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日本人の九九%はキリスト教を信じていない。世界最大の宗教は、なぜ日本では広まらなかったのか。宣教師たちは慈善事業や教育の一方、貿易、軍事にも関与し、仏教弾圧も指導した。禁教期を経て明治時代には日本の近代化にも貢献したが、結局その「信仰」が定着することはなかった。宗教を「信じる」とはどういうことか? そもそも「宗教」とは何か? 宣教師たちの言動や、日本人のキリスト教に対する複雑な眼差しを糸口に、宗教についての固定観念を問い直す。
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Posted by ブクログ
めちゃくちゃためになった 何がって言うと、日本キリスト教史が分かりやすく説明されてるのはもちろん、当時活躍した宣教師だったり、信仰とはなにか?宗教とはなにか?っていうのを莫大な先行研究から考察してること キリスト教とはなにかとか日本人とどういう風に関わってきたのかを知りたいなら最高の1冊だと思う
膨大な資料をベースにキリスト教を核に宗教、信仰などについて、日本での成り立ちや現状の把握等、一見取りつきにくい問題を、ある程度明快に解き明かした好著だ.ザビエル、トーレス、カブラル、ヴァリニャーノと続く宣教師の行動を克明に辿っているのがよい.キリスト教弾圧の時代でも貿易に活路を見出す大名たちがいたこ...続きを読むとを記している.1873年に禁教高札撤去があったが、直ぐにキリスト教が広まったのではない理由も詳しく考察している.マザーテレサの葛藤が、信仰という把握が難しい問題の回答になる素晴らしい事例だと感じた.
『宣教史から信仰の本質を問う』と副題にある通り、歴史の本です。ザビエルから明治までの、日本におけるキリスト教の歴史が、分かりやすく書かれています。 「日本人を助けてくれる温かな一面を持っていたのは確かであるが、その一方で、時にはかなり面倒でやっかいな存在であったのも事実だと言わざるをえない。」 と...続きを読む著者も書いていますが、日本人は『役に立つかどうか』『ためになるかどうか』という方向性を気にする傾向が強いのでしょう。 さらに、厄介者を放って置けない、ある種の「島国根性」のようなものが根深く、迫害にも繋がったのだと思われます。 個人的に大きな発見だったのは、宗教という言葉が日本には明治になってから入ってきたものであり、それまではそういう概念自体が無かったということです。 恐らくこの『宗教そのものに対する日本人と西洋人の認識のギャップ』が埋まらなかったことも、現状に大きな影響を与えていると思われます。 キリスト教も一つの「道」であり「教え」であり、唯一絶対な完成されたものではなく、究めていくべきものなのでしょう。 私たちが意識を変えることができれば、私たち日本人にも大きな恵みをもたらしてくれるに違いありません。
著者は洗礼を受けたキリスト教徒とのことであるが、教会・キリスト教に対して非常に辛辣な分析である。実は16世紀のイエズス会の宣教師たちが人身売買をし、日本人への差別意識(特にカプラル)を持ち、戦争商人としての役割も果たしていた。その頃の日本が軍事大国になったために鎖国をすることができ、それが宣教師の「...続きを読む御陰!」など皮肉っぽいお話だ。そして、幕末以降のキリスト教史、ヘボン(米)、ド・ロ(仏)、ニコライ(露)などの各国の各宗派からの宣教師についての説明が詳しい。山本五十六、井上成美が聖書を精読していたという逸話が面白い。一方で、日本でキリスト教がなぜ普及しないのか?キリシタン禁教の影響もあれば、武士階級⇒知識階級の宗教になったことによる理由なども説得力がある。高村薫、立花隆のキリスト教に対する違和感、嫌悪感の説明もうなずけるところは多かった。宗教とは何か、信じるとは何か、キリスト者が疑うことはあるのか(マザーテレサの場合)など興味深い分析へと書は発展していく。
キリスト教が日本で普及しないのは、人工稠密で島国の日本には、内と外を分け、外に対しては厳しい見方をする文化があるためだろう。
プロテスタント系クリスチャンです。 とても良かった。こういう本が読みたかった。 母方がクリスチャンで父方は一般的な日本人家庭、キリスト教と一般的な日本の文化のミックスの中で育ってきた。キリスト教は宗教ではあるが、私の中では宗教というより文化。自分はキリスト教と日本文化のハーフだという感覚だ。世間で...続きを読む考えられているキリスト教のイメージで見られるのはすごく抵抗がある。 一般的イメージのクリスチャンと実際のクリスチャンとの間には多少なりともギャップがあり、そのギャップにモヤモヤしてきたし、苦しんだりもした。そのギャップがなぜ起こるのかの考察を日本のキリスト教史を通して丁寧に解説された本だ。 しばしばクリスチャンに「敬虔な」という枕詞が使われるが、もちろんクリスチャンは全員敬虔ではない。キリスト教圏の国の人が皆敬虔であるはずがない。そういうことを、宗教について深く考えたことがない人は気づかないのかなあと思う。 「信じる」ことだけが宗教なのか。「キリスト教」ではなく「キリスト道」だったら日本でもキリスト教はもっと受け入れられていたのか。マザーテレサのいう「神の不在」は、深い。 私個人的にはモヤモヤがスッキリして腑に落ちた本。しかし宗教という言葉が持つ胡散臭さは、その言葉が別の言葉に変わらない限りは変えられないのだろうか。
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キリスト教と日本人 ──宣教史から信仰の本質を問う
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石川明人
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