あらすじ
現代イタリア文学を代表し世界的に注目され続けている著者の名作。マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、様々な空想都市(巨大都市、無形都市など)の奇妙で不思議な報告を描く幻想小説の極致。
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イタロ・カルヴィーノ1972年の作。ネタバレを回避してあらすじを書くのが不可能な作品ともいえるし、話の展開のようなものがなく、なにを書いてもネタバレにならないともいえる。いずれにしても、おそらく、何通りもの読み方ができる不思議な書。
フビライ汗に気に入られた(もしくは取り入った)マルコ・ポーロが旅行中に訪問した55の都市をひとつひとつ、フビライの前で話して聞かせるかたちになっている。ひとつひとつの都市の話は短く、また都市と都市の間につながりはない。小篇の集合といってよい。
読んでいるうちにわかるが、話に出てくるのはすべて架空の都市で、フビライやマルコが生きていた時代には存在しないようなものも出てくる。どの都市も特徴的なのに、その特徴はどんな都市も持っているようなありふれたもので、大変矛盾している。でも、人が「これは独自だ」とか「特徴的だ」というときのそれはたいていユニークだとは感じられないことから考えると、べつに矛盾していないのかもしれない。とにかく、現代社会が抱える──といってもこれが書かれたのは45年以上前だがいまでもほぼ当てはまる──さまざまな問題を細かく分解して、そのひとつひとつから発想を広げて構築した想像上の都市が、次から次に披露される。
マルコがフビライに報告するというかたちで一応物語は進む。が、登場するのが別にフビライとマルコである必要はなく、また登場人物と紹介される都市の間にもこれといった関係性はない。つまり、登場人物を置き換えても、取り上げる都市がどんなものであっても「見えない都市」は成り立つ。出てくるものはすべて、ほぼ、名前がついているだけの置物という印象だ。
そのことから、この物語は、話者が短い話を語って聞かせるという構造だけが決まっていて、その上で展開されるストーリーはモジュール化され、それぞれが独立していて、どうとでも入れ替えられるように見える。むしろ、「物語とは、土台と交換可能な表面によって構築されている」ということを強調するかのような作りになっていて、小説というジャンルを挑発しているように思える。
というのがわたしの読み。読み方によっては取り上げられた都市が抱える社会問題にフォーカスして掘り下げることもできるだろうし、全体に語り口が抽象的で「鑑賞者が解釈して完成させる」作品として捉えることもできるだろう。楽しみ方はいろいろあると思う。
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モンゴル帝国元朝の皇帝フビライと「東方見聞録」のマルコ・ポーロとの対話のなかで、マルコが実際に行ったり見聞きした都市の様子を伝えていく。ところが、ほとんどすべて実際には存在しないマルコの創作。マルコの話をきいているという構図なら、読者はフビライになって耳を傾ける。Googleマップがないのが幸い、そんな都市があるのか、そんな都市の生成と変化があるのかとわくわくしながら。
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フビライ・ハンの部下のマルコ・ポーロが、皇帝の領土の街を観察していろいろ報告するよ!あれれ、その街しってる...それってきのう夢でみた街!その街はアレにでてきたアレじゃないっすか...?私の街、そこ!!そうだね、都市の性質、性格ってそういうもの! そもそも二人が会話してるのかすらあやしい、いろんなギミック搭載の入れ子式モザイク式幻想小説。飽きないおもちゃみたいに、しょっちゅう読みかえしたくなる。
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以前レビューした「冬の夜ひとりの旅人が」のカルヴィーノの、代表作の一つ。
アジアでの経験を書いたマルコ・ポーロの「東方見聞録」のパロディ。
まだモンゴルにいる若き日のマルコが、フビライに聞かれるまま、旅の途中で見てきた都市について語ります。
各都市についての記述はそれぞれ1~3ページくらい。
その間にマルコとフビライの描写があって、コミュニケーションとは、都市とは、文明とは、と言ったテーマがあるようでもあり、それを深読みしすぎないほうがいいようでもあり。
凝った構成といい、すごく計算しつくされているようでもあり、でもたぶんその計算をすべて読み説くことを著者は求めてない感じでもあり。
