イタロ・カルヴィーノのレビュー一覧
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『遠くから吹いてくる風は、都会に思いがけないおみやげを運んでくるものです。もっとも、それに気づくのは、よその土地の花粉でくしゃみを連発してしまう花粉症の人のように、感じやすい心を持った、ほんのひとにぎりの人たちだけですが』―『都会のキノコ』
「『見えない都市』を歩く」の文章に誘われて読む。岩波少年文庫の一冊。けれど、『この本は、子どもの本なのでしょうか? 若者むけの本? それとも、大人むけの本? これまで見てきたとおり、さまざまな側面がつねに糸のようによりあわさっているといえるでしょう』、と、作家自らが解説する通り、事は決して単純ではない。もちろん、子どもの思考が単純だと言っている訳ではなく、ともするとありがちな勧善懲悪、白黒のはっきりとした物語ではない、という意味である。と、和田忠彦先生も書いていたので読んでみたのではあるけれど。
イタロ・カルヴィーノの一冊と言えば「見えない都市」かも知れないけれど、個人的には「冬の夜ひとりの旅人が」がお気に入り。どことなく多和田葉子の「容疑者の夜行列車」と重なる印象があるのだけれど、全体としてはエーコの小説を読んでいるのかなと思わせるくらいに凝った仕掛けがある一冊。もちろん空想科学小説的なカルヴィーノの小説も好きだけれど、そちらの仕掛けは何となく虚構感が強くて素直には読み解けない。一方、冬の夜ひとりの旅人が、や、見えない都市、は哲学的な思考に嵌まって脳がぐるぐるとする感じがとても良い。その対比の軸で考えると本書は哲学的な方の分類へ傾くのだけれど、何かもっと素朴なことを言っている印象に塗されてカルヴィーノの本当に言いたいことが見えにくい。
足掛け10年を費やして書いた一冊ということで、そこには何等か通底するこだわりのようなものがあるだろうとも思うのだけれど、全体の印象としては日刊新聞の四コマ漫画のような風刺の匂いこそするけれど、何かを強烈に否定している訳ではないし文明社会を批判している訳でもない。自然を愛する一見純朴そうなマルコヴァルドさんにしても、絵に描いたような子だくさんの貧乏生活を営む青色労働者だけれど、小賢しいことを考えたり、小さな悪事を躊躇なくしてみたりと簡単に肯定も否定もできない人物として描かれている。ではそんなあくせくと働き生活に汲々としている人物を見てくすりと笑っていればいいのかと言うと、如何にも都市生活の流れに上手く乗っている人々との対比の中では思わず擁護したくなる人物でもあったりするので、何となく読んでいて落ち着かない。例えば、そんな風に左右に揺さぶられるような感覚は、実は冒頭引用したこの本の始まりの文章の中に既に見出せるとも言えるのだけれど。
わざわざそんな人物とその家族の暮らしを春夏秋冬の繰り返しの中で描いてみせるのだから、作家にはきっと狙いがあったのに違いない。恐らく一番大切なことは自分たちが生きている今、自分たちを取り巻く環境や様々な人々の思惑、のようなものから目を逸らさずに、一つひとつ考える、ということなんだろう。それがカルヴィーノの言いたかったことなのかな、と思う。 -
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話の内容自体はごく単純だけどシビアな表現で書かれた文章です。気分転換に気軽に楽しめるかと思って読み始めたら、意外と考えさせられることの多い短編集だった。
