ホルヘ・ルイス・ボルヘスのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
空想上の生き物が好きな変人にはもってこいの本。しかもボルヘスの選んだとっておきの幻獣、とくれば面白くないわけがない。
変な言い方だけど幻獣選びにもセンスを感じる笑
中国はもちろん、日本の言い伝えや文献からも何種類か、日本産幻獣が出てきて嬉しい!ヤマタノオロチ、数多ある世界の幻獣たちにも負けてへんくらい、強そうやし、日本ていう国を文字通り背中に背負ってるやん。
それにしてもずっと子供の頃から私、思ってましたけども。ギリシャ神話ってなんでこんな罪深い肉欲話が好きなの笑 この教訓からいろいろ歪んだ宗教観が産まれたり、人間への変な戒めとかの元になってんちゃうん?と思った笑 -
Posted by ブクログ
人間の想像力ってすげー!
古今東西のめくるめく幻想の世界へどっぷりと浸れる沼のような一冊、《1957年版序》に曰く「神話伝説の動物園」(p14)。捲るたびに次から次へと『幻獣』、得体の知れない生物や霊的なものの類が飛び出してくるので、読者の我々は絶えず脳を回転させてその姿や挙動をつかみ取り続けないとあっという間に沈没してしまいます。
創作に携わる方にとっても一読の価値はあるんじゃないでしょうか。
120項目を収録。
以下、気になったものを。
《スクォンク(溶ける涙体)》…挿絵がせつなくてかわいい。ペンシルヴァニア州の栂の森にいるらしい。「スクォンクは非常に引込みがちな性質があって、ふつう明け方や夕暮れに徘徊する。疣と痣におおわれたしっくりしない皮のために、これはいつも不幸せでいる。(中略)獣のなかでもっとも病的である。」「追い詰められて逃げられなくなると、あるいは驚いたり怯えたりすると、涙に全身が溶けてしまうことすらある。」(p139)。ざんねんないきもの図鑑みたいな紹介文。
《バルトアンデルス》…グリンメルスハウゼンの幻想小説『阿呆物語』に登場。「主人公は石の像に出会う。(中略)彼がそれに触れると、像はバルトアンデルスと名乗り、そしてすぐさま人間、樫の木、牝豚、太いソーセージ、クローバーの畑、糞、一本の花、花をつけた枝、桑の茂み、絹のつづれ織り、そのほかたくさんのものや存在に変幻し、それからもう一度人間の姿になる。」(p213)。どうです、わけわからんでしょう。『怪物くん』の百面相みたいな感じでシャカシャカシャカ…と切り替わるのだろうか。けどいきなり糞が現れたらびっくりどころじゃないかもしれん。「こらーっ」ってツッコんじゃいそう。『阿呆物語』という作品もなにやら気になりますな。岩波文庫とかで読めるのだろうか。
《墨猴》…収録されている幻獣のなかで一番かわいいかも。「人が座って書き物をしようとすると、この猿はそのそばに胡座をかき、手を重ね合わせてうずくまり、書き終るのを待つ。それから墨汁の残りを舐めつくすと、満足して静かに尻をついて座る。」(p274)。めっちゃかわいくないですか?!なんならこの設定そのまんまでサンリオキャラに居そうだし。この猿を考えついた人は、もしかしたら「墨片付けるの面倒だな…全部舐めてきれいにしてくれる、なんかかわいいやつがいたらいいのにな…」みたいなことを思ったりしたのかも知れない。
《ミルメコレオ》…「体の前半分は獅子、後ろ半分は蟻で、生殖器が逆向きについている」(p285)という、奇妙すぎる生命体。生殖器の説明要る?獅子の部分は肉を食べたいけど蟻の部分が肉を食べられず、蟻の部分は穀類を食べたいけど獅子の部分が穀類を食べられず、最終的に栄養が足りなくなって死んでしまう。あんまりにも儚すぎる謎の生き物。
ほかにも《ア・バオ・ア・クゥー》や《スキュラ》など、どこかで聞き馴染みのある幻獣が盛りだくさん。
ファンタジー脳を鍛えることで日々の暮らしが豊かになる…かもしれない。
入門にぜひ。
1刷
2025.5.17 -
Posted by ブクログ
20世紀ラテンアメリカの作家ボルヘス(1899-1986)が編んだ、古今東西の書物から引かれた幻想的な掌編のアンソロジー。
「文学が与える数多い楽しみのひとつは、物語の楽しみである。・・・。物語の精髄は本書の小品のうちにある、とわれわれは自負する」
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解説によると、ボルヘスの編むアンソロジーに収められた小品の中には、その典拠の存在が確認できないものもあり、実はボルヘスが創作したものを紛れ込ませている可能性があるらしい。何とも愉快なことだと思う。別の作品の中でこんなことを言っている。
「書物に署名するのはおかしなこと。剽窃の観念は存在しない。すなわち、あらゆる作品が非時間で無名の唯一の作者の作品であることが定められた」(『伝奇集』)
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夢/現、死/生、過去/現在/未来、原因/結果、裏/表・・・無限遠の始まりから無限遠の終わりへと走る両端なき直線が、くるっと捻じ曲げられて、ウロボロスの蛇よろしくその円環を閉じ、始まりも終わりもない無限循環がただそこにいつまでも残り続ける。掌編ゆえにその前後に感じられる余白は、却ってその物語が無限の円環の一部に過ぎないことを思わせて、自分が時間的にも空間的にもすーっと遠くに高まっていく感覚に襲われる。そのとき読み手である私は、卑近な不安や不機嫌をすべてどこかへ置き去りにして、透明になる。
この奇妙な「高度の感覚」について、澁澤龍彦の次の文章を目にしたとき、なるほどと思った。
「・・・、しかしボルヘスの死には奇妙な明るさがある。かつて稲垣足穂さんが亡くなったとき、すでに生きているうちから、とっくに永遠の世界に入ってしまった感のある稲垣さんが亡くなっても、それほど悲しみの気持ちは湧かないと書いたことがあるが、八十六歳のボルヘスの死に接しても、それと似たような気持ちを私はおぼえる」(「ボルヘス追悼」)
柳瀬尚紀は訳者あとがきで本書を「《反復》のアンソロジー」と呼んでいる。