとめられたもの。須賀敦子が訳している。須賀敦子が訳している小説ではない本を読んでみたかったのが、この本を読んだ理由の一つなのだけど、もともとのイタリア語の文章がそうだったのだろうけど、須賀敦子自身があとがきで書いているように、ごつごつして読みにくい文章も多かった。
表題作の「なぜ古典を読むのか」に始まり、取り上げられているのは、オデュッセイア、アナバシス、オウィディウス、スタンダール、バルザック、ディケンズ、フロベール、パステルナーク、トルストイ、マーク・トウェイン、ボルヘス、パヴェーゼと多岐に渡る。カルヴィーノの読書量には驚かされる。ものすごい。例えば、プリニウスの「博物誌」について書かれた「天、人間、ゾウ」の章を読むと、カルヴィーノは「博物誌」37巻全部を読んだことがわかる。私は、(プリニウスによると)「人間にもっとも近いのはゾウだからこれを精神的な手本にすればいいという。」などと書かれたこの章をおもしろく感じた。
その他では、「オウィデウスと普遍的なつながり」の章の「イアソンとメデアの物語は、そのまま『マクベス』に用いられる」という部分、「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の章で、ボルヘスが「私たちにとってもっとも大切なテクスト」であるダンテについてボルヘスが情熱をもって研究しつづけたことに(イタリア人として)感謝を表明したいと述べた部分などが印象に残った。
「なぜ古典を読むのか」の中で、カルヴィーノは古典を読むいろんな理由を述べているが、私の印象に一番残ったのは次の文章である。
「古典がなんの役に立つかといえば、私たちがどういう人間たちであるのか、どこまで来ているのかを知るためなので、そのためには[イタリア人にとっては]イタリアの文学を読むことが必要になる。自分たちを外国の人々とくらべてみるために。また、外国人[の著作]が必要なのは、これをイタリア[のもの]と比べるためだ。」 -
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ネタバレフビライ汗に、マルコ・ポーロが帝国内の55の「都市」の様子を報告するという形式の小説。
「都市」の姿は、そこで生活する人間の内面の反映である。フビライはマルコ・ポーロのさまざまな「都市」についての報告を通じて、「帝国」の姿を理解しようとするが、それはそのまま人間の精神を理解しようとする試みでもある。
しかし、この「都市」。一体何なのだろう? マルコ・ポーロが語る「都市」は、いずれも異形の街ばかりであるが、その光景はどこかでみたことがあるような気分にもさせられる。そう、それは「記憶」のなかにある「都市」なのだ。「記憶」のなかにある、いわばすべての都市の雛形とでも言えるような、「最初の都市」とは? マルコ・ポーロは言う。「それはただ例外、禁止事項、矛盾、撞着、非条理のみによってできあがった都市でございます。」
フビライは、マルコ・ポーロの報告から、さまざまな「都市」を支配する秩序を理解しようとするが、そこにあるのは理解を拒む「無限の異形性と不調和」ばかりであり、結局手にするのは「無」でしかない。
フビライが知ろうとしているもの。そこに、この小説に込めた筆者の思いが込められているように思われる。フビライは言う、「朕がその方の声を通じて耳傾けておるのは、都市が生存し続けてきた目に見えぬ理由、またそれゆえにおそらくは滅んでもなお再生するであろう理由なのだ」。
そして、最後のマルコ・ポーロの言葉。印象深いので、そのまま引用してみます。
「生あるものの地獄とは未来における何事かではございません。もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。」
「これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易いものでございます。すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。」
「第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします。すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることでございます」
55の「都市」の話のなかでは、筆者が「永続させ」「拡がりを与え」ようとしているものが描かれていると見ることができるのでしょう。ひとつひとつの話が2ページほどしかないので、お酒のおつまみをちょっとずつつまんでいるような感覚で読める小説でした (笑)。 -
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ネタバレちょっぴりズレてるマルコヴァルドさんの素敵な日々。
都会の中であくせく働き、四季の移り変わりに心を寄せる。マルコヴァルドさんを紹介するとそういう人なのだが、それはこの物語の魅力とはちょっと違う。
マルコヴァルドさんは、都会の中の小さな自然を見つけては喜び、しかし物語はちょっとビターな方向に転がっていく。公園のベンチを別荘と洒落込んでも光や音や臭いのせいで眠れない。キノコを見つけたら食あたり。スーパーマーケットやネオンサインに振り回される。
でもマルコヴァルドさんは挫けない。子沢山で家計は苦しく、いつも思ったようにはいかないけど、マルコヴァルドさんはブツブツ言いながらも楽しそうだ。
生きるってこういうことなんじゃないかと、便利さに染まりきって疑問にも思わない自分を振り返る。