作者による解説によると「産業社会」というあまい夢だけでなく、「いなかの生活」というあまい夢も、攻撃の的となっているそうで、「昔にもどる」ことができないだけでなく、その「昔」自体が、じっさいには存在したこともなく、幻想にすぎないとのこと。
マルコヴァルドさんの自然に対する愛着は、都会に住む人だけが持つもの、都会で自分のことを「よそ者」と感じているマルコヴァルドさんこそ、ほんものの都会人、という作者の言葉にすごく納得できた。 -
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イタロ・カルヴィーノ1972年の作。ネタバレを回避してあらすじを書くのが不可能な作品ともいえるし、話の展開のようなものがなく、なにを書いてもネタバレにならないともいえる。いずれにしても、おそらく、何通りもの読み方ができる不思議な書。
フビライ汗に気に入られた(もしくは取り入った)マルコ・ポーロが旅行中に訪問した55の都市をひとつひとつ、フビライの前で話して聞かせるかたちになっている。ひとつひとつの都市の話は短く、また都市と都市の間につながりはない。小篇の集合といってよい。
読んでいるうちにわかるが、話に出てくるのはすべて架空の都市で、フビライやマルコが生きていた時代には存在しないようなものも出てくる。どの都市も特徴的なのに、その特徴はどんな都市も持っているようなありふれたもので、大変矛盾している。でも、人が「これは独自だ」とか「特徴的だ」というときのそれはたいていユニークだとは感じられないことから考えると、べつに矛盾していないのかもしれない。とにかく、現代社会が抱える──といってもこれが書かれたのは45年以上前だがいまでもほぼ当てはまる──さまざまな問題を細かく分解して、そのひとつひとつから発想を広げて構築した想像上の都市が、次から次に披露される。
マルコがフビライに報告するというかたちで一応物語は進む。が、登場するのが別にフビライとマルコである必要はなく、また登場人物と紹介される都市の間にもこれといった関係性はない。つまり、登場人物を置き換えても、取り上げる都市がどんなものであっても「見えない都市」は成り立つ。出てくるものはすべて、ほぼ、名前がついているだけの置物という印象だ。
そのことから、この物語は、話者が短い話を語って聞かせるという構造だけが決まっていて、その上で展開されるストーリーはモジュール化され、それぞれが独立していて、どうとでも入れ替えられるように見える。むしろ、「物語とは、土台と交換可能な表面によって構築されている」ということを強調するかのような作りになっていて、小説というジャンルを挑発しているように思える。
というのがわたしの読み。読み方によっては取り上げられた都市が抱える社会問題にフォーカスして掘り下げることもできるだろうし、全体に語り口が抽象的で「鑑賞者が解釈して完成させる」作品として捉えることもできるだろう。楽しみ方はいろいろあると思う。 -
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ここで紹介されている作品や解説は日本人には馴染みが薄いと思う。が、それ自体は問題ではない。
最新作のレビューではなくなぜ古典なのか、古典というものをどう捕らえるかが問題なのだ。
たしかに理解しづらくはあるが、カルヴィーノの古典に対する精神に触れられることは、日本においても素晴らしい特権である。
彼の気質をなぞりながら読書したいと願ってしまう。
池澤夏樹氏の善きおせっかいなカルヴィーノ擁護論。
それぞれ別個の古典作品が、読み手の中でつながって、あらたな物語を紡ぐ。
これぞ、古典多読の醍醐味!