つかまえようとすると指の隙間からにげてしまう、砂漠の幻のような読後感です。
原文のイタリア語がわからないけれど、ちょっと古めかしい敬語調が、雰囲気にあっていていい感じ。
折にふれて読みなおしたい一冊。
そうそう、この前読んだ「アメリカの鱒釣り」の解説で、柴田元幸さんが、「アメリカの鱒釣り」「百年の孤独」と並んで文庫になるべきと思う三大外国小説(?)にあげていました。
たしかにこれを持って旅に出たいかも。
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マルコ・ポーロがフビライ汗に、自分が旅してきた都市の話を聞かせるという設定で、架空の都市の見聞記と、各章の最初と最後に挿入されるマルコとフビライの対話で構成されている小説です。短い章節の集合体なので読みやすいかと思いきや、結構話が抽象的で読みづらい部分もあった……
でもすごく面白かったです。最初のうち、登場する都市はお伽話のような不思議な都市、ありそうもない都市ばかりなのですが、物語がすすむに従ってだんだん不気味な都市が多くなり、ディストピア小説のようになってゆきます。
印象に残るのはやはり最後の方の都市。「まるい頬を動かして木の葉や草を噛んでいる呑気な笑顔」が増殖し続けるプロコピア、廃棄物に取り囲まれてデオドラントな生活をするレオーニア、占星術師の計画にしたがって完璧につくられたはずのおぞましいペリンツィア、などです。
あとマルコとフビライの関係がなんかいかがわしい。彼らの対話はやがて緊張していき、「(フビライが)そしてついにマルコを窮地に追いつめ、馬乗りになり、片膝をマルコの胸に押し当て、髭をつかんで問いつめるのだった」というフレーズさえあらわれます。
物語終盤では時間も空間も定かではなくなり、彼らが宮廷で向かい合って話をしているという前提も揺らいできます。
私がこの作品でいちばん好きな場面はマルコとフビライのこのやりとり。
「『まだ一つだけ、そちが決して話そうとしない都市が残っておるぞ。』
マルコ・ポーロは首を傾げた。
『ヴェネチアだ』と、汗は言った。
マルコは微笑した。『では、その他の何事をお話し申し上げているとお思いでございましたか?』」
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「物語を支配するのは声ではございません、耳でございます。」
不可思議で幻想的な「語り」と、核心をつくアフォリズム。ページの角を折りまくってしまった。
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磯崎新の著作経由で読んだ本。
とはいえ、ぼくが生まれる2年前に編みだされた本かとおもうと、まあそんなんはどうでもいいか。
編んでるんだけど、編み針が所々にみえてくるのがすごい。おそすぎた60年代万歳、ってかんじ。
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いったい人はどのようにして本と知り合うのだろう。こんな不思議な本を読んだ後では、つくづくそう考えずにはいられなくなる。世の中には読まれるべき本が読まれることを待ち続けている。勿論、その言明は個人に対する言明に過ぎないのであって、一般論ではない。そしてまた、その個人とて、一瞬いっしゅんが連続した個人であることはなく、どこかしら途切れとぎれの個人の集合にしか過ぎないのであるから、読まれるべき時に本が読まれるという幸せを味わえるのは、とても不思議な出会いであるとしか言いようがない。
「見えない都市」のような本を読んで思うのは、文章の持ち得る意味と意図された意味の関係、ということである。本として、文章の集合体として持つ意味、それは「込められた意味」と言い直してよいが、それがはっきりしているように思える本がある。勿論、それは読み手である自分の勝手な思いこみがなせる業であることも承知の上でだが、それでも全体の指向している先が見える本がある一方で、カルヴィーノのそれのように、時代に対して開いた、とでも形容できるような本がある。古典のように時代を越えて読み継がれるという普遍性とは違うが、その文章の一文字ひともじの意味を取り違えずに読める位の同時代性を保ちながら、未来の読まれる時代において一気に蘇生して来るような「意味」がこの本には、散りばめられている。その読み解かれる意図に定形はない。
