あらすじ
「本はだまってひとりで読む、自発的に、たいていは自分の部屋で」。私たちがごく当たり前に「読書」と名づけてきたこの行為は、いつ頃生まれ、どのように変化してきたのだろうか? 菅原道真の時代から、まだ見ぬ未来へ。書き手・読み手・編集者として〈読書の黄金時代〉の真っ只中を駆け抜けてきた著者による、渾身の読書論!
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Posted by ブクログ
読書の方法として、小説読み と 学者読み のふたつの読み方がそれぞれどのように発展してきたのか。
また、本の種類として、固い本 と 柔らかい本のふたつに分けて主に20世紀以降どのようにしてそれぞれの本が扱われてきたのか。
日本の歴史に沿って日本人と読書の関係性に迫る本。
筆者の謙虚な姿勢もあってか、読み進めやすい一冊でした。
それにしても、二宮尊徳は街灯もない山道でどうやって本を読んでいたのか…。
Posted by ブクログ
本来読み書きというのは、男性のみが行うことだった。
「男もすなる日記を、女もしてみん」と書いたのは男である紀貫之だったけど、それでひらがなが広まったというよりも、「女が書くところのひらがなを、男も書いてみん」というところなのではないかと私は思っている。
丸文字とかギャル文字など、若い女性は大昔もきっと、自分たちに通じる独自の文字を開発したのではないかと。
本が…というか、紙が貴重だったころは、数少ない本を貸したり借りたりして書き写すものだった。
その頃の大ベストセラー『源氏物語』
日本の家屋は寝殿造といって、広い板の間だけの建物を衝立で細かく仕切って使うような作りだったので、ひとりの時間をゆったり過ごすなんてことは貴族でもできなかった。
本(巻物)を持っている人は、得意満面でみんなの前で読み(たぶん音読)、本を読む人はあこがれの的だったのではないだろうか。
個室ができたのは室町の頃、書院造になってから。
狭くても壁やふすまで仕切られた部屋に、床の間や違い棚があり、そこで書を読む。
ようやく今の読書のイメージに近くなってくる。
江戸時代の寺子屋、明治の「学制」頒布による初等教育などにより日本人の識字率は高かった。
“[人力車の車夫や全身に入れ墨をほどこした馬丁や]さらにどんな店でも茶店でも見かける娘たち―彼らがみんな、例外なく何冊もの手垢にまみれた本を持っており、暇さえあればそれをむさぼり読んでいた。”
これは、明治維新の頃来日したロシアからの亡命者の書いた本からの一節。
印刷機の普及、西洋からの文学や哲学、自然科学の本の流入などにより、出版される本は江戸時代とは比べ物にならないほど増える。
しかし今、若者の活字離れが言われ、その若者よりも本を読まない高齢者が増えているという。
電子出版が増え続ければ、紙の本などそのうちなくなってしまうのではという悲観論もある。
ストーリーやトリックなどの目新しさを楽しむ、再読には向かない本はどんどん電子化すればいいと、個人的には思っている。
あと、教科書も電子化すればいいと思う。
タブレット一個に全教科を入れておけば、ランドセルも軽くなるし、忘れ物も減るだろう。
少子化なんだし、国ががんばって補助をすればいい。
本を読んでほしいと出版社が痛切に思うのなら、すべての本にルビを振ればいいと思う。
そうしたら、想定した読者年齢より若い子も難しい本を読むことができるし、難しい本を読むことができた子は、本を好きになると思うのだ。
難しい漢字をひらがなで書くのではなく、漢字にルビを振る。
意味は分からなくても、読んでいるうちに何となく理解できる。
そうやって知識は増えていくものなのでは?
文字だけではなく行間も含めて、装丁や手触りやインクのにおいや、そういうものをすべて含めて読書の楽しみと思う人たちのために、紙の本も残してほしいなあ。
今や本は文化の中心ではなくなっているかもしれないけれど、多様化する趣味の世界の片隅で、本への愛を叫ぶ人はきっといる。
これからも、ずっと。