津野海太郎のレビュー一覧
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80歳まぎわ。視力、体力、脳力(とくに記憶力)の衰えを感じながら、本を読む日々。それにまつわる17章の連続エッセイ。とくに、瀬田貞二、山田稔、メー・サートンが登場する章が印象に残った。
視力の章では、津野自身が編集した伝説の雑誌『ワンダーランド』の話が出てくる。当時はカッコよいと思い、小さな活字をぎっしり詰めた紙面にした。ところがいま読もうとしたら読めず、高齢者のことをまったく考えていなかったと反省している。そうなの?と思った私。『ワンダーランド』創刊号をトランクルームから引っ張り出してきてみた。あらま、ほんとうだ、紙面が霞にしか見えない!!
津野が子どもの頃に身につけたのは、歩きながら本を読むクセ(二宮の金ちゃんみたいだ)。歩きながら本を読むこの津野少年を目撃していた別の少年がいた。それから40年経って、新宿のバーのカウンターでその少年から初めて話しかけられる。そのエピソードがおもしろい。もちろん、そこから少年時代に夢中になった本の話になるのだが。 -
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津野海太郎の力作
日本に読書史がないはまさにその通りで、活字離れを調べていると科学的または歴史的な文献が少ないことがよくわかると思います。この本に出会うまで日本人がなぜ識字率の高い民族として成り立ってきたのか、そもそも日本人で本が読まれたのっていつからといった起源に関することまでわからない人が多いのが現実だと思います。
それらを文献を辿り調べるにあたり、たとえエッセイであったとしても、形にするのにどれだけの時間がかかっただろうかと考えると途轍もない力作であっただろうと感じます。
これを書いた作者、津野海太郎にはただただ感謝します。
ぜひ時間をかけて読んでいただきたいです。 -
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「出版と権力」を読んだ後、同じ本を読んだ友人から「なぜ、いま若い人は本を読まないのだろう?」という、おっさん臭い質問をされ、若い人=本を読まない、って決めつけについて異議申し立てをして、お互い主観的な噛み合ないディベートになったのですが、そういえば、NHK Eテレのswitchインタビュー、鈴木敏夫×津野海太郎の回で紹介されていた本書、積読のままだったな、と思い出して開いたら、まさにジャストミートでした。「出版と権力」も講談社110年の歴史で出版という産業を語る大きなモノサシでしたが、この本は九世紀の初めの菅原道真の「書斎記」、そして13歳の少女が「源氏物語」を読みふける様を記した十一世紀の「更級日記」、ふたつの始まりから〈読書〉という行為を巡る物語でスケールが大きい。そのなかでも二十世紀が〈読書の黄金時代〉という特殊な時代なんだ、という主張が、とても腑に落ちます。「だれであれ本を読むということは基本的にいいことなのだ」という常識、これって長い間かかって育まれたものであり、それが今後、常識じゃなくなっていく…早速、友人に、読むように伝えました。長い歴史、各方面からの視点、ざっくばらんな文体、まるで津野さんが隣で話してくれているような新書でした。
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「読書」という文化が日本においてどのように育ってきたのかがよくわかる。
文字は昔から中国でも貴族階級の特権であったが、日本もそのご多分に漏れず、読書はほとんど江戸時代までは貴族や武士のみで全てであった。
一般大衆においては識字率字体は低く、働いて生きることで精一杯だったのだ。読書というのは、やはりある程度の余裕がないとできないようだ。
そのうち下層武士や農民でも裕福な者や村を管理するような立場にある者にも読書が普及しはじめ、江戸時代からは民衆にも次第に読書が広がっていった。
武士階級では「素読」といって音読をし、寺子屋の普及によってなどで、貧しい者でも勉学することで身を立てることができるようになっていった。
その最たる例の一人が二ノ宮金次郎である。今でも八重洲ブックセンターには二ノ宮金次郎の像が立っている。