「なっちゃん、よくぞ言ってくれました!」の拍手喝采である。 -
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以前レビューした「冬の夜ひとりの旅人が」のカルヴィーノの、代表作の一つ。
アジアでの経験を書いたマルコ・ポーロの「東方見聞録」のパロディ。
まだモンゴルにいる若き日のマルコが、フビライに聞かれるまま、旅の途中で見てきた都市について語ります。
各都市についての記述はそれぞれ1~3ページくらい。
その間にマルコとフビライの描写があって、コミュニケーションとは、都市とは、文明とは、と言ったテーマがあるようでもあり、それを深読みしすぎないほうがいいようでもあり。
凝った構成といい、すごく計算しつくされているようでもあり、でもたぶんその計算をすべて読み説くことを著者は求めてない感じでもあり。
つかまえようとすると指の隙間からにげてしまう、砂漠の幻のような読後感です。
原文のイタリア語がわからないけれど、ちょっと古めかしい敬語調が、雰囲気にあっていていい感じ。
折にふれて読みなおしたい一冊。
そうそう、この前読んだ「アメリカの鱒釣り」の解説で、柴田元幸さんが、「アメリカの鱒釣り」「百年の孤独」と並んで文庫になるべきと思う三大外国小説(?)にあげていました。
たしかにこれを持って旅に出たいかも。 -
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マルコ・ポーロがフビライ汗に、自分が旅してきた都市の話を聞かせるという設定で、架空の都市の見聞記と、各章の最初と最後に挿入されるマルコとフビライの対話で構成されている小説です。短い章節の集合体なので読みやすいかと思いきや、結構話が抽象的で読みづらい部分もあった……
でもすごく面白かったです。最初のうち、登場する都市はお伽話のような不思議な都市、ありそうもない都市ばかりなのですが、物語がすすむに従ってだんだん不気味な都市が多くなり、ディストピア小説のようになってゆきます。
印象に残るのはやはり最後の方の都市。「まるい頬を動かして木の葉や草を噛んでいる呑気な笑顔」が増殖し続けるプロコピア、廃棄物に取り囲まれてデオドラントな生活をするレオーニア、占星術師の計画にしたがって完璧につくられたはずのおぞましいペリンツィア、などです。
あとマルコとフビライの関係がなんかいかがわしい。彼らの対話はやがて緊張していき、「(フビライが)そしてついにマルコを窮地に追いつめ、馬乗りになり、片膝をマルコの胸に押し当て、髭をつかんで問いつめるのだった」というフレーズさえあらわれます。
物語終盤では時間も空間も定かではなくなり、彼らが宮廷で向かい合って話をしているという前提も揺らいできます。
私がこの作品でいちばん好きな場面はマルコとフビライのこのやりとり。
「『まだ一つだけ、そちが決して話そうとしない都市が残っておるぞ。』
マルコ・ポーロは首を傾げた。
『ヴェネチアだ』と、汗は言った。
マルコは微笑した。『では、その他の何事をお話し申し上げているとお思いでございましたか?』」 -
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いったい人はどのようにして本と知り合うのだろう。こんな不思議な本を読んだ後では、つくづくそう考えずにはいられなくなる。世の中には読まれるべき本が読まれることを待ち続けている。勿論、その言明は個人に対する言明に過ぎないのであって、一般論ではない。そしてまた、その個人とて、一瞬いっしゅんが連続した個人であることはなく、どこかしら途切れとぎれの個人の集合にしか過ぎないのであるから、読まれるべき時に本が読まれるという幸せを味わえるのは、とても不思議な出会いであるとしか言いようがない。
「見えない都市」のような本を読んで思うのは、文章の持ち得る意味と意図された意味の関係、ということである。本として、文章の集合体として持つ意味、それは「込められた意味」と言い直してよいが、それがはっきりしているように思える本がある。勿論、それは読み手である自分の勝手な思いこみがなせる業であることも承知の上でだが、それでも全体の指向している先が見える本がある一方で、カルヴィーノのそれのように、時代に対して開いた、とでも形容できるような本がある。古典のように時代を越えて読み継がれるという普遍性とは違うが、その文章の一文字ひともじの意味を取り違えずに読める位の同時代性を保ちながら、未来の読まれる時代において一気に蘇生して来るような「意味」がこの本には、散りばめられている。その読み解かれる意図に定形はない。
