あらすじ
科学の時代に神を信じることは出来るのだろうか? この世に悪があることを宗教はどう説明するのか? 宗教は人を善良にしたり、世界を平和にするのか? 素朴な疑問を通して、宗教と人間のリアルに迫る。
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Posted by ブクログ
仏教やイスラム教のことではなく、キリスト教を詳細にその歴史や新約、旧約についての説明、戦争と宗教についてわかりやすく書かれたものである。ラフカディオ・ハーンの「お大」についての要約はわかりやすかった。これからドラマでハーンを取り上げているが、「お大」をとりあげるかどうかは不明である。
Posted by ブクログ
他の人の書評ではなかなか厳しい評価がされているところもあるが、幼い頃からキリスト教徒として育てられたまさに私のような者には目から鱗の内容である。
入門者向けの宗教に関する日本語文献は、多くが非キリスト教徒、特に仏教徒向けの内容でありキリスト教徒にとってはなかなかとっつきづらかった。そうでなくともキリスト教徒向けにキリスト教系の出版社が出している書籍はあったが、どちらかというと信徒として信仰していくことを前提においてキリスト教の優位性を説くような内容になりがちであった。
この本はどちらにも当てはまらない。キリスト教徒が書いたキリスト教視点での本ではあるが、その内容は教会で説かれているような教えとはまるで別物である(私が福音派出身で現在カトリックなので余計そう感じるのかもしれない)。
聖書は偽りなき神の御言葉です、神は全知全能のお方です、などなど教会で説かれている数々の教えについて、数々の信仰者が「実は全然そんなことない」という結論を出しているのだ。
このことは教会では教わらないからこそ、すべての日本のキリスト教徒にこの本を読んでほしい。教会の教えを疑うことは不信仰でもなんでもないことが、この本を読めばよくわかると思う。
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こりゃ,深いわ。
「信じる」という言葉の意味をとことん追求していくことで,分かっていたつもりでしかなかったと著者に思い知らされた。
そもそも「信じる」という言葉は,どういうことに対して使うのか,使えるのか。
「わたしはあなたを信じています」
「これは間違っていないと信じる」
これは使えそう。
でも,
「三角形の内角の和は180度だと信じる」
「地球は球体だと信じる」
という文は,現代においては変な文章だということは分かるだろう。
つまり何かを「信じる」ための前提には「本当かどうか疑っている」ということがあるのではないかというのでだ。
だから「わたしは神様を信じています」といった途端に,その言葉を発した人の心の中では「神様がいないかもしれない」と思っているということも含まれているのではないか。
本当に神様がいるのなら,「信じる」とは言わなくていいからだ。
著者はこんな風に論を進めて,わたしたちが「宗教を信じる」「宗教なんて信じていない」いう両極端に見える主張が,案外そうでもないのではないかというのだ。
さらに,宗教を信じている人も無神論者の人も,人間であることから逃れられない。だから,それだけで人格者かどうかなんて全く決められないともいう。そりゃそうだ。
まだまだまとまった感想文を書けないので,再読することになる本だわ。
Posted by ブクログ
そもそも「信じる」とはどういう行為なのかという第一章の議論や、古代ギリシアから始まり様々な哲学者・神学者や現代の作家が「神」をどう捉えて受け容れてきたかをつまみ食いする本としては非常に面白かったです。
以下では個人的に読んでいてすっきりしなかった部分について述べます。
まず、前書きに「宗教という文化を理解してすっきりするのが目的ではなくて、宗教という営みの『わからなさ』『捉えがたさ』に改めて気付いてもらうことを目指している」と書かれていて、前者を期待して読み始めた私には正直あてが外れたところがあります。
