【感想・ネタバレ】読書と日本人のレビュー

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ネタバレ

読書の方法として、小説読み と 学者読み のふたつの読み方がそれぞれどのように発展してきたのか。
また、本の種類として、固い本 と 柔らかい本のふたつに分けて主に20世紀以降どのようにしてそれぞれの本が扱われてきたのか。
日本の歴史に沿って日本人と読書の関係性に迫る本。

筆者の謙虚な姿勢もあってか、読み進めやすい一冊でした。

それにしても、二宮尊徳は街灯もない山道でどうやって本を読んでいたのか…。

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2022年10月13日

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「出版と権力」を読んだ後、同じ本を読んだ友人から「なぜ、いま若い人は本を読まないのだろう?」という、おっさん臭い質問をされ、若い人=本を読まない、って決めつけについて異議申し立てをして、お互い主観的な噛み合ないディベートになったのですが、そういえば、NHK Eテレのswitchインタビュー、鈴木敏夫×津野海太郎の回で紹介されていた本書、積読のままだったな、と思い出して開いたら、まさにジャストミートでした。「出版と権力」も講談社110年の歴史で出版という産業を語る大きなモノサシでしたが、この本は九世紀の初めの菅原道真の「書斎記」、そして13歳の少女が「源氏物語」を読みふける様を記した十一世紀の「更級日記」、ふたつの始まりから〈読書〉という行為を巡る物語でスケールが大きい。そのなかでも二十世紀が〈読書の黄金時代〉という特殊な時代なんだ、という主張が、とても腑に落ちます。「だれであれ本を読むということは基本的にいいことなのだ」という常識、これって長い間かかって育まれたものであり、それが今後、常識じゃなくなっていく…早速、友人に、読むように伝えました。長い歴史、各方面からの視点、ざっくばらんな文体、まるで津野さんが隣で話してくれているような新書でした。

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2021年06月06日

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平安時代から現代にかけての、日本の読書史。菅原道真と菅原孝標女との読書風景の対比が描かれた第1章から、引き込まれた。出版業界の構造不況が言われて久しいが、そもそも不況前の「読書の黄金時代」が、読書史全体の中でいかに特異な時期であったかがよくわかる。本のこれからを考える手がかりとなる1冊。

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2020年01月07日

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「読書」という文化が日本においてどのように育ってきたのかがよくわかる。

文字は昔から中国でも貴族階級の特権であったが、日本もそのご多分に漏れず、読書はほとんど江戸時代までは貴族や武士のみで全てであった。

一般大衆においては識字率字体は低く、働いて生きることで精一杯だったのだ。読書というのは、やはりある程度の余裕がないとできないようだ。

そのうち下層武士や農民でも裕福な者や村を管理するような立場にある者にも読書が普及しはじめ、江戸時代からは民衆にも次第に読書が広がっていった。
武士階級では「素読」といって音読をし、寺子屋の普及によってなどで、貧しい者でも勉学することで身を立てることができるようになっていった。
その最たる例の一人が二ノ宮金次郎である。今でも八重洲ブックセンターには二ノ宮金次郎の像が立っている。

このようにして読書文化は文字が日本に入ってきた6世紀から徐々に徐々に時間をかけて広がってきた。

ここで、明治以降になって読書文化が日本で爆発的に飛躍する。
それは、識字率の向上である。
そして、識字率の向上によって読者層に、「子供」「女性」「民衆」という今までになかった読者層が加わることによって、出版数もそれに伴って増えていった。


よく、教養主義というのが昔はあったと言われるが、これは、この読書文化の爆発に輪をかけた「円本」という一円で教養書が買えて読めるブームが到来し、それに伴い世界文学全集、世界大思想全集などの全集ものが矢継ぎ早に出版され、
そういった古典を知っているのが当たり前で、知らないことは恥だと見なされるような時代があったようだ。

だから読んでもないのに本棚に教養書を並べてはったりをかますことも可能だったのだろう。
それは読んでいることが当たり前で読んでないことは恥だとされる状況、つまり教養書を読んでいることに価値があるということが、万人に共通認識としてあったからこそ通用することである。



昨今は読書ばなれと言われるが、大体の場合で比較されているのはその読書の黄金期と呼ばれるような時代に対してであり、ある意味では文字導入期からの長い読書の歴史を俯瞰してみれば、現代は読書ばなれが進んでいるとはいっても出版数も多く、歴史的にはよく読まれている時代だといえる見方ができそうだ。

