石川明人のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
他の人の書評ではなかなか厳しい評価がされているところもあるが、幼い頃からキリスト教徒として育てられたまさに私のような者には目から鱗の内容である。
入門者向けの宗教に関する日本語文献は、多くが非キリスト教徒、特に仏教徒向けの内容でありキリスト教徒にとってはなかなかとっつきづらかった。そうでなくともキリスト教徒向けにキリスト教系の出版社が出している書籍はあったが、どちらかというと信徒として信仰していくことを前提においてキリスト教の優位性を説くような内容になりがちであった。
この本はどちらにも当てはまらない。キリスト教徒が書いたキリスト教視点での本ではあるが、その内容は教会で説かれているような教えと -
Posted by ブクログ
こりゃ,深いわ。
「信じる」という言葉の意味をとことん追求していくことで,分かっていたつもりでしかなかったと著者に思い知らされた。
そもそも「信じる」という言葉は,どういうことに対して使うのか,使えるのか。
「わたしはあなたを信じています」
「これは間違っていないと信じる」
これは使えそう。
でも,
「三角形の内角の和は180度だと信じる」
「地球は球体だと信じる」
という文は,現代においては変な文章だということは分かるだろう。
つまり何かを「信じる」ための前提には「本当かどうか疑っている」ということがあるのではないかというのでだ。
だから「わたしは神様を信じています」といった途端に, -
Posted by ブクログ
ネタバレ科学を世界の証拠とする社会に産まれた者として、信者の内面には何か、非科学を説明する理論を持っているのではと考え、キリスト教と戦争という一見矛盾を孕むタイトルからその理論への糸口を見つけたように感じた。
結果として、やはりキリスト教の中にはそのようなものは無かった(良し悪しは置いといて)。
共感より納得を好む性格上、不思議に思えていたのだが、現代社会を俯瞰で見ると少し分かる気がする。
科学の言うことは絶対とし、学校の先生や研究者の言うことを疑いなく信じる科学社会と、識字率が低く聖書が読めない為、聖職者の言うことが絶対だと信じていたキリスト教社会。テクノロジーの差はあれど本質的には何か変わってい -
Posted by ブクログ
ウクライナとロシアの戦争が始まってから、戦争のことを考えることが多くなった。
戦争は悪い。戦争は人を不幸にする。それを皆わかっている。学校でも加害についてはともかく原爆や空襲などの被害については教えられてきた。戦争は良くないという本(それこそ絵本も含め)、映像などはたくさんある。
しかし、結局それでは戦争を止めるには足りないのではないかという思いが消えなくなってきた。
それでこの本を読んでみた。
書かれていることは何もかもなるほど、と思うことばかりだった。
「多くの人にとっては「平和」とは、ただ単純に自分にとって都合の良い状況のことにほかならないのではないだろうか。」「平和を望む気持ちと、戦い -
Posted by ブクログ
「正しい人はいない。一人もいない。」(ローマ信徒への手紙3:10)
◆
「キリスト教こそ、戦争や異端審問や植民地支配で人を史上最も多く殺した最大のカルトである」
「イエスの教えとキリスト教は無関係」
「ザビエルは、先祖は地獄に落ちるのだったらなぜ、そんな有難い神様がもっと早く来なかったのか、との日本人の質問に答えられなかったではないか」
「宣教師とキリシタンたちは、日本の神社仏閣を焼き払い日本人を奴隷として売り払ったではないか」
キリスト教が批判される際に、必ずと言っていいほど言われるフレーズである。
さらに、
「宗教があるから戦争が起こるのだ。
宗教というものがなくなれば戦争もなくなるはず。 -
Posted by ブクログ
ネタバレプロテスタント系クリスチャンです。
とても良かった。こういう本が読みたかった。
母方がクリスチャンで父方は一般的な日本人家庭、キリスト教と一般的な日本の文化のミックスの中で育ってきた。キリスト教は宗教ではあるが、私の中では宗教というより文化。自分はキリスト教と日本文化のハーフだという感覚だ。世間で考えられているキリスト教のイメージで見られるのはすごく抵抗がある。
一般的イメージのクリスチャンと実際のクリスチャンとの間には多少なりともギャップがあり、そのギャップにモヤモヤしてきたし、苦しんだりもした。そのギャップがなぜ起こるのかの考察を日本のキリスト教史を通して丁寧に解説された本だ。