その上で、著者の疑問の持ち方、「信じる」ということに対する考え方が合わないと感じることも度々ありました。
「ほとんどのキリスト教徒は非暴力の教えについて『知っている』けれども、『信じてはいない』ということに他ならないように見える」に対して「実践するということを何か甘く見ていないか、それが簡単には叶わない現実があるからこそそれが正しいと『信じる』ことに意味があるのでは?」と思ったり、
同じ宗教を信じていても結局人は争うし信じたから善良になれるわけではないといった話に対して、「社会が複数の人間によって営まれている以上当然のことだろう、信じるだけで完璧な存在になれるのだとしたらそれは人間を買いかぶりすぎだ」と思うといった具合です。
文中で何度も繰り返される疑問がそもそも疑問に思われないのは、読んでいて随分もどかしかったです。最後の数ページになってようやく「そうであろうとすること」の重要性や人間の限界や不完全さに触れられて、あー、ですよねー、になるという。論の構成が合わなかったというか。
後書きで著者が書いているように、自分の宗教や人間に対する考えを確認するきっかけとしては良かったといえるかもしれません。
Posted by ブクログ
自分に対して優しくしてくれる人や、利益をもたらしてくれる人のことは「好き」なので、てっきり「愛」というものを知っていると思い込んでいます。自分と自分の好きな人だけは守りたいから、「正義」というものを知っていると思い込んでいます。でも実は、私たちは誰もがけっこう自分勝手で、見栄っ張りで、独善的です。自分の善と他人の悪は巨大に見えて、自分の悪と他人の善は微小に見えてしまうのが人間です
Posted by ブクログ
典型的な日本人である私は神社にも行くし、寺にも行く。だがそれは儀礼的なものだ。私にとって神は存在しても、していなくともどちらでも良い。信仰心の厚い人との会話の中で違和感を感じる事は、この世の全てを『神の采配』『神の思し召し』『神が与えた試練』といった具合に現状の起源を神に収束させる発言である。これと「偶然とは無知の告白である」とは何が違うのか?物事には必ず因果律がある。私達に与えられた知性は因果を辿るだけの能力がある筈なのだか、あらゆる結果を神だとか偶然だとかに収束させて、そこで思考停止する、その姿勢こそ神が最も望まないものではないのかといつも考え込んでしまう。
Posted by ブクログ
信じるという言葉を簡単に使いがちだけれど、その行為の曖昧さを少し理解できたように感じる。
自分は宗教を日常的に信仰しているわけでなく、行事で接するくらいで、宗教に関する理解がほとんど無かった。宗教に対してなんとなくマイナスなイメージがあったため本書を読んでみたが、宗教を突き詰めていくと人間そのものについて考える事になるのだと分かった。
Posted by ブクログ
「信仰とは信じると疑問や問いを立て自分なりに多様に信じること」を教えてくれる。信仰とは宗教とは何かという視点で理解度を深める良書と言えよう。
信仰とは人間に備わっている能力であり、それらは科学分野問わず、様々な分野に影響を及ぼしている。
だが、盲目的に一方的に「信じ込ませる」という周囲からの影響で押しつけられる信仰とは宗教なのか?という問いを立てることが容易であろう。歴史から近代、現代で多種多様な宗教が生まれ消えた。
宗教はビジュアライゼーション(視覚化)を手段として用いる。信仰の対象は何なのか、その信仰する対象との悪の存在と何なのかをわかりやすく教え、信仰が始まる。
宗教として例として神や悪魔などの存在の有無や信仰をするかは人それぞれである。いかようにも解釈できる。その問いの議論は終わらない。
そして、同時に入信が容易いように、改宗や脱宗教や宗教離脱も容易く離れる人に人為による害がなければ、あればそれは良い宗教である。神など超越的な存在がいるのであれば、離れるのも想定内であろう。
宗教や信仰は無くならない。人には必要だからだ。時代が変わり、これから千年万年以降も続く世界であろうとも、信仰という形は残るだろう。
