石川明人のレビュー一覧
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『宣教史から信仰の本質を問う』と副題にある通り、歴史の本です。ザビエルから明治までの、日本におけるキリスト教の歴史が、分かりやすく書かれています。
「日本人を助けてくれる温かな一面を持っていたのは確かであるが、その一方で、時にはかなり面倒でやっかいな存在であったのも事実だと言わざるをえない。」
と著者も書いていますが、日本人は『役に立つかどうか』『ためになるかどうか』という方向性を気にする傾向が強いのでしょう。
さらに、厄介者を放って置けない、ある種の「島国根性」のようなものが根深く、迫害にも繋がったのだと思われます。
個人的に大きな発見だったのは、宗教という言葉が日本には明治になってから入ってきたものであり、それまではそういう概念自体が無かったということです。
恐らくこの『宗教そのものに対する日本人と西洋人の認識のギャップ』が埋まらなかったことも、現状に大きな影響を与えていると思われます。
キリスト教も一つの「道」であり「教え」であり、唯一絶対な完成されたものではなく、究めていくべきものなのでしょう。
私たちが意識を変えることができれば、私たち日本人にも大きな恵みをもたらしてくれるに違いありません。 -
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アイデンティティがどこにどれだけ存在するのか、どのスタンスからそれを考えるのか、によって捉え方はそれこそ人の数だけ細分化されてしまうのではないか…というとりとめなさを感じました。
本書を読むことによって「宗教と暴力」について自分なりの考えがまとまる?どう考えるべきか?自分の意見が持てる?と思っていましたが逆にもっと混沌としてしまった…ような…(苦笑)
本書においても議論は未だ未だ途上である、議論は尽きるどころかこれからだったのにという印象。
本書の印象だけ言えば松岡さんという先生は容赦がないな、ということと池上さんはさすが場をまとめるのが素晴らしく上手でいらっしゃるということでしょうか(笑)
第一弾とこのあと第三弾もあるとのことでそちらも読んでみたいですが…手に取る機会がありますでしょうか… -
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シンポジウムをまとめる形式の対話型の本。
なんか評価低いけど、宗教に対するいろんな視点があっておもしろかったけどなー。
「北朝鮮だからしょうがない」「〇〇だからしょうがない」は思考停止であり分析ではない。
「殺しあう人数が足りないから紛争が止まらないかもしれない」という分析。第三者の介入ではなく、内部から殺しあうのは嫌だという感情がわかないといけない、というのは衝撃的な考え方。
エキュメニカルとファンダメンタル
人間の心の構造はどうなってるかわからないと宗教と暴力の問題は解決できない。心理学が大事。
テロリストと構成員は異なる。政治的思想を持ち得ない者はテロリストではない。
宗教において自分の命を投げ出せる者は、他者の命を奪うことにも抵抗が少なくなる。 -
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「信仰とは信じると疑問や問いを立て自分なりに多様に信じること」を教えてくれる。信仰とは宗教とは何かという視点で理解度を深める良書と言えよう。
信仰とは人間に備わっている能力であり、それらは科学分野問わず、様々な分野に影響を及ぼしている。
だが、盲目的に一方的に「信じ込ませる」という周囲からの影響で押しつけられる信仰とは宗教なのか?という問いを立てることが容易であろう。歴史から近代、現代で多種多様な宗教が生まれ消えた。
宗教はビジュアライゼーション(視覚化)を手段として用いる。信仰の対象は何なのか、その信仰する対象との悪の存在と何なのかをわかりやすく教え、信仰が始まる。
