平川祐弘のレビュー一覧
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結局、日本人よ自国に自信を持て!(でも、英語はしっかり勉強しなさいよ!)ということ?
中国に対して(だけでもないけど)ハッキリ態度を示さないから、あーだこーだ言われたことが、日本像となって世界には「そのように」見られている。
アメリカのような戦勝国は、非人道的なことが為されていても、それはバッシングされない。
しかし、明治期からの日本の革新には目覚しいものがあり、我々は古典を読んで、その精神的自信を得ると良い。
あ、あとエリート教育促進すべし。
……という要約が上手く勘所を捉えられていなかったら、すいません。
そうですね、まあ、仰有る通りかもしれませんが、何がそんなにカリカリさせるのか不明。
朝日新聞にしても、批判的に語るのは良いのだけれど、姿勢があることそのものは言論の自由であるわけで。
結局、読者のリテラシー能力を高めるしかないのでは、と個人的には思ってしまう。
要するに、筆者の発散的な憤り部分に、付いていけなかったオチ。
『菊と刀』についてはこちらは肯定的に、前に読んだ本では日本の隠蔽体質の根本として、否定的に書いてあった点は面白く考えられた。 -
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ネタバレ目次より
・天国篇
・詩篇
天国篇はほぼ宗教論に終始していて、今までの映像的な描写は格段に少なくなり(挿絵も激減)、小難しいやり取りが続きます。
“君たちはおそらく
私を見失い、途方に暮れるにちがいない”
さて、地獄篇からの懸案事項、「キリスト以前に死んだ善人が地獄にいることの是非について」にとうとう回答が!
“その男の考えること、為す事はすべて
人間理性の及ぶかぎりでは優れている。
その生涯を通じ言説にも言動にも罪を犯したことがない。
その男が洗礼を受けず信仰もなくて死んだとする。
その彼を地獄に堕とすような正義はどこにあるのだ?
彼に信仰がないとしてもそのどこに罪があるのだ?”
“天の王国は熱烈な愛と熾烈な望みによって
掟が破られることを許すことがある。
それらが神意にうち勝つのだ。
人が人に勝つのと同然ではない。
神意が負けることを望むから勝つのだ。”
問いに対する答えがこれ。
熱烈な望みがあれば、掟をまげて天国に受け入れることもある。
ただし、それは人が神に勝ったというわけではなく、あくまでも神が受けいれようと思ったからだ、と。
つまり神の自在定規ってこと。
“そしておまえら現世の人間よ、判断はけっして迂闊に
下さぬがよい。神を見る我々の目にも
神に選ばれるべき人々の姿がみな映るわけではないのだ。”
そして神の決定に口を出すな、と。
アダムとイブが楽園を追われたのも、禁じられたリンゴを食べたからではなく、リンゴを食べることによって神と同等の存在になろうとした高慢のためにだというのには納得。
なるほどね。
地獄が非常に感覚に訴えるものであったのに対して、天国篇は論理的。
“人は感性で知覚されたものから
はじめて知性に適するものを学び取るからです。”
宗教って感覚的なものから始まるけれど、最終的には論理に向かう。
それはつまり、人間はそういうものだからだ。
…ということしかわからんかったわ、結局。
そして、天国で、一糸乱れぬポーズでうじゃうじゃといる天使がとても気持ち悪い。居心地が悪いと思う私は、とても罰当たりです。
自分らしさ=業ってことなのかな。
自分らしさ、人間らしさを捨てないと天国に行けないのであれば、人として生まれた意味は何なのだろう?
やっぱりもっと勉強しないとダメですか?
ちょっとしんどいな。 -
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ネタバレ左手の堤へ鬼たちは向かったが
出かける前にみな自分たちの隊長に向かって
合図にしたでべえをして見せた。
すると隊長の方は尻からラッパをぷっと鳴らした。
時代を超えて読まれる名著中の名著。お堅いのかと思いきや、放屁場面が出てきた…。ルネッサンスの時期に、キリスト教の世界がどのように思われていたかがよくわかる本。口語訳である上に、背景が注に書かれているので分かりやすい。地獄、煉獄、天国編があるのだが、登場人物が実話や神話に基づいているのに驚いた。つまり、ダンテが地獄に落としたいと思っていた人は見事に地獄でお会いすることになる。マホメットはキリスト教を信じていたが、そこから分裂してイスラム教を作ったなど、古代の常識や慣習を知ることができるのも魅力の一つ。相当の知識がないと読み砕けないので、博学になってから読むのでも遅くはないと思った。 -
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地獄篇・煉獄篇を経て終局たる天国篇(Paradiso)へ。
ダンテは遂に、至高天にて、"天上の薔薇"とも呼ばれる光の中心に「いっさいの望みの究極(はて)」である神を観るに到る。
「ただそれだけが真実な、崇高な光輝の/光線の奥へ、さらに深く、はいっていった」 「その光の深みには/宇宙に散らばったもろもろのものが/愛によって一巻の書にまとめられているのが見えた」(以上、第三十三歌)
全三篇、粘着的なまでに体系的な、宗教という強迫観念の大伽藍を見せつけられた。
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ダンテ自身が冒頭で述べているように、天国篇は地獄篇・煉獄篇に比して難解であり退屈でもある。神的宇宙と云う肉体的現実界とは隔絶された観念体系を、神学的な抽象語で以て綴らねばならぬのだから、尤もではある。それに、善を語るには小理屈を練らねばならぬが、悪にはそれ自体の生々しさがありそれだけでも興味を惹くものだ。