Posted by ブクログ
ドーキンスさんの本を読んで、宗教にやっと関心を持つことができたので、今度はこの本を読んでみることにした。(絶対読む順番反対なんだけど、、)
家族と、宗教を信じる必要性や科学を無視した(正直言って)、科学的に見れば辻褄の合わない論理を、なぜ世界中の多くの人々が信じているのかが謎ということで話題になった。この本を通して宗教、とくにキリスト教を信じる人が何を考えているのかを明確にしたかった。
まず、「信じる」という言葉をわざわざ使うのであれば裏には「それを疑っている」という前提もあるのではないかという主張はかなり画期的だと思った。ドーキンスさんが言っていたように、聖書にはすべて教えが書かれているわけではなく忠実に従うべきでない項目もあるので、やはり読み手が取捨選択する能力が必要である。それならば聖書など最初からいらないのではという主張も、本書が補足的な役割をしてくれたおかげでだいぶ理解が追いついた。ちなみに本書では反神議論と無神論は異なるようだ。(違いはよくわからない)
ただ、信じるべきでない記述が聖書にある理由について、人間はツルツルしたものよりもざらざら凸凹したもののほうが掴みやすいという比喩がいまいちよくわからなかった。(p37)
それと読み物は違うというか、だったら最初から省けよ…といまだに思っている。
キリスト教信者は、完璧な人よりもちょっとおっちょこちょいで人間性の垣間見える人のほうが好感度をもつということなのか、、?
そして2つめに、信者にとって信じることは趣味程度のものだということ。(p38)どうやら四六時中聖書の教えを守っているというわけではないらしい。推し活のように意外と軽いようだ。
ガリレオ裁判は議論の余地がある、ちょっと理解できなかった。
宗教は人を幸福にするか?という章では、結局その人の受け止め方次第だよね、というのが著者の考え方のようで、これはアドラーの嫌われる勇気に似ている考え方だなと思った。(p155)
また、日本の諺と聖書に書かれている内容が一致するということで、なんとなく土着という言葉を思い浮かべた。
ということで、この著者のスタイル的に結論を出さない、意見を保留するみたいな感じで、いつも「かもしれません。」が文末に来てて「じゃああなたの意見はなんなのですか?」と言いたくなることが何度かあったが、
聖書が不完全だから、やっぱり人間は不完全なのかなと思った。そしてますます、ドーキンスさんの主張に同意できるようになり、聖書の必要性がよくわからなくなった。
Posted by ブクログ
宗教という営みのわからなさに欧米の思想やキリスト者の言葉を通じて気づく、みたいな本。
折角第一章で神道は宗教と言えない論についてちらほら紹介されるのに、その後は全く言及がなくなるので肩透かしを食らった気分。宗教は人間に規格を定め、その社会の構成員を標準化するための仕組みかも?って話が面白かった。神義論については参考図書を追いたい
Posted by ブクログ
う〜〜〜ん
なかなか難しいというか
書いてあることは理解できているつもりだけれど...
この本のタイトルを見て、この本の中に答えがあるような気がして読んで見たが...
謎が深まるというか...
ただ思ったのは
「信じる」事は能動的な事で、受け身なことではないと思っている。
宗教...を信じる...となるとまた一つハードルが上がる気がしてくるけど...
何かを「信じる」ことはなんというか明日に繋がる気がする...
いつだった読んだ本に「自分の本当の気持ちは神様にしかわからない...」みたいなことが書かれたあるのを読んだ記憶があるけど...
自分の気持ちすらわからない時がある...
口ではこう言っているけど心の中では違う思いがある...とか...
宗教はなんか生き方の指針みたいなところがあるようにも思うし、道徳観を養う...みたいな感じもしている...
なんだかややこしい本を手にした感あり...
そもそも宗教ってなんだ?って感じにもなってきた...