個々の文の自立した意味、という問題も、また、ある。特定の設定された状況、時代の中での物語を成す一つの文でありつつ、個々に自由にイマジネーションを広げさせる力のある文が、そこにはある。この本の中でカルヴィーノの書いている文たちは、その中から一つを取り出してきて、白紙の中においたとして単独で意味を持ち得る、意思の感じられる文である。しかし、書かれていることをそのまま読み取ってはいけないことが、本の端々に匂わされている。それは、そのコンテクストの中ではあり得ないものの描写であったり、幻想のような現実であったりするのだ。読み手は、混乱させられる。そしてそのことは、この本の意図していることでもある。
本の意図していること、と書いた。これにはもう少し丁寧に説明が必要だ。本の中では、マルコ・ポーロという人物とフビライ汗という二人の人物の対峙が描かれている。対峙は、対話で成り立っているように見受けられるが、話を交わしているとは断定しきれないようにも描かれている。勿論、この二人の名前を聞いて、歴史上の同名の二人を意識せずにはいられないし、そう読んでも構わないのかも知れない。しかし、これがそのマルコ・ポーロだとは言明されることはない。そして、あたかもそのマルコ・ポーロが語っているように見える「図」の部分には、旅人が訪れた都市の様子が描かれる。
図の間には、二人の対話が「地」として存在し、この地によって、図の持つ意味は一つの方向に巧みに誘導されている。もし、この地の会話がないとしたら、この本の持つ印象は全く違うものになるだろうか。不思議なことに、そうはならないかも知れない、という予感がする。そして、地と図の境は、文章の隙間を越えて、判然としなくなる。
図で語られる都市では、決して歴史上のマルコ・ポーロが目にし得ないものも出現する。その単語を読む直前まで、無意識のうちにある過去の時代に投影されていた自分の分身が、急に迷路の一つをまがった瞬間に、現代の、例えば、東京の喧騒に出くわすような錯覚がそこにはある。そしてその時、不思議な感慨に捕らえられる。何故なら、そこでマルコ・ポーロを切り離して、その部分を読むこともでき、それでも文章の「開かれた意味」は、ほとんど変わらないように思えるからだ。このことは、マルコ・ポーロという人物がフビライ汗という人物に対して語る地の中で告げていることでもある。語られている都市は、現在という時間、あるいは誰かが訪れたであろう過去という時間に対して、なんの繋がりも持っていない、ということが執拗に告げられているのだ。一つの都市、という3次元上の点を特定はしているものの、4つ目の次元については特定されず、話の前後は不明なままに残されている。やがて、3次元上の定点と思われた座標も、固定した点としての意味を失い、その都市をだれかが訪れたのか否か、そもそも存在するのか否かも、判然としなくなっていく。その錯覚を読み手は、フビライ汗と同時に味わうように、意図されている。
意図されている、と自分が感じることは、本当に意図されていることなのだろうか。この本を、違う時代の自分が読んでも、その意図に気づくのだろうか。気づかないとしたら、その時の自分は、この本の中に何を読み取るのだろうか。そして、きっとその時読み取られたものもまた、いかにもカルヴィーノが意図したことのように思われるのだろう。そういう意味で、この本は全ての時代の自分に対して開いた意味を持っているように思えるのだ。
見えない都市、それは、実在しないのに存在していると思われている都市のことである、とも受け取れるし、あるいは、存在しているのに4次元上の定点に居る自分からは行き着けない都市である、とも解釈できる。そして、その二つの意味に、どれだけの違いがあるというのか、という問い掛け、それが、あるいはもしかして、カルヴィーノの言いたかったことなのかも知れない。
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マルコ・ポーロがフビライ汗に旅してきた各地の街を語るだけなのだが、その語られる街の数々がとても奇妙。
おとぎ話のような空想都市の強烈なイメージの数々を聞いているだけでも面白い。
抽象的なものも多いのだが、語りの美しさもあって、あっという間に読んでしまった。
そして差し込まれるマルコ・ポーロとフビライ汗のやり取りも不思議なおかしみがあった。
イタロ・カルヴィーノ作品では『冬の夜ひとりの旅人が』の次くらいに面白かった。
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p69湖水の鏡の上にあるヴァルドラーダ「おのれの一挙手一投足が、ただ単にそのような行為であるばかりか同時にその映像ともなること、しかもそれには肖像画のもつあの特殊な威厳が与えられていることをよく心得ており、こうした自覚のために彼らは片時たりとも偶然や不注意に身をまかせることを妨げられておるのでございます。」
