津野海太郎のレビュー一覧
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ネタバレ本来読み書きというのは、男性のみが行うことだった。
「男もすなる日記を、女もしてみん」と書いたのは男である紀貫之だったけど、それでひらがなが広まったというよりも、「女が書くところのひらがなを、男も書いてみん」というところなのではないかと私は思っている。
丸文字とかギャル文字など、若い女性は大昔もきっと、自分たちに通じる独自の文字を開発したのではないかと。
本が…というか、紙が貴重だったころは、数少ない本を貸したり借りたりして書き写すものだった。
その頃の大ベストセラー『源氏物語』
日本の家屋は寝殿造といって、広い板の間だけの建物を衝立で細かく仕切って使うような作りだったので、ひとりの時間をゆったり過ごすなんてことは貴族でもできなかった。
本(巻物)を持っている人は、得意満面でみんなの前で読み(たぶん音読)、本を読む人はあこがれの的だったのではないだろうか。
個室ができたのは室町の頃、書院造になってから。
狭くても壁やふすまで仕切られた部屋に、床の間や違い棚があり、そこで書を読む。
ようやく今の読書のイメージに近くなってくる。
江戸時代の寺子屋、明治の「学制」頒布による初等教育などにより日本人の識字率は高かった。
“[人力車の車夫や全身に入れ墨をほどこした馬丁や]さらにどんな店でも茶店でも見かける娘たち―彼らがみんな、例外なく何冊もの手垢にまみれた本を持っており、暇さえあればそれをむさぼり読んでいた。”
これは、明治維新の頃来日したロシアからの亡命者の書いた本からの一節。
印刷機の普及、西洋からの文学や哲学、自然科学の本の流入などにより、出版される本は江戸時代とは比べ物にならないほど増える。
しかし今、若者の活字離れが言われ、その若者よりも本を読まない高齢者が増えているという。
電子出版が増え続ければ、紙の本などそのうちなくなってしまうのではという悲観論もある。
ストーリーやトリックなどの目新しさを楽しむ、再読には向かない本はどんどん電子化すればいいと、個人的には思っている。
あと、教科書も電子化すればいいと思う。
タブレット一個に全教科を入れておけば、ランドセルも軽くなるし、忘れ物も減るだろう。
少子化なんだし、国ががんばって補助をすればいい。
本を読んでほしいと出版社が痛切に思うのなら、すべての本にルビを振ればいいと思う。
そうしたら、想定した読者年齢より若い子も難しい本を読むことができるし、難しい本を読むことができた子は、本を好きになると思うのだ。
難しい漢字をひらがなで書くのではなく、漢字にルビを振る。
意味は分からなくても、読んでいるうちに何となく理解できる。
そうやって知識は増えていくものなのでは?
文字だけではなく行間も含めて、装丁や手触りやインクのにおいや、そういうものをすべて含めて読書の楽しみと思う人たちのために、紙の本も残してほしいなあ。
今や本は文化の中心ではなくなっているかもしれないけれど、多様化する趣味の世界の片隅で、本への愛を叫ぶ人はきっといる。
これからも、ずっと。 -
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●→本文引用
●「じぶんの本棚に好きな本がならんでるのを見ていると、なんとなく安心するんです」「本って記憶ですよね。夕方、どこかの町の喫茶店の窓際の席であの本を読んだなとか、本にはそれを読んだときの記憶がくっついてるでしょ」なのにインターネット経由、ケータイやスマートフォンで読む本(つまり電子本)には、そうした一切が欠けている。あれはやっぱり読書とは言えないんじゃないですか、というのですね。だから、やはり津村のいう「体を伴った読書」なのですよ。<紙の本>は一点一点が別の顔、べつの外見をもっている。しかし<電子の本>では、すべての表現が特定の企業や特定の技術者がつくったハードやソフトの平面に均されてしまう。
近世の書見台での読書や素読は、遅読論でも述べられていた。 -
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編集者、評論家出身、和光大学名誉教授の津野梅太郎(1938-)による、日本の読書史。
【構成】
Ⅰ 日本人の読書小史
1 はじまりの読書
2 乱世日本のルネサンス
3 印刷革命と寺子屋