Posted by ブクログ
読んでスッキリする本ではない。
人類の営み自体が愚かで右往左往しているからだ。
が、以前からスゴ本ブログで教えてもらった、ハロルド・クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」についてしっかり書かれていて、ますます興味を持った。
また、中島らも「今夜、すべてのバーで」で知った例の祈りのラインホルド・ニーバーについても、数か所で言及されていた。
@ 以下コピペだが、【 】は個人的メモ
科学の時代に神を信じることは出来るのだろうか?この世に悪があることを宗教はどう説明するのか?宗教は人を善良にしたり、世界を平和にするのか?素朴な疑問を通して、宗教と人間のリアルに迫る。
目次
はじめに
信じる者は救われる?/宗教以外にも「信じ」ていること/本書の狙い
第一章 そもそも「信じる」とは、どういう行為なのか
現代人は本当に宗教を「信じていない」のか/よくわからない「信仰」という言葉【宗教=信仰・実践・所属】/「信じる」という動詞のさまざまな使われ方/正しいことは、わざわざ「信じ」なくてよいのでは/そもそも何を信じているのか/本当に信じていたら、むしろ「信じている」と言わなくなるのでは/「信じています」と言えば信者なのか/キリスト教徒は、本当に聖書を「信じ」ているのか/お金についての教えも「信じ」ていない?/むしろ「信じ」られない部分が必要なのか/信徒たちの「信仰」は、実はさほど徹底したものではない/宗教に限らない人間一般の傾向/マザー・テレサにおける「神の不在」/そもそも神は「信じ」る対象なのか/イエスは「信じること」にこだわったのか/イエスが人生の最期で口にした言葉/神を信じているならば、かえって疑いを口に出せるはず/「信じ」ているから、文句を言える/「素直に」という副詞は「疑う」という動詞にこそふさわしい/あまり「こだわらない」ようにする/よくわからない「信仰」
第二章 神を「信じ」ているとき、人はそれをどう語るのか
宗教を信じることは非科学的な態度なのか/宗教は科学を排除しない/「祈り」で砲弾から兵士を守れるのか【パウル・ティリッヒ】/ダライ・ラマの発言/「祈り」のいろいろな側面/「主の祈り」は利益や幸福をお願いするものではない/祈りは「お願い事」ではない【要求ではなく、信頼の表現】/ニーバーの祈り【ラインホルド・ニーバー】/ガリレオ裁判/神は「二つの書物」を書いた/神の存在を論証しようとするということ/神と古代の哲学者たち/「神が世界の知性である」【タレス】/宗教的なピュタゴラス/宗教を批判するが、神は否定しない【クセノパネス】/「万物は魂と神々に満ちている」【ヘラクレイトス】/神々に対するちょっぴり冷めた見方【プロタゴラス】/宗教は民衆をコントロールするためのもの?【クリスティオス、ディオゲネス】/ソクラテスの告訴状/神を「信じ」たソクラテス/プラトンの宗教論/神は人間的な事柄を配慮するか【アリストテレス】/エピクロスにおける「神」/妙な「神」を信じている方がよっぽど不敬虔【エピクロス】/宗教に批判的な立場の諸相/「無神論」という概念の広さ/ニーチェの「神は死んだ」/神の死の神学/「存在しない神に祈る」【シモーヌ・ヴェイユ】/「神は存在しない」【パウル・ティリッヒ】/「神なしで生きる」【ディートリッヒ・ボンヘッファー】/「神を棄てる」「仏を殺せ」【マイスター・エックハルト】/「信じる」の奥行き
第三章 この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか