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2019年01月20日

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読書と名付けられた営みの変遷について、土岐は平安時代「源氏物語」「更級日記」といったあたりからさかのぼり、現代そして未来にいたるまでを述べた一冊。
ここまで日本人による読書の方法論と日本の読書の歴史について、詳しく述べられた本はないのではないかと思う。
はじめに、平安時代あたりの読書の方法として実際に読み上げながら文字を追い、意味の解釈を加えないという、いわゆる素読と呼ばれる方法による読書が主流であったことを知った。そこから、明治維新などにより時代は近代に向かうことで、教養的読書として、人々は本を読むようになる。そこから、部屋で一人本を読むというスタイルが確立されたという。しかし、このスタイルは明治以前から行われていたとされるが、自分一人の居室という概念がまだない住居形態ゆえに、このスタイルはまだ定着されていなかったとされる。
これら、平安から明治にかけての日本人が考える読書という営みやその方法論は非常に興味深いものだった。

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2024年05月01日

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リアル『本好きの下剋上』。
日本の読書の歴史に迫る本。音読か黙読か、“学者読み”か“小説読み”か。木版か活版か。そして、大量生産されるようになった本。電子書籍の登場。面白かったです。

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2022年11月26日

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ネタバレ

前半は、読書通史の空白を埋めるデッサンとして貴重な試み。
 後半は、出版の盛衰を振り返る取り組みとして。

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2020年11月03日

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ネタバレ

本来読み書きというのは、男性のみが行うことだった。
「男もすなる日記を、女もしてみん」と書いたのは男である紀貫之だったけど、それでひらがなが広まったというよりも、「女が書くところのひらがなを、男も書いてみん」というところなのではないかと私は思っている。
丸文字とかギャル文字など、若い女性は大昔もきっと、自分たちに通じる独自の文字を開発したのではないかと。

本が…というか、紙が貴重だったころは、数少ない本を貸したり借りたりして書き写すものだった。
その頃の大ベストセラー『源氏物語』
日本の家屋は寝殿造といって、広い板の間だけの建物を衝立で細かく仕切って使うような作りだったので、ひとりの時間をゆったり過ごすなんてことは貴族でもできなかった。
本(巻物)を持っている人は、得意満面でみんなの前で読み(たぶん音読)、本を読む人はあこがれの的だったのではないだろうか。

個室ができたのは室町の頃、書院造になってから。
狭くても壁やふすまで仕切られた部屋に、床の間や違い棚があり、そこで書を読む。
ようやく今の読書のイメージに近くなってくる。

江戸時代の寺子屋、明治の「学制」頒布による初等教育などにより日本人の識字率は高かった。

“[人力車の車夫や全身に入れ墨をほどこした馬丁や]さらにどんな店でも茶店でも見かける娘たち―彼らがみんな、例外なく何冊もの手垢にまみれた本を持っており、暇さえあればそれをむさぼり読んでいた。”
これは、明治維新の頃来日したロシアからの亡命者の書いた本からの一節。

印刷機の普及、西洋からの文学や哲学、自然科学の本の流入などにより、出版される本は江戸時代とは比べ物にならないほど増える。

しかし今、若者の活字離れが言われ、その若者よりも本を読まない高齢者が増えているという。
電子出版が増え続ければ、紙の本などそのうちなくなってしまうのではという悲観論もある。

ストーリーやトリックなどの目新しさを楽しむ、再読には向かない本はどんどん電子化すればいいと、個人的には思っている。
あと、教科書も電子化すればいいと思う。
タブレット一個に全教科を入れておけば、ランドセルも軽くなるし、忘れ物も減るだろう。
少子化なんだし、国ががんばって補助をすればいい。

本を読んでほしいと出版社が痛切に思うのなら、すべての本にルビを振ればいいと思う。
そうしたら、想定した読者年齢より若い子も難しい本を読むことができるし、難しい本を読むことができた子は、本を好きになると思うのだ。
難しい漢字をひらがなで書くのではなく、漢字にルビを振る。
意味は分からなくても、読んでいるうちに何となく理解できる。
そうやって知識は増えていくものなのでは?

文字だけではなく行間も含めて、装丁や手触りやインクのにおいや、そういうものをすべて含めて読書の楽しみと思う人たちのために、紙の本も残してほしいなあ。

今や本は文化の中心ではなくなっているかもしれないけれど、多様化する趣味の世界の片隅で、本への愛を叫ぶ人はきっといる。
これからも、ずっと。

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2018年02月16日

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●→本文引用

●「じぶんの本棚に好きな本がならんでるのを見ていると、なんとなく安心するんです」「本って記憶ですよね。夕方、どこかの町の喫茶店の窓際の席であの本を読んだなとか、本にはそれを読んだときの記憶がくっついてるでしょ」なのにインターネット経由、ケータイやスマートフォンで読む本(つまり電子本)には、そうした一切が欠けている。あれはやっぱり読書とは言えないんじゃないですか、というのですね。だから、やはり津村のいう「体を伴った読書」なのですよ。<紙の本>は一点一点が別の顔、べつの外見をもっている。しかし<電子の本>では、すべての表現が特定の企業や特定の技術者がつくったハードやソフトの平面に均されてしまう。