個々の文の自立した意味、という問題も、また、ある。特定の設定された状況、時代の中での物語を成す一つの文でありつつ、個々に自由にイマジネーションを広げさせる力のある文が、そこにはある。この本の中でカルヴィーノの書いている文たちは、その中から一つを取り出してきて、白紙の中においたとして単独で意味を持ち得る、意思の感じられる文である。しかし、書かれていることをそのまま読み取ってはいけないことが、本の端々に匂わされている。それは、そのコンテクストの中ではあり得ないものの描写であったり、幻想のような現実であったりするのだ。読み手は、混乱させられる。そしてそのことは、この本の意図していることでもある。
本の意図していること、と書いた。これにはもう少し丁寧に説明が必要だ。本の中では、マルコ・ポーロという人物とフビライ汗という二人の人物の対峙が描かれている。対峙は、対話で成り立っているように見受けられるが、話を交わしているとは断定しきれないようにも描かれている。勿論、この二人の名前を聞いて、歴史上の同名の二人を意識せずにはいられないし、そう読んでも構わないのかも知れない。しかし、これがそのマルコ・ポーロだとは言明されることはない。そして、あたかもそのマルコ・ポーロが語っているように見える「図」の部分には、旅人が訪れた都市の様子が描かれる。
図の間には、二人の対話が「地」として存在し、この地によって、図の持つ意味は一つの方向に巧みに誘導されている。もし、この地の会話がないとしたら、この本の持つ印象は全く違うものになるだろうか。不思議なことに、そうはならないかも知れない、という予感がする。そして、地と図の境は、文章の隙間を越えて、判然としなくなる。
図で語られる都市では、決して歴史上のマルコ・ポーロが目にし得ないものも出現する。その単語を読む直前まで、無意識のうちにある過去の時代に投影されていた自分の分身が、急に迷路の一つをまがった瞬間に、現代の、例えば、東京の喧騒に出くわすような錯覚がそこにはある。そしてその時、不思議な感慨に捕らえられる。何故なら、そこでマルコ・ポーロを切り離して、その部分を読むこともでき、それでも文章の「開かれた意味」は、ほとんど変わらないように思えるからだ。このことは、マルコ・ポーロという人物がフビライ汗という人物に対して語る地の中で告げていることでもある。語られている都市は、現在という時間、あるいは誰かが訪れたであろう過去という時間に対して、なんの繋がりも持っていない、ということが執拗に告げられているのだ。一つの都市、という3次元上の点を特定はしているものの、4つ目の次元については特定されず、話の前後は不明なままに残されている。やがて、3次元上の定点と思われた座標も、固定した点としての意味を失い、その都市をだれかが訪れたのか否か、そもそも存在するのか否かも、判然としなくなっていく。その錯覚を読み手は、フビライ汗と同時に味わうように、意図されている。
意図されている、と自分が感じることは、本当に意図されていることなのだろうか。この本を、違う時代の自分が読んでも、その意図に気づくのだろうか。気づかないとしたら、その時の自分は、この本の中に何を読み取るのだろうか。そして、きっとその時読み取られたものもまた、いかにもカルヴィーノが意図したことのように思われるのだろう。そういう意味で、この本は全ての時代の自分に対して開いた意味を持っているように思えるのだ。
見えない都市、それは、実在しないのに存在していると思われている都市のことである、とも受け取れるし、あるいは、存在しているのに4次元上の定点に居る自分からは行き着けない都市である、とも解釈できる。そして、その二つの意味に、どれだけの違いがあるというのか、という問い掛け、それが、あるいはもしかして、カルヴィーノの言いたかったことなのかも知れない。
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「この本は、子どもの本なのでしょうか?若者むけの本?それとも、大人むけの本?」
ー作者による解説より
「マルコヴァルドさんの四季」というタイトルと表紙を見て、どんな内容のお話だと思いましたか?