宗教として例として神や悪魔などの存在の有無や信仰をするかは人それぞれである。いかようにも解釈できる。その問いの議論は終わらない。
そして、同時に入信が容易いように、改宗や脱宗教や宗教離脱も容易く離れる人に人為による害がなければ、あればそれは良い宗教である。神など超越的な存在がいるのであれば、離れるのも想定内であろう。
宗教や信仰は無くならない。人には必要だからだ。時代が変わり、これから千年万年以降も続く世界であろうとも、信仰という形は残るだろう。 -
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ドーキンスさんの本を読んで、宗教にやっと関心を持つことができたので、今度はこの本を読んでみることにした。(絶対読む順番反対なんだけど、、)
家族と、宗教を信じる必要性や科学を無視した(正直言って)、科学的に見れば辻褄の合わない論理を、なぜ世界中の多くの人々が信じているのかが謎ということで話題になった。この本を通して宗教、とくにキリスト教を信じる人が何を考えているのかを明確にしたかった。
まず、「信じる」という言葉をわざわざ使うのであれば裏には「それを疑っている」という前提もあるのではないかという主張はかなり画期的だと思った。ドーキンスさんが言っていたように、聖書にはすべて教えが書かれているわけではなく忠実に従うべきでない項目もあるので、やはり読み手が取捨選択する能力が必要である。それならば聖書など最初からいらないのではという主張も、本書が補足的な役割をしてくれたおかげでだいぶ理解が追いついた。ちなみに本書では反神議論と無神論は異なるようだ。(違いはよくわからない)
ただ、信じるべきでない記述が聖書にある理由について、人間はツルツルしたものよりもざらざら凸凹したもののほうが掴みやすいという比喩がいまいちよくわからなかった。(p37)
それと読み物は違うというか、だったら最初から省けよ…といまだに思っている。
キリスト教信者は、完璧な人よりもちょっとおっちょこちょいで人間性の垣間見える人のほうが好感度をもつということなのか、、?
そして2つめに、信者にとって信じることは趣味程度のものだということ。(p38)どうやら四六時中聖書の教えを守っているというわけではないらしい。推し活のように意外と軽いようだ。
ガリレオ裁判は議論の余地がある、ちょっと理解できなかった。
宗教は人を幸福にするか?という章では、結局その人の受け止め方次第だよね、というのが著者の考え方のようで、これはアドラーの嫌われる勇気に似ている考え方だなと思った。(p155)
また、日本の諺と聖書に書かれている内容が一致するということで、なんとなく土着という言葉を思い浮かべた。
ということで、この著者のスタイル的に結論を出さない、意見を保留するみたいな感じで、いつも「かもしれません。」が文末に来てて「じゃああなたの意見はなんなのですか?」と言いたくなることが何度かあったが、
聖書が不完全だから、やっぱり人間は不完全なのかなと思った。そしてますます、ドーキンスさんの主張に同意できるようになり、聖書の必要性がよくわからなくなった。 -
Posted by ブクログ
う〜〜〜ん
なかなか難しいというか
書いてあることは理解できているつもりだけれど...
この本のタイトルを見て、この本の中に答えがあるような気がして読んで見たが...
謎が深まるというか...
ただ思ったのは
「信じる」事は能動的な事で、受け身なことではないと思っている。
宗教...を信じる...となるとまた一つハードルが上がる気がしてくるけど...
何かを「信じる」ことはなんというか明日に繋がる気がする...
いつだった読んだ本に「自分の本当の気持ちは神様にしかわからない...」みたいなことが書かれたあるのを読んだ記憶があるけど...
自分の気持ちすらわからない時がある...
口ではこう言っているけど心の中では違う思いがある...とか...
宗教はなんか生き方の指針みたいなところがあるようにも思うし、道徳観を養う...みたいな感じもしている...
なんだかややこしい本を手にした感あり...