4 新しい時代へ
Ⅱ 読書の黄金時代
5 二十世紀読書のはじまり
6 われらの読書法
7 焼け跡からの再出発
8 活字ばなれ
9 <紙の本>と<電子の本>
本書は構成の通り、前後半で内容が二分されている。
前半は平安時代からはじまる日本の読書習慣の形成過程である。
『更級日記』の菅原孝標娘とその先祖にあたる右大臣・菅原道真の二人を取り上げて、一人で部屋にこもって黙々とストーリーを愉しむ「小説読み」と、オープンスペースで学究的に複数の書物と首っ引きで読む「学者読み」の源流を見いだす。
筆者は、自室でゆっくりと本が読めるようになる時期、そして書物の読み手が爆発的に増えた時期を、書院造が発達した室町時代だとする。そこには読書空間だけでなく、印刷技術の飛躍的進歩が寄与している。
「五山版」で培った木版印刷原板の彫刻技術が「きりしたん版」に受け継がれ、江戸時代末期に漢字かな混じりの木版印刷が行われ、安価で大量の書物が世に出回った。これが江戸期の庶民向けの読本隆盛につながっていくわけだが、明治に入るとこれが、洋紙への金属活字による活版印刷へ切り替わっていく。
面白い指摘だったのは、江戸期には複数の文字を続ける「続け字」までも活字にして組んでいたので、手書きと同じ程度に読み進めづらい印刷だった。しかし、明治に入ると、活字が一文字ごとに切り離され、文字の字体の揺れがなくなり、読書のスピードが上がったという。
後半は、二十世紀が読書の黄金時代であった、という作者の思いを、自らの読書体験にひきつけながら語られる。大正期の大衆総合雑誌の発刊にはじまり、大正期に「円本」として売られた各種文学全集の量産、大学生を中心とした教養主義の隆盛が、戦火を経ても戦後の出版文化を支えた。十分な量・質の出版物が世に出され、中流家庭にはかなり後半にそういった本が配架された本棚が据えられることになった。
その後の話は、紋切り型となる。1970年代に入ると、教養主義で称揚されていたようなアカデミックであったり古典的な「かたい本」は衰退し、小説やエッセーといった「やわらかい本」が中心となっていく。
「やわらかい本」や雑誌が「かたい本」を凌駕し、そしてさらに「紙の本」に対して「電子の本」が出回るのが現在。活字離れ論から電子書籍の立ち位置を敵対的なものにせず、活用していくのはこれからというあたりで締めくくり。
後半は、竹内洋『教養主義の没落』の劣化版という印象だが、竹内の著書は「かたい本」だが、本書は語り口も含め「やわらかい本」であるので、竹内本がとっつきにくい人にはよいのだろう。
本書で語られている歴史がどれほど実態に即しているのかわからない。
ただ、二十世紀という時代が読書習慣の形成という意味で、画期的な時代であったという切り口は面白いと感じたし、納得できる。 -
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前半は、著者が読んだ本の紹介。新進気鋭の研究者の方々の著作で、普段の自分のアンテナには引っかかりにくいものばかりだったので、世界が広がりました。
「人新世の資本論」(職場の上司もオススメしていた)と「現代思想入門」は、読んでみようと思います。
後半はアナキズムについて。つい最近、読んだ本にも、ソビエト連邦建国関連で、ボルシェビキが出てきたところだったので、思わぬシンクロに、興味深く読みました。
この部分を読みながら、右左の対立に囚われない政党も昨今生まれており、社会を変革するのは、小さな活動からのうねりなのかもしれないと少し未来に明るい展望を抱きました。
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自分の生活に染み込ませるような、生きる力を静かに養うような、そんな読書
ほとんどジャケ買いのような形で購入したので、著者のことをまったく知らずに手に取りました。読み始める前に調べてみると、アングラ劇団の演出家、出版社取締役、小林信彦や植草甚一などレジェンド文化人との仕事と、”戦後サブカルの生きる地図”のような人なんだと知り期待が高まりました。
御年86歳の著者が自身で「最後のお祭り読書」と表現した、老年の読書について書かれています。ブックレビュー然としてなくて、読書記録や読書周辺のよもやま話など著者の生活や考えが見えてくる、とても読みやすいエッセイです。著者が今まで触れることのなかった30〜40代の若い研究者・学者の本を読み刺激を受ける前半と、それら読書から読み解く、現代によみがえる新しいアナキズムの形について語られた後半で構成されています。