神の絶対性を中心に据えてしまえば、そこから無尽蔵のレトリック・贅言冗語を導出し、如何ようにも言葉を踊らせることができる。「神意」だの「至上善」だの「愛の光」だのと定義不明瞭・定義不可能な語を持ち出されては、叙述や対話の論理的連関は曖昧模糊となること不可避だが、その曖昧さを伴ったまま、神学体系は至高の天上へ向けて何処までも恣意的に語り上げられていく――その「厳格さ」だけは決して放棄されることなく。神の裁きや地獄の罰の如何もこのように恣意的に導出されてしまうなら、これはもはや専制だ。こうして宗教的権威は世俗に於いて権力をもつことになる。権力者と云うのは、言葉を支配し同時に言葉を支配の手段にするものだが、宗教的権力こそが人類史に現れた最初の"言葉の創造=支配者"ではないか。
なお、"永遠の女性"であったはずのベアトリーチェは、最後までキリスト教の教説をひたすら復唱するだけの「自動人形」(正宗白鳥)に過ぎない。
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第二十二歌の訳註で紹介されている、クローチェ(1866-1952)によるダンテ評が興味深い。
「世界からの逃避、神への絶対的帰依、禁欲主義、などは、ダンテの精神にとって異質なものであったから、『天国篇』の中にこうしたものは見あたらない。ダンテは世界から逃避しようとしない。彼は世界に教訓を垂れ、世界を矯正し、世界を改革しようとして、天上の至福に言及する。・・・。天と地という二つの世界が公然たる対照裡に示された時でさえ、神的なるものが人間的なるものにうち克ち、それを徹底的に放逐してしまった、とはどう見てもいえないのである」(『ダンテの詩』)
確かにダンテは至高天に於いてもなお俗世の政治家や聖職者をしつこく非難し続けており、天上に在りながらも現世に於ける政治的事業のことが心から離れているようには思えない。
宗教に神秘的な忘我の契機を求める者は、アリストテレス-トマス・アクィナス的な目的論的世界に於いてもいたであろう。しかし、ヴェーバーの『中間考察』にあるように、断片化された自我がその全体性を回復しようとして非合理的な対象との合一を求めようとするのは、資本主義と官僚制に覆われニヒリズムに到るもなお留まることのない機械論的世界、則ち近代の人間に特有の傾向なのだろう。
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最後に警句を一つ。
「見当のつかぬ事柄については早急に是非を論ぜず、/疲れた人のように歩みを遅らせるのがいいだろう。/・・・/細かい判断もなしに肯定否定を行う者は/愚か者の中でも下の下たる者だ」(第十三歌) -
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ネタバレダンテ『神曲』地獄編,河出書房,2008(初版1966)
再読(2009/8/12)。基本的にはウェリギリウスに導かれて、ダンテが地獄を旅する話である(ちょっと『西遊記』みたいだ)。
ダンテ(1265-1321)はフィレンツェに生まれ、法王党として政治にかかわり、1302年、故郷を永久追放された。『神曲』は1300年頃の設定で書かれており、ダンテの敵が地獄で手ひどく罰せられ、大便のなかでのたうちまわっていたり、自分の首を提灯のようにさげて彷徨っていたりする。師匠がじつは男色の罪を犯していて、引かれていく途中だったり、亡者が地獄の鬼(悪魔?)に鞭打たれていたり、貪欲な亡者がぐるぐる回って、ぶつかって罵りあったりと、地獄はまあそんな所である。冷たい雨が降ったり、火の粉が絶えず降ってきたり、空気がくさっていたり、ときどき、ケルベロスだのミノスだのミノタウロスなどの怪物や、巨人がでてきて、悪態をついたり、予言をしたりする。キリスト教徒じゃなかったホメロスは辺獄(リンボ)の片隅で淋しくしている。マホメットやアリーは二つに裂けている。キリスト教を分離させた者に応報の罰らしい。
たぶん、現代の映画なんかで消費しつくされたイメージだからだろうか、偉大な作品ではあるんだろうが、内村鑑三のように身の毛がよだつこともなく、こんな所かと読んでいる。地獄編が面白くないのは、ダンテが敵をいじわるく痛めつけているからもあるけど、そこには人間の「生活」がないからだと思う。ちなみに地獄でも、派手に痛めつけられている「主人公」は大悪人で、凡人は地獄に落ちても脇役である。悪人としては、恋に身を忘れた者から、偽金作り、裏切り者までたくさんいて、みな因果応報の罰をうけている。貪欲なものは生前自分がサイフにつめこんだように、地獄では自分が穴に詰め込まれていて、足だけでていたりする。
ウェルギリウスとダンテは地獄を底まで下りていき、地球の重力があつまるところで、悪魔大王(ルシファーとかベルゼブルとよばれる)をみる。大王はキリストを裏切ったユダと、カエサルを殺したブルータスとカシウスを三つの首でかみ砕いている。彼らは悪魔大王の毛をつたって、南半球にでていくのであった。
「神曲」の「神」は形容詞で、「神のごとき」の意味で、後に冠せられた。もともとの名称は「コンメーディア」とのこと、「ハッピーエンドの話」の意味だったが、のちに転じて、「喜劇」の意味になった。「光も黙る」とか「年老いた裁縫師が針に糸を通すような目つき」とか、うまいなと思う比喩はある。
『神曲』はイスラム圏では悪魔の著らしい。平川祐弘(『マテオ・リッチ伝』の著者)による注釈は詳細、カーライルやブルクハルト、正宗白鳥や内村鑑三、与謝野晶子などの意見を事細かく、引いてくれている。訳としてもよみやすい。『神曲』はその後の地獄のイメージなどに影響を与えた作品で、中国に宣教したイエズス会士などの頭にもあった作品だろうと思う。