近世の書見台での読書や素読は、遅読論でも述べられていた。

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2018年01月14日

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編集者、評論家出身、和光大学名誉教授の津野梅太郎(1938-)による、日本の読書史。

【構成】
Ⅰ 日本人の読書小史
1 はじまりの読書
2 乱世日本のルネサンス
3 印刷革命と寺子屋
4 新しい時代へ

Ⅱ 読書の黄金時代
5 二十世紀読書のはじまり
6 われらの読書法
7 焼け跡からの再出発
8 活字ばなれ
9 <紙の本>と<電子の本>

本書は構成の通り、前後半で内容が二分されている。
前半は平安時代からはじまる日本の読書習慣の形成過程である。

『更級日記』の菅原孝標娘とその先祖にあたる右大臣・菅原道真の二人を取り上げて、一人で部屋にこもって黙々とストーリーを愉しむ「小説読み」と、オープンスペースで学究的に複数の書物と首っ引きで読む「学者読み」の源流を見いだす。

筆者は、自室でゆっくりと本が読めるようになる時期、そして書物の読み手が爆発的に増えた時期を、書院造が発達した室町時代だとする。そこには読書空間だけでなく、印刷技術の飛躍的進歩が寄与している。
「五山版」で培った木版印刷原板の彫刻技術が「きりしたん版」に受け継がれ、江戸時代末期に漢字かな混じりの木版印刷が行われ、安価で大量の書物が世に出回った。これが江戸期の庶民向けの読本隆盛につながっていくわけだが、明治に入るとこれが、洋紙への金属活字による活版印刷へ切り替わっていく。
面白い指摘だったのは、江戸期には複数の文字を続ける「続け字」までも活字にして組んでいたので、手書きと同じ程度に読み進めづらい印刷だった。しかし、明治に入ると、活字が一文字ごとに切り離され、文字の字体の揺れがなくなり、読書のスピードが上がったという。

後半は、二十世紀が読書の黄金時代であった、という作者の思いを、自らの読書体験にひきつけながら語られる。大正期の大衆総合雑誌の発刊にはじまり、大正期に「円本」として売られた各種文学全集の量産、大学生を中心とした教養主義の隆盛が、戦火を経ても戦後の出版文化を支えた。十分な量・質の出版物が世に出され、中流家庭にはかなり後半にそういった本が配架された本棚が据えられることになった。

その後の話は、紋切り型となる。1970年代に入ると、教養主義で称揚されていたようなアカデミックであったり古典的な「かたい本」は衰退し、小説やエッセーといった「やわらかい本」が中心となっていく。
「やわらかい本」や雑誌が「かたい本」を凌駕し、そしてさらに「紙の本」に対して「電子の本」が出回るのが現在。活字離れ論から電子書籍の立ち位置を敵対的なものにせず、活用していくのはこれからというあたりで締めくくり。

後半は、竹内洋『教養主義の没落』の劣化版という印象だが、竹内の著書は「かたい本」だが、本書は語り口も含め「やわらかい本」であるので、竹内本がとっつきにくい人にはよいのだろう。

本書で語られている歴史がどれほど実態に即しているのかわからない。

ただ、二十世紀という時代が読書習慣の形成という意味で、画期的な時代であったという切り口は面白いと感じたし、納得できる。

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2017年01月03日

Posted by ブクログ

前半は日本の読書史が書いてあり、本に対する読者や出版業界の成長の過程が良く分かった。しかし少し難しかったのでなかなか読み進められなかった。後半は現在の事になり、固い本や柔らかい本の地位の逆転や電子書籍との今後についての考察。為になったと思う。

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2018年12月19日

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広く一般の読書というものが、例えば車なんかのように、20世紀の大量生産、大量消費のうえに成り立っていた一過性のもので、永らくは特権階級のものであったし、その黄金時代は既に過ぎた、というのが、とてもよくわかる

読書の危機は100年前に映画によって既に始まってて、テレビの普及があって、ネット社会が今、やってきてる
本の危機なんて、凄く昔から何度も指摘されてたというのには驚く

あと、音読から黙読へ、と思ってたけど、ちょっと違った
音読と黙読から、音読しない時代へ、というのが正しい
それには、書院造にはじまる、パーソナルな空間の形成が関わってるし、筆者は言ってないけど、通勤電車というのは、つまりパーソナルな空間ってことなんだね

無視できる他人しかいない移動時間だけが孤独で自由、というのは、サラリーマンとしてよくわかる

本には、それを読んだ空間や時間の記憶が重ねられるが、電子書籍にはそれがない、というのは、環境を受け入れない透過光の画面だからか?それともただの世代の差なのか

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2018年11月18日

Posted by ブクログ

最初の方はとってつけたもので借り物のような議論であったが、昭和になってきて俄然著者の主張が生きてきた。

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2016年12月26日

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