開発途上国でのフィールドワークなどを取り上げた文化人類学系の本は、ここのところ個人的に興味のあるジャンルです。政府の力がまだ及びきってない途上国の社会モデルからアナキズムを読み取って、生きにくい現代を生きるヒントにするような書籍も、よく本屋で見かけます。この本の中で指摘されている、新しい形のアナキズムを提唱しはじめた世代に私も入っているし、実際にそういった本も数冊ですが読んでます。この世代が今、アナキズムに接近しているのはなぜ? 景気のいい時代を知らないから?脱・保守的なマインド? そんな問いが生まれました。
この本を読み始めた当初、「希望あふれるタイトルの割には、自分のことを“もうじき死ぬ人”と頻繁に言うなあ」と少し気になっていました。照れ隠しの皮肉とも感じないし、老いに対する諦観のようなものかなと思っていたのです。しかし読み終わって、私のタイトルの解釈が違っていたのだと思いました。タイトルの『生きるための読書』は、自分の生活に染み込ませるような、生きる力を静かに養うような、そんな読書のいちスタイルのことを言っているのであって、著者個人の生とは関係ないのだと。
尽きぬ知的好奇心、あと切実に視力と認知力(笑)。それがあれば、老いても若い世代の本を読むことができる。老いて固まってしまいそうな脳みそを柔軟に開くことができ、若い風を招き入れることができるということか。私が高齢者になった時、それができるかどうか…
あとがきで階段から転倒し緊急入院、そして退院後についての著者の生活が書かれていますが、本当に、ただただ大事になさってほしいと願うばかりです。 -
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今年最初の読書のタイトルが『最後の読書』というのは、もちろん狙ったところもある。ただ、それ以上に感じるところもあってさ。編集者、演劇人とのことだけど、齢80になろうとする時期に、読書周辺での年齢からくる苦労など、あれこれというのがね。なんとなく最近年取ってきたなぁという自分の親を観る視点と重なったところがあるんだろうね。
冒頭、鶴見俊輔が脳梗塞となって以降、話すことも書くこともできなくなり、亡くなるまでの3年ちょっとの期間、ただひたすら本を読んでいたという話。幸田露伴の晩年、目が悪くなっていき、読むのに忙しいから、もう書く時間がない、と言っていた話など。読書人の晩年というのは、なんのためというのではなく読むこと自体に喜びを見出していくのかなぁ、なんて思った。
読書好きな人に限らないかもしれない。ただテレビを観たり、庭を眺めるだけでもいいのかもしれない。自分の外にあるものを、ただ受け取り、そこに溶け込んでいってしまうような。歳をとり、最終的にあの世に旅立つというのは、自分自身がこの世に溶け込んでいくということなんじゃないか、なんてことを考えてしまったね。
著者は古典をダイレクトに読めない自分の世代を、ダイレクトに読めていた先行世代と比較して苦笑している感があるけど、その視点に立つなら、俺なんてものはもう知的能力に欠けるなんてものじゃないよなぁ、と苦笑するところもあった。別に悲観や卑下して思うのではなく、まだまだ伸びしろ、あるよね、って。 -
Posted by ブクログ
広く一般の読書というものが、例えば車なんかのように、20世紀の大量生産、大量消費のうえに成り立っていた一過性のもので、永らくは特権階級のものであったし、その黄金時代は既に過ぎた、というのが、とてもよくわかる
読書の危機は100年前に映画によって既に始まってて、テレビの普及があって、ネット社会が今、やってきてる
本の危機なんて、凄く昔から何度も指摘されてたというのには驚く
あと、音読から黙読へ、と思ってたけど、ちょっと違った
音読と黙読から、音読しない時代へ、というのが正しい
それには、書院造にはじまる、パーソナルな空間の形成が関わってるし、筆者は言ってないけど、通勤電車というのは、つまりパーソナルな空間ってことなんだね
無視できる他人しかいない移動時間だけが孤独で自由、というのは、サラリーマンとしてよくわかる
本には、それを読んだ空間や時間の記憶が重ねられるが、電子書籍にはそれがない、というのは、環境を受け入れない透過光の画面だからか?それともただの世代の差なのか