しばしば -
Posted by ブクログ
アーミッシュの元は再洗礼派
原爆を投下する部隊に対して祈った従軍チャプレンもいた。
カトリック教会は、建前としては、良心的兵役拒否は代替奉仕がある場合のみ可能という立場。
システィナ礼拝堂にミケランジェロに絵を描かせたユリウス2世は、自ら剣を帯びて戦地へ向かう「軍人教皇」だった。
プロテスタントも、ツィングリは自ら剣をとって戦い、チューリッヒの教会にある彼の銅像は、聖書と剣を手に持っている。
アメリカでは「兵士のための聖書」なるものまで販売されている。
初期キリスト教徒が軍に入らなかったのは、人殺しを避けるというより、軍隊内の偶像崇拝に関わるのを避けるためだった。
ブッシュ大統領は一番好きな政 -
Posted by ブクログ
軍事と宗教を扱った本で、一章で軍事の中にある宗教的な物、二章で軍で活躍する宗教家などの人、三章で軍で求められる精神や士気、四章で昭和日本軍の精神主義的傾向、五章で宗教の軍事的側面について、豊富なエピソードをもとに述べている。
洋の東西を問わず宗教的なモチーフが武器にあしらわれ、現代の自衛隊においても艦内神社がありお祓いがされる。弾除けの聖書については聖職者からの批判もあった。
米軍のチャプレン科、語り継がれる4人のチャプレン、原爆とチャプレン。日本の陣僧。
機関銃を即座に採用しなかった軍人たち。重装歩兵として従軍していたソクラテス、プラトンのラケスで示された勇気が何であるか実はわかっていない。 -
Posted by ブクログ
そもそも「信じる」とはどういう行為なのかという第一章の議論や、古代ギリシアから始まり様々な哲学者・神学者や現代の作家が「神」をどう捉えて受け容れてきたかをつまみ食いする本としては非常に面白かったです。
以下では個人的に読んでいてすっきりしなかった部分について述べます。
まず、前書きに「宗教という文化を理解してすっきりするのが目的ではなくて、宗教という営みの『わからなさ』『捉えがたさ』に改めて気付いてもらうことを目指している」と書かれていて、前者を期待して読み始めた私には正直あてが外れたところがあります。
その上で、著者の疑問の持ち方、「信じる」ということに対する考え方が合わないと感じるこ -
Posted by ブクログ
キリスト教と聞くと「隣人を愛せよ」「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言った言葉、「赦し」などを思い浮かべ、絶対平和主義的な考え方の上に成り立っている様に思える。旧約聖書にも十戒には「殺してはならない」とある。だが実際のキリスト教とは戦争も行うし、旧約聖書の中では殺戮するシーンも多く登場する。日本は太平洋戦争で国民の多くがキリスト教徒であるアメリカと戦火を交え、互いに殺し合った過去もある。一見すると矛盾している様にも思えるが、実際のところ、キリスト教の教義の中では、敵対する他者を殲滅する行為は許されている。キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説であるカテキズ
-
Posted by ブクログ
典型的な日本人である私は神社にも行くし、寺にも行く。だがそれは儀礼的なものだ。私にとって神は存在しても、していなくともどちらでも良い。信仰心の厚い人との会話の中で違和感を感じる事は、この世の全てを『神の采配』『神の思し召し』『神が与えた試練』といった具合に現状の起源を神に収束させる発言である。これと「偶然とは無知の告白である」とは何が違うのか?物事には必ず因果律がある。私達に与えられた知性は因果を辿るだけの能力がある筈なのだか、あらゆる結果を神だとか偶然だとかに収束させて、そこで思考停止する、その姿勢こそ神が最も望まないものではないのかといつも考え込んでしまう。
-
Posted by ブクログ
『宣教史から信仰の本質を問う』と副題にある通り、歴史の本です。ザビエルから明治までの、日本におけるキリスト教の歴史が、分かりやすく書かれています。
「日本人を助けてくれる温かな一面を持っていたのは確かであるが、その一方で、時にはかなり面倒でやっかいな存在であったのも事実だと言わざるをえない。」
と著者も書いていますが、日本人は『役に立つかどうか』『ためになるかどうか』という方向性を気にする傾向が強いのでしょう。
さらに、厄介者を放って置けない、ある種の「島国根性」のようなものが根深く、迫害にも繋がったのだと思われます。
個人的に大きな発見だったのは、宗教という言葉が日本には明治になってか