p21しるしの都市タマラ「人はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによってみずからとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。」
p113「思い出のなかの姿というものは、一たび言葉によって定着されるや、消えてなくなるものでございます」「恐らく、ヴェネツィアを、もしもお話し申し上げますならば、一遍に失うことになるのを私は恐れているのでございましょう。それとも、他の都市のことを申し上げながら、私はすでに少しずつ、故国の都市を失っているのかもしれません。」
p118「もしも二つの柱廊のうち一方がいつもいっそう心楽しく思われるとするならば、それはただ三十年前に刺繍もみごとな袍衣の袖をひるがえして少女がそこを通ったその柱廊に他ならないからでございますし、あるいはある時刻になると日射しを浴びるその様が、もはやどこであったかは思い出せないあの柱廊に似ているというだけのことなのでございます。」
p167「世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始めもなければ終りもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市なのです。」
どこにでもあり、しかしどこにもなく、そしてそれは既に見た記憶かもしれないしこれから見る予感のものかもしれない。蜃気楼のように何もないのに、読んでて脳裏にシルクロードの、異国のイメージが浮かび消える。幻想文学。言葉と概念を弄んでいるだけかもしれないけど、端端の単語に幻想と脳のどこかに情感を呼び起こさせるひらめきがある。構成や意図などを、計算的に読み取るほどじっくりは読まなかった。
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モンゴルの皇帝とマルコ・ポーロ。この組み合わせだけでも読む価値があるというもんだ。カルヴィーノは言葉しか信じないが、われわれ凡人は実在を期待してしまうので、永遠に届かない世界を「あるんじゃないか?」と期待しながら、むなしく空回りしてしまう。
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その都市はいったいどこにあるのか。強大な力を持って果てしなく領土を広げゆくフビライと、地の果てまでひとり行くマルコ・ポーロが、それでもまだ知ることのできない都市と、どこかで見た都市を巡って時を過ごす。見知ったようなそれでいて遠い世界のお伽話が、電車で向かう仕事先とさえ重なり合う重畳された時間の流れの中で、じわじわと響きあう。やがて、読者である自分自身がその都市のひととなった。
電車の中にあって片手をあげて寄り添う人々は、誰ひとり言葉を発せず、互いに隣には誰ひとりいないようにふるまっている。たとえあなたがそこで何を目にしようがそれはあなたの脳が見た景色であって、隣で光る板を睨みながら首を捻じ曲げた若者がそこにいたとは限らない。なぜならその若者にはあなたが見えていないからである。それがトキオの慣わしなのだ。あなたがどれほど信じたとしても、時折電車がゆれて黒びかりするバッグが脇腹を押したとしても、それはあなたが感じていると信じる何かではあっても、存在している証明ではない。その若者がようやく次の駅で降りてあなたのとなりに呼吸する空間が出来たとしても、その若者はあなたの存在を微塵も覚えていない。あなたは存在すらしないのだ。あなたが通り過ぎたトキオの街が本当にあったのかすら怪しい。なぜならトキオの住人は誰一人あなたのことを覚えていないのだから。それでもトキオはそこにある。征服されざる街として。
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旅行がしたくなる一冊。マルコ・ポーロが訪れた諸都市の様子を、フビライ汗に語るお話。語られる都市が現実にあろうがなかろうが、絵も写真もないのに言葉だけで、聴いたフビライ汗はその諸都市を想像できる楽しみ。その楽しみを読者も疑似体験できます! ないと分かっていても楽める人間の想像力の力を体験いたしましょう!(感想人は無責任な人間です。でもこの本は楽しいですよ。いつか旅行してみたいなあ)
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経験すれど言葉にならない風景がある様に、言葉に表せども経験できない風景もまた存在する。フビライ・汗にマルコ・ポーロが語り聞かせる架空の都市はどれも奇妙かつ不可思議なものばかりだが、何も言葉通り受け取ろうと肩肘張る必要はない。マルコが言う通り、物語を支配するのは文字ではなくあなたの眼差しなのだから。ここに記された55の都市の風景は読み手によって伸縮し、その解釈の数だけ増殖する。間に挟まれる2人の会話は禅問答の様だが、全てが滅び行く現実の中でもなお留まろうとするものを肯定する着地点はニヒリズムを越えて行く。