私はマルコヴァルドさんという男性が四季おりおりの情景の中で何か素敵なものを見つけ、小さな幸福とふれあう物語を想像しました。
…これが遠からずも当たらず。
この本はマルコヴァルドさんとその一家が過ごす四季×5年分の20話を収めた短編集。
マルコヴァルドさんは、イタリアのどこか知らないけど都会の街で8人家族を養う大黒柱。
そしてどんな仕事をしているのかさっぱり分からないけど、低賃金労働者で家計は苦しい。
ひもじくて野生で生えてるキノコを採りまくろうとしたり、寒さに震えながら薪を買うお金がないから森で薪を調達してきたり、スーパーで他の客がパンパンにカートに商品を詰め込んでいるのが心底羨ましくて買う気はないけどカートを品物でパンパンにしてみたり。
そんなこんなで田舎から出てきたマルコヴァルドさんは、田舎の自然に思いを馳せ、都会の汚らしさにため息をつきながらも、その街で家族と暮らしていきます。
さて、その短編一話一話の展開なのですが、どれも一話ごとに起承転結がしっかりしていて皮肉と哀愁とちょっとした希望に富み、面白いのです。
ただ悲しいかな、物語の最初に街の中でマルコヴァルドさんが小さな幸せや生きがいを見つけることは、読む前の想像通りなのですが、ラストはいつも悲しい結末に突き落とされ、こちらは読みながら呆然とします。
…ええっ!?ここみんなで笑ってハッピーエンドじゃないんだ!!?
救いようがないとまではいかないけど、ちょっとつらい。
割と毎回、そんな感じ。シビアな終わり方も。
どんな展開でそうなるのかは読んでのお楽しみということにして…。
この、何かいいことを見つける→なんやかんや盛り上がりの展開がある→切ないラスト、という展開は、どうやら作者のカルヴィーノが意図的に織り成していたらしい。
完全に術中にハマる。
けれどあまり悲壮感なくページをめくり読み進めてしまうのは、マルコヴァルドさん含めマルコヴァルドさんの子どもたちがめちゃくちゃ逞しくて、次みつけた希望に目を輝かせられるガッツがあるから。
そしていつもマルコヴァルドさんが幸せだ、素敵だと思い焦点を当てるのは、街中のネオンでも喧騒でもなく、植木鉢でぐんと背を伸ばしている植物や、星が輝く夜空、きれいでおいしい空気。
そんなマルコヴァルドさんの感性は、「都会の暮らしにふさわしくない目」と解説などで表現されています。
なるほど、ふさわしくない。
たしかにそうかも。
でもそれと合わせて印象深かったのは、田舎から出てきたばかりのマルコヴァルドさんには都会の街の風景がキラキラして見えたということ。
これも対比として表現しているのかな。
個人の感想だけど、マルコヴァルドさんはちょっとなよっとした感じがあるけど、その子どもたちはめちゃくちゃパワフル。
自分たちは食うに困る生活を送っているのに、裕福だけど日々をつまらなさそうに送っている男の子を見て「恵まれない子どもだ」と感じるというタフネス。
一連の物語で輝いて主人公然としていたのは、案外子どもたちの方なのかも。
あとはこれが書かれたのは1950〜60年代初期というのに、古びた感じが一切しない。
つい去年書かれたばかりですよと言われても納得してしまいそうな新鮮さ。
マルコヴァルドさんが過ごす四季は、はちゃめちゃな展開もあるけれど、今の私たちの生活と照らし合わせて共感を呼ぶものだと思いました。
なんだかついまた読みたくなる、そんな本。
ちなみに特に好きだなーと思ったのが、
「高速道路ぞいの森」「牛とすごした夏休み」「毒入りウサギ」「月と《ニャック》」「けむりと風とシャボンの泡」「がんこなネコたちの住む庭」「サンタクロースの子どもたち」
です。
以下備忘録がてら目次をば。
春 都会のキノコ
夏 別荘は公園のベンチ
秋 町のハト
冬 雪に消えた町
春 ハチ療法
夏 土曜の午後、太陽と、砂と、まどろみと
秋 お弁当箱
冬 高速道路ぞいの森
春 おいしい空気
夏 牛とすごした夏休み
秋 毒入りウサギ
冬 まちがった停留所
春 川のいちばん青いところ
夏 月と《ニャック》
秋 雨と葉っぱ
冬 スーパーマーケットへ行ったマルコヴァルドさん
春 けむりと風とシャボンの泡
夏 都会に残ったマルコヴァルドさん
秋 がんこなネコたちの住む庭
冬 サンタクロースの子どもたち
作者による解説
訳者あとがき
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ネタバレ『梨の子ペリーナ』の再話者となっていたイタリア民話編纂の巨匠イタロ・カルヴィーノ氏の手掛けた児童書。
ズバーブ商会の倉庫の人夫として働くマルコヴァルドさん。
思いついた妙案を熟慮せずに行動に移してしまい、いつも期待していたのとはちょっと違う結末(どちらかというと失敗)にたどり着いてしまう。
妻とたくさんの子どもらを抱え、かつかつな暮らしを送りながらも自然を愛でる心に溢れ、人並みな欲はあるけれど後先見ずに突き進んで窮状を脱せない様は返って善良さが滲み出ていてにくめない。
そんなマルコヴァルドさんの春夏秋冬季節にひとつのエピソードを5周繰り返す形での連作短編集。
比較的あっさりとはしているが、へんてこエピソード達の間に、「おいおい。。。」といった呆れや忍び笑いあり、人間の心の浅ましさを垣間見るものあり、ときには一抹の切なさを感じるものありと玉手箱的作品。
挿絵がいい感じ。 -
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期待以上におもしろかった!