そもそも宗教ってなんだ?って感じにもなってきた... -
Posted by ブクログ
ネタバレ読んでスッキリする本ではない。
人類の営み自体が愚かで右往左往しているからだ。
が、以前からスゴ本ブログで教えてもらった、ハロルド・クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」についてしっかり書かれていて、ますます興味を持った。
また、中島らも「今夜、すべてのバーで」で知った例の祈りのラインホルド・ニーバーについても、数か所で言及されていた。
@ 以下コピペだが、【 】は個人的メモ
科学の時代に神を信じることは出来るのだろうか?この世に悪があることを宗教はどう説明するのか?宗教は人を善良にしたり、世界を平和にするのか?素朴な疑問を通して、宗教と人間のリアルに迫る。
目次
はじめに
信じる者は救われる?/宗教以外にも「信じ」ていること/本書の狙い
第一章 そもそも「信じる」とは、どういう行為なのか
現代人は本当に宗教を「信じていない」のか/よくわからない「信仰」という言葉【宗教=信仰・実践・所属】/「信じる」という動詞のさまざまな使われ方/正しいことは、わざわざ「信じ」なくてよいのでは/そもそも何を信じているのか/本当に信じていたら、むしろ「信じている」と言わなくなるのでは/「信じています」と言えば信者なのか/キリスト教徒は、本当に聖書を「信じ」ているのか/お金についての教えも「信じ」ていない?/むしろ「信じ」られない部分が必要なのか/信徒たちの「信仰」は、実はさほど徹底したものではない/宗教に限らない人間一般の傾向/マザー・テレサにおける「神の不在」/そもそも神は「信じ」る対象なのか/イエスは「信じること」にこだわったのか/イエスが人生の最期で口にした言葉/神を信じているならば、かえって疑いを口に出せるはず/「信じ」ているから、文句を言える/「素直に」という副詞は「疑う」という動詞にこそふさわしい/あまり「こだわらない」ようにする/よくわからない「信仰」
第二章 神を「信じ」ているとき、人はそれをどう語るのか
宗教を信じることは非科学的な態度なのか/宗教は科学を排除しない/「祈り」で砲弾から兵士を守れるのか【パウル・ティリッヒ】/ダライ・ラマの発言/「祈り」のいろいろな側面/「主の祈り」は利益や幸福をお願いするものではない/祈りは「お願い事」ではない【要求ではなく、信頼の表現】/ニーバーの祈り【ラインホルド・ニーバー】/ガリレオ裁判/神は「二つの書物」を書いた/神の存在を論証しようとするということ/神と古代の哲学者たち/「神が世界の知性である」【タレス】/宗教的なピュタゴラス/宗教を批判するが、神は否定しない【クセノパネス】/「万物は魂と神々に満ちている」【ヘラクレイトス】/神々に対するちょっぴり冷めた見方【プロタゴラス】/宗教は民衆をコントロールするためのもの?【クリスティオス、ディオゲネス】/ソクラテスの告訴状/神を「信じ」たソクラテス/プラトンの宗教論/神は人間的な事柄を配慮するか【アリストテレス】/エピクロスにおける「神」/妙な「神」を信じている方がよっぽど不敬虔【エピクロス】/宗教に批判的な立場の諸相/「無神論」という概念の広さ/ニーチェの「神は死んだ」/神の死の神学/「存在しない神に祈る」【シモーヌ・ヴェイユ】/「神は存在しない」【パウル・ティリッヒ】/「神なしで生きる」【ディートリッヒ・ボンヘッファー】/「神を棄てる」「仏を殺せ」【マイスター・エックハルト】/「信じる」の奥行き
第三章 この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか
耐えられない試練などない?/切実な願いも叶えられない現実/なぜ神は日本人の「悪」を放置したのか/「神義論」という問い【ライプニッツ、ヒューム】/『なぜ私だけが苦しむのか』【ハロルド・クシュナー】/不幸の理由を説明するいくつかのパターン/教育的な効果があるのか、死後の世界で埋め合わせがなされるのか/問いそのものを考え直す/ヨブの物語/「神が支配していないことがらもある」/すべてのことに理由があるわけではない/アウシュヴィッツについては「神は防ぐことができなかった」/神を「信じ」てはいるけれども/誰もが納得できる答えはない/抗議の神義論/「わからない」のに、なぜ「信じる」と言い切れるのか/幸福を得るために「信じ」ているのではない?/星野富弘の場合/口で文字と絵をかく/「神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら」/本当の死の時まで/「でも神さまありがとう」/三浦綾子の影響/「得たものの方が多い」/幸せとは何か/「信じる」とはいったい何か