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若手建築家がおすすめの本ということで手に取りました
イタリアの作家さんの小説です。
あまり自分からは手に取らないたぐいの小説だったのですが、読み始めるとその独特の世界観にいっきに引きこまれてしまいました。
マルコポーロがフビライ汗に彼が訪れた(と思われる)幻想的な都市の様子を語る。という体裁で話は進んでいきます。
11の都市について語られるのですが、その語られ方がとても面白い。
短いパラグラフでそれぞれの都市がバラバラに語られているのですが、それぞれのパラグラフがまるで散文詩のような雰囲気を持っています。
その美しい文体が薄く引き伸ばされたようにレイヤー状に重ね合わされて、その総体として「見えない都市」というひとつの小説になっている。
こんな感じの印象です。
うーん、うまく説明できないのですが、とにかく文章が美しいんです!
とにかく今まであまり体験したことのない読書体験でした。
そして、たくさんのインスピレーションに満ちた本でもありました。
もし、、、もし可能なら、、、
映画化してほしい!しかも3Dで!
そんな希望が湧いてしまう本でした。
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フビライ汗に、マルコ・ポーロが帝国内の55の「都市」の様子を報告するという形式の小説。
「都市」の姿は、そこで生活する人間の内面の反映である。フビライはマルコ・ポーロのさまざまな「都市」についての報告を通じて、「帝国」の姿を理解しようとするが、それはそのまま人間の精神を理解しようとする試みでもある。
しかし、この「都市」。一体何なのだろう? マルコ・ポーロが語る「都市」は、いずれも異形の街ばかりであるが、その光景はどこかでみたことがあるような気分にもさせられる。そう、それは「記憶」のなかにある「都市」なのだ。「記憶」のなかにある、いわばすべての都市の雛形とでも言えるような、「最初の都市」とは? マルコ・ポーロは言う。「それはただ例外、禁止事項、矛盾、撞着、非条理のみによってできあがった都市でございます。」
フビライは、マルコ・ポーロの報告から、さまざまな「都市」を支配する秩序を理解しようとするが、そこにあるのは理解を拒む「無限の異形性と不調和」ばかりであり、結局手にするのは「無」でしかない。
フビライが知ろうとしているもの。そこに、この小説に込めた筆者の思いが込められているように思われる。フビライは言う、「朕がその方の声を通じて耳傾けておるのは、都市が生存し続けてきた目に見えぬ理由、またそれゆえにおそらくは滅んでもなお再生するであろう理由なのだ」。
そして、最後のマルコ・ポーロの言葉。印象深いので、そのまま引用してみます。
「生あるものの地獄とは未来における何事かではございません。もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。」
「これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易いものでございます。すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。」
「第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします。すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることでございます」
55の「都市」の話のなかでは、筆者が「永続させ」「拡がりを与え」ようとしているものが描かれていると見ることができるのでしょう。ひとつひとつの話が2ページほどしかないので、お酒のおつまみをちょっとずつつまんでいるような感覚で読める小説でした (笑)。
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どこから読んでも良い。どの都市も全ての都市の断片であり全ての都市はひとつの幻想都市に収斂されていく。そして不思議にひきつけられる。
自分の存在もマルコ・ポーロとフビライ汗とともに不安定になって面白い。
都市と眼差、都市と死者の種類の話が印象に残ったかなぁ。
Posted by ブクログ