おもしろさの方向性で言えば、「サザエさん」のようなおもしろさだ。
登場人物たちの思考や行動が容易に予想できて、その結果も予想できてしまう。
「あ~あ、またあんなことして、もう、サザエは。」みたいな。
この本では、マルコヴァルドさんの春夏秋冬に関する短いお話がたくさん収録されていて、四季が何周もする。
四季が何周もするのに、マルコヴァルドさんは懲りない。まったく懲りない。
毎回、「マルコヴァルドさんか家族がなにかを見つける・思いつく→大喜びでそれにくいつく→うまくいかずにがっかりする」という展開だ。
個人的にとくに愉快だったのは、
スーパーの話(家族でスーパーに行ったけどお金がなくて何も買えないから、カートを押して買わない商品を入れることを楽しむ・・・)
洗剤サンプルの話(こども達が洗剤サンプルを大量にあつめて売ろうとしたが・・・)
バスを乗り過ごす話(マルコヴァルドさんが知らない停留所で降りてしまい、目的のルートに戻るために四苦八苦・・・) -
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p69湖水の鏡の上にあるヴァルドラーダ「おのれの一挙手一投足が、ただ単にそのような行為であるばかりか同時にその映像ともなること、しかもそれには肖像画のもつあの特殊な威厳が与えられていることをよく心得ており、こうした自覚のために彼らは片時たりとも偶然や不注意に身をまかせることを妨げられておるのでございます。」
p21しるしの都市タマラ「人はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによってみずからとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。」
p113「思い出のなかの姿というものは、一たび言葉によって定着されるや、消えてなくなるものでございます」「恐らく、ヴェネツィアを、もしもお話し申し上げますならば、一遍に失うことになるのを私は恐れているのでございましょう。それとも、他の都市のことを申し上げながら、私はすでに少しずつ、故国の都市を失っているのかもしれません。」
p118「もしも二つの柱廊のうち一方がいつもいっそう心楽しく思われるとするならば、それはただ三十年前に刺繍もみごとな袍衣の袖をひるがえして少女がそこを通ったその柱廊に他ならないからでございますし、あるいはある時刻になると日射しを浴びるその様が、もはやどこであったかは思い出せないあの柱廊に似ているというだけのことなのでございます。」
p167「世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始めもなければ終りもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市なのです。」
どこにでもあり、しかしどこにもなく、そしてそれは既に見た記憶かもしれないしこれから見る予感のものかもしれない。蜃気楼のように何もないのに、読んでて脳裏にシルクロードの、異国のイメージが浮かび消える。幻想文学。言葉と概念を弄んでいるだけかもしれないけど、端端の単語に幻想と脳のどこかに情感を呼び起こさせるひらめきがある。構成や意図などを、計算的に読み取るほどじっくりは読まなかった。