第四章 同じ宗教を「信じ」ていれば、人々は仲良くできるのか
宗教は「個人の心の問題」?/イソップ寓話と聖書/「目からうろこ」や「復讐するは我にあり」/旧い契約と、新しい契約/新約聖書の内容/イエスは何も文章を書き残さなかった/宗教は集団で営まれるもの/人間の「標準化」としての宗教/信徒たちは平和の教えを「信じ」ているのか/キリスト教は本当に「非暴力」?/キリスト教徒たちは武力行使に躊躇しない/絶対平和主義と非暴力主義は少数派/宗教は「戦争の原因」であるとは言えない/宗教は「平和の原因」であるとも言えない/キリスト教は最初から「一つ」ではなかった/愛と平和を唱えていても喧嘩をするのが人間/教派間の対話と協同へ/「多くの宗教がある」という難問/異なる宗教とも仲良くしようとする動き/信仰を捨てることは悪なのか/芥川龍之介『おぎん』/おぎんらの棄教は悪魔にとって「成功」だったのか/何が正しいのか
第五章 神を「信じ」たら、善良な人間になれるのか
「人格者」になりたい私たち/よい生き方と学問【ルース・ベネディクト】/「ヒューマニティーズ」とは何か/「人間性」と「教養」【キケロ】/人文系学問に期待されていたもの/人文系の学者は人格者なのか/武道やスポーツや芸術で「人格者」になれるのか/やっぱり「宗教」なのか/弱い人々のために無償で働く【マザー・テレサ】/身代わりになって死んだ神父【マキシミリアノ・コルベ】/生徒に鞭打つ聖職者【ロアルド・ダール】/ラフカディオ・ハーン「お大の場合」/聖職者たちによる加害/教会でも人間関係の衝突がある/信仰は人を善人にする魔法ではない/ダビデ王の悪事/無宗教者・無神論者であれば善人になれるのか/プラス面もマイナス面もある/キリスト教徒であることにこだわらない/愛とは面倒くさくて嫌なもの【ドストエフスキー】/愛も憎しみも、人間は知らない -
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タイトルがややミスリードで、「宗教」を信じる、ではなくて、内容としては「神」を信じる、とはどういうことか、を論じておられます。内容としては、学術的見地に基づいて、非常に地に足の付いた落ち着いた論を展開されていると感じました。
と同時に、はじめににも、すっきりしていただくことを目的としていない、とあるように、すっきりしたい人にはお勧めしません。
自分は宗教をやっていますが、他人には勧めません。それは、自分が他人の幸せにあまり興味がない冷たい人間の表れなんだとも思っていますし、そもそも宗教を勧めることで人間関係を悪くしたくないという、保身のためでもあります。
自分が宗教をやるのは、その教義を自分が身につけることで、人格者を目指しているからで、ある意味自己満足です。
自分の経験から言えば、本書の4章のタイトル、同じ宗教の人なら仲良くなれるかと言えば、そんなことはありませんし、逆に自分と同じ宗教でない人でも、素晴らしい人格者の知り合いはたくさんいます。宗教に限らず、人間が集団を営むのであれば、善人だけの集団はあり得ないでしょう。
本書内にもありましたが、武道・スポーツ・芸術もそれで人格者になれるわけではないので、宗教も芸術みたいなものかもしれませんね・・・。
わからないことをわからないままにしておけて、そういった人やものを排除しないでそのまま置いておけるという心のゆとりが、現代日本には必要なのかもしれないなと思いました。 -
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本書は最後の一言にまとめられる。
「何よりもまず、私たち自身が武器であり、凶器だったのだ」
本書はまず、武器の定義を「直接、間接に敵の戦力低下を目的として使われる道具」であるとする。
原始の武器である投槍器から始まり、人は常に武器を改良してきた。
それは、例えば飛行機という発明品も、発明されてすぐに武器として使われるようになったり、
ネジの規格化も戦争において、すぐに銃火器を修繕できるためのモノであった。
そして、文化・宗教に至るまで全ては戦争の道具、つまり武器として役に立ってきた。
さらに、今後は情報が大きな武器となるのは言い古された事実である。
フェイクニュース、コンピュータウィルス、情報戦の時代においては、いかなる情報も武器化する。
すると、極論すると人こそが武器である。
武器と文化、戦争と平和、背反するそれらは常に表裏一体である。 -