文体とかちょっと読みにくいけど、面白い。フビライ・ハンとマルコ・ポーロが架空の都市の話をしていくファンタジー。1〜数ページの短い話がいっぱい。二人の対話のところはなんとなくアンニュイな感じでかなり好き。ハードカバーで読みたいな。
Posted by ブクログ
「語るもの/語られるもの/語りえぬもの」をめぐる、マルコ・ポーロと
フビライ汗のコミュニケーション/或いはディスコミュニケーションの物語。
人は何を語り何を語らず、それがどうやって伝播し・あるいは伝播しないのか、ということを考えさせられる小説でした。
もちろん一つの幻想譚としても都市論としても優れている。
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2008年10月12日~14日。
むむぅ。
とっつきにくかった。
凄く面白い箇所もあるので、これはもっと時間を掛けてゆっくりと読むべき本かな。
機会があったら再読してみるか。
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マルコ・ポーロがフビライ・ハンに様々な都市の情景を語って聞かすのが大筋なのだけれど、街のアイデアが多彩で飽きない。実際にありそうな街から、完全にファンタジーな街まで。ちょっと現代都市への皮肉も感じつつも、純なファンタジーとして読めた。
ショールームのように次々と展開されていく街並みは、どこか一つでも住みたいところがあるはず。
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「東方見聞録」をベースにした幻想小説。元の皇帝フビライにマルコ・ポーロが世界の都市の有様を語るという体裁で、フビライとマルコ・ポーロの対話をはさみつつ様々な都市が描写される。マルコ・ポーロが語る都市の姿は、実在する都市であり、記憶の中の都市であり、かつて過去に存在した都市であり、やがて未来に存在するであろう都市。あるいは、ひとつの都市の姿ではなく多くの都市の姿から帰納された都市であるかもしれないし、ある概念に基づいた演繹された都市、ある都市が別の都市へと反映された姿かもしれない。またマルコ・ポーロが語りフビライが聞くのであるが、その語りは常に一方向ではなくフビライからマルコ・ポーロへの働きかけも存在し、それがまたマルコ・ポーロの語る都市の姿に影響を与える。彼らが紡ぎだす都市の姿は常に一様ではないと同時にどれもが似通っている。語ること語られることから編み出される無限に増殖する都市の姿。
「東方見聞録」に着想を得た作品と言えば楠見朋彦「マルコ・ポーロと私」もまた語り語られる関係からの無限の増殖を扱っている。そこではマルコ・ポーロの語りが受け手に無数の東方見聞録を生み出しそれがさらに無数のマルコ・ポーロを生み出すという無数の、そしてより開かれた連環を示す。楠見自身、創作にあたって「見えない都市」を参考にしたであろうことは容易に想像がつく。とするならば、「東方見聞録」→「見えない都市」→「マルコ・ポーロと私」という連続がここにも存在する。そうした連続はあらゆる創作に大なり小なり存在するわけで、創作とはすべてマルコ・ポーロの子孫だとも言っていい。
Posted by ブクログ
戯れの中に秩序が芽生えている。
マルコ・ポーロの見聞録として構成された
この都市カタログは奇形児ばかり集められたような印象ではある。
けれども、過剰も欠落もそこにはない。
ありのままの都市が確かにある。
水道管だけで成り立つ都市にしろ、
郊外しかない都市にしろ、
旅立つことしかできない都市にしろ、
それらの描写は緻密だが、その合間には空虚しかない。
語られたものがすべてで、都市は外側に屹立する。
見えない都市であるのは、彼らが目を閉じているからだ。
目を閉じ、身をおいているのだ、言葉の都市に。
目を開けば、この日常こそが
過剰と欠落の充溢であることが感じられるよう。
もちろん、都市カタログとしても十分に楽しめます。
あと、解説もなかなか気が利いている。
Posted by ブクログ
たくさん出てくる幻想都市の記述が抽象的すぎて、どうもピンとこなかった。けど、都市は頭の中にあるモノであるという発想が新鮮。
話し手のマルコ・ポーロに興味が湧いた。
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マルコ・ポーロがフビライにさまざまな都市の話をするだけの物語。
構成は幾何学的ともいえる凝り方をしている。基本的には、語り手マルコ・ポーロが話す物語の断片の組み合わせ。
内容は幻想小説という形式に仮託した都市論。
幻想小説ゆえに、空気の代わりに土がある都市や、破壊を遠ざけるために建設が続く都市など、不可思議な様相を呈した都市と出会うことができる。