このようにして読書文化は文字が日本に入ってきた6世紀から徐々に徐々に時間をかけて広がってきた。
ここで、明治以降になって読書文化が日本で爆発的に飛躍する。
それは、識字率の向上である。
そして、識字率の向上によって読者層に、「子供」「女性」「民衆」という今までになかった読者層が加わることによって、出版数もそれに伴って増えていった。
よく、教養主義というのが昔はあったと言われるが、これは、この読書文化の爆発に輪をかけた「円本」という一円で教養書が買えて読めるブームが到来し、それに伴い世界文学全集、世界大思想全集などの全集ものが矢継ぎ早に出版され、
そういった古典を知っているのが当たり前で、知らないことは恥だと見なされるような時代があったようだ。
だから読んでもないのに本棚に教養書を並べてはったりをかますことも可能だったのだろう。
それは読んでいることが当たり前で読んでないことは恥だとされる状況、つまり教養書を読んでいることに価値があるということが、万人に共通認識としてあったからこそ通用することである。
昨今は読書ばなれと言われるが、大体の場合で比較されているのはその読書の黄金期と呼ばれるような時代に対してであり、ある意味では文字導入期からの長い読書の歴史を俯瞰してみれば、現代は読書ばなれが進んでいるとはいっても出版数も多く、歴史的にはよく読まれている時代だといえる見方ができそうだ。
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単行本は2013年刊。もとは季刊「考える人」連載(2010年夏号~12年秋号)。
雑誌「暮しの手帖」の名編集長、花森安治(1911-1978)の評伝。文庫で426ページ。
労作。読み甲斐もある。でも、いかんせん、書かれている情報が細かすぎて、花森安治のあの魅力、あのセンスのよさ、あのユニークさがなかなか浮かび上がってこない。(敗戦までのことが、全体の半分強を占めているが、もっと短くてよかったようにも思う。だって、それまで「暮しの手帖」はおあずけなんだもん。)
Historical If は使っちゃダメよ、とはよく言われるが、でも、花森安治の場合は、どうしてもそれを考えてしまう。もし彼がいなければ、そして「暮しの手帖」がなかったら、戦後の日本はどうなっていたろう。心に潤いや余裕のない社会になってしまっていたのではないのかな。 -
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これを読むまで全く知らなかった人なんだけど、書いているのはエッセイで、出てくる人に知っている人も何人かいるので気楽に読めたし、自分が生きてきた時間はこういう人たちが生きていた時間とも重なり合っていた時間なんだけど、人生が絡まり合わないとこうも全く知らない時間なんだなということをまた考えた。まぁこの人はこの自分の親世代の人なんだから、それで当たり前で、そうかもしかしたら親父もこういうことを考えていたのかな。あの人も、普通のサラリーマンにはなりたくなかった人だったんだろうしな…
にしても友達は固まって死んでいくというくだりは、考えてみたら当たり前かと思いつつも、俺にはそもそも固まるほどの友人なんていないのだから、アイツがいなくなったら誰もいなくなってしまうんだなと思ったら… -
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読書と名付けられた営みの変遷について、土岐は平安時代「源氏物語」「更級日記」といったあたりからさかのぼり、現代そして未来にいたるまでを述べた一冊。
ここまで日本人による読書の方法論と日本の読書の歴史について、詳しく述べられた本はないのではないかと思う。
はじめに、平安時代あたりの読書の方法として実際に読み上げながら文字を追い、意味の解釈を加えないという、いわゆる素読と呼ばれる方法による読書が主流であったことを知った。そこから、明治維新などにより時代は近代に向かうことで、教養的読書として、人々は本を読むようになる。そこから、部屋で一人本を読むというスタイルが確立されたという。しかし、このスタイルは明治以前から行われていたとされるが、自分一人の居室という概念がまだない住居形態ゆえに、このスタイルはまだ定着されていなかったとされる。
これら、平安から明治にかけての日本人が考える読書という営みやその方法論は非常に興味深いものだった。