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著者は洗礼を受けたキリスト教徒とのことであるが、教会・キリスト教に対して非常に辛辣な分析である。実は16世紀のイエズス会の宣教師たちが人身売買をし、日本人への差別意識(特にカプラル)を持ち、戦争商人としての役割も果たしていた。その頃の日本が軍事大国になったために鎖国をすることができ、それが宣教師の「御陰!」など皮肉っぽいお話だ。そして、幕末以降のキリスト教史、ヘボン(米)、ド・ロ(仏)、ニコライ(露)などの各国の各宗派からの宣教師についての説明が詳しい。山本五十六、井上成美が聖書を精読していたという逸話が面白い。一方で、日本でキリスト教がなぜ普及しないのか?キリシタン禁教の影響もあれば、武士階級⇒知識階級の宗教になったことによる理由なども説得力がある。高村薫、立花隆のキリスト教に対する違和感、嫌悪感の説明もうなずけるところは多かった。宗教とは何か、信じるとは何か、キリスト者が疑うことはあるのか(マザーテレサの場合)など興味深い分析へと書は発展していく。
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ネタバレ「愛と平和の宗教」として語られ、またそのように自認するキリスト教と戦争・暴力の係わりを紹介した書。聖書・神学・信徒の言葉からキリスト教における戦争・武力行使の正当化のあり方を概観し、キリスト教の「平和」と「戦争」に対する態度、ひいてはそこから浮かび上がる人間そのものの矛盾に満ちた本質を説く。
本書は、「愛と平和」を説くキリスト教が「戦争と暴力」をどのように肯定してきたのか、如何なるロジックで前者と後者を両立させてきたのかを紹介した本である。「なぜ、キリスト教徒は、「愛」や「平和」を口にするのに、戦争をするのだろうか」という素朴な疑問の紹介から始まる本書は、キリスト教と戦争・暴力を巡る関係を様々な視点から概観していく。正当防衛や条件付きでの武力行使を認めるローマ・カトリック教会、「不正や悪人を罰する」戦争を肯定するルター、聖書における戦争や虐殺・軍事的比喩の記述、初期キリスト教や中世教会の戦争との関わり方――。
それらを通して見た上でなされる、先の問いに対する筆者の答えは単純明快である。そもそも、この問いの前提となる「『愛と平和』・『戦争と暴力』は二項対立である」という概念そのものが間違いなのだ、と。キリスト教は現実の諸要請に応じて(条件付きながらも)戦争や暴力を肯定してきたし、またそれを教義や神学のレベルでも織り込んできた。その根拠にあるものは、戦いや武力は必ずしも神やイエスの説く「愛」や「正義」、「平和」と矛盾するものではなく、寧ろ状況によっては後者をなす為の一つの手段である、という論理であった。平和と戦争を巡るキリスト教(及び個々の信徒)の考えは様々ではあるものの、「愛と平和を祈ること」と「戦争をすること」は決して常に矛盾するものではないのである。
筆者はここから、戦争にまつわる人間普遍の本質についても話を広げていく。人は「愛」や「平和」「正義」を望みながらも、その為に戦いや暴力を行ってしまう。戦争の根本にあるものは「善意と悪意の入り混じった、混沌とした理性と情念」であり、「愛情」「優しさ」のみではその抑止にはなりえない。それは人間が持つ本質的・普遍的な不可解さ・矛盾であり、限界である。平和と戦争を巡るキリスト教の言説は、ある意味で平和と戦争を巡ってアンビバレントにのたうつ人間の姿でもある。「はっきり言って、真の愛など、私たちにはありえないのかもしれない。私たちに、真の愛は不可能なのだ。そう気付くことの方が、正直というものである」(p221)という筆者の言葉から浮かび上がるのは、戦争と平和について議論する上で本当の意味で必要な悟りにも似た諦念である。
本書はキリスト教徒の筆者によって編まれたものであるが、その中での筆者の語り口は赤裸々なまでに率直である。「キリスト教は、それ自体が「救い」であるというよりも、「救い」を必要とするのに救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である」(まえがき)とまで言ってのける筆者は、一体何を以って信仰しているのであろうか、と思ってしまう程でである。ややもすると露悪的に扱われがちなセンセーショナルな話題を扱っていることもあり、もう少し個々の事例の背景事情についても解説してほしかったという不満はあるものの、色々と考えさせられる本であった。