耐えられない試練などない?/切実な願いも叶えられない現実/なぜ神は日本人の「悪」を放置したのか/「神義論」という問い【ライプニッツ、ヒューム】/『なぜ私だけが苦しむのか』【ハロルド・クシュナー】/不幸の理由を説明するいくつかのパターン/教育的な効果があるのか、死後の世界で埋め合わせがなされるのか/問いそのものを考え直す/ヨブの物語/「神が支配していないことがらもある」/すべてのことに理由があるわけではない/アウシュヴィッツについては「神は防ぐことができなかった」/神を「信じ」てはいるけれども/誰もが納得できる答えはない/抗議の神義論/「わからない」のに、なぜ「信じる」と言い切れるのか/幸福を得るために「信じ」ているのではない?/星野富弘の場合/口で文字と絵をかく/「神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら」/本当の死の時まで/「でも神さまありがとう」/三浦綾子の影響/「得たものの方が多い」/幸せとは何か/「信じる」とはいったい何か
第四章 同じ宗教を「信じ」ていれば、人々は仲良くできるのか
宗教は「個人の心の問題」?/イソップ寓話と聖書/「目からうろこ」や「復讐するは我にあり」/旧い契約と、新しい契約/新約聖書の内容/イエスは何も文章を書き残さなかった/宗教は集団で営まれるもの/人間の「標準化」としての宗教/信徒たちは平和の教えを「信じ」ているのか/キリスト教は本当に「非暴力」?/キリスト教徒たちは武力行使に躊躇しない/絶対平和主義と非暴力主義は少数派/宗教は「戦争の原因」であるとは言えない/宗教は「平和の原因」であるとも言えない/キリスト教は最初から「一つ」ではなかった/愛と平和を唱えていても喧嘩をするのが人間/教派間の対話と協同へ/「多くの宗教がある」という難問/異なる宗教とも仲良くしようとする動き/信仰を捨てることは悪なのか/芥川龍之介『おぎん』/おぎんらの棄教は悪魔にとって「成功」だったのか/何が正しいのか
第五章 神を「信じ」たら、善良な人間になれるのか
「人格者」になりたい私たち/よい生き方と学問【ルース・ベネディクト】/「ヒューマニティーズ」とは何か/「人間性」と「教養」【キケロ】/人文系学問に期待されていたもの/人文系の学者は人格者なのか/武道やスポーツや芸術で「人格者」になれるのか/やっぱり「宗教」なのか/弱い人々のために無償で働く【マザー・テレサ】/身代わりになって死んだ神父【マキシミリアノ・コルベ】/生徒に鞭打つ聖職者【ロアルド・ダール】/ラフカディオ・ハーン「お大の場合」/聖職者たちによる加害/教会でも人間関係の衝突がある/信仰は人を善人にする魔法ではない/ダビデ王の悪事/無宗教者・無神論者であれば善人になれるのか/プラス面もマイナス面もある/キリスト教徒であることにこだわらない/愛とは面倒くさくて嫌なもの【ドストエフスキー】/愛も憎しみも、人間は知らない
Posted by ブクログ
タイトルがややミスリードで、「宗教」を信じる、ではなくて、内容としては「神」を信じる、とはどういうことか、を論じておられます。内容としては、学術的見地に基づいて、非常に地に足の付いた落ち着いた論を展開されていると感じました。
と同時に、はじめににも、すっきりしていただくことを目的としていない、とあるように、すっきりしたい人にはお勧めしません。
自分は宗教をやっていますが、他人には勧めません。それは、自分が他人の幸せにあまり興味がない冷たい人間の表れなんだとも思っていますし、そもそも宗教を勧めることで人間関係を悪くしたくないという、保身のためでもあります。
自分が宗教をやるのは、その教義を自分が身につけることで、人格者を目指しているからで、ある意味自己満足です。
自分の経験から言えば、本書の4章のタイトル、同じ宗教の人なら仲良くなれるかと言えば、そんなことはありませんし、逆に自分と同じ宗教でない人でも、素晴らしい人格者の知り合いはたくさんいます。宗教に限らず、人間が集団を営むのであれば、善人だけの集団はあり得ないでしょう。
本書内にもありましたが、武道・スポーツ・芸術もそれで人格者になれるわけではないので、宗教も芸術みたいなものかもしれませんね・・・。
わからないことをわからないままにしておけて、そういった人やものを排除しないでそのまま置いておけるという心のゆとりが、現代日本には必要なのかもしれないなと思いました。