川村湊のレビュー一覧
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8年前に梅原猛訳で一度読んでいるのだが、好きな「光文社古典新訳文庫」で「関西弁訳」があると知り読んでみた。
原典は現代の日本人からすると十分に格調高い古典的な硬い文章に見えるのだが、当時の親鸞はわかりやすい平易な言葉で説いたらしく、その雰囲気を醸すために、『何となく分かる』スタイルの関西弁風翻訳としたそう。その試みは当たっているような、そうでないような。関西に計15年程住んだ者にとっては分かりやすく感じた。二度目だからかもしれない。
悪人正機説(善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや)が誤解されないように諭した部分の例え話は秀逸だ。
十三
原典
くすりあればとて、毒をこのむべからず
とあそばれてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。
関西弁訳
「薬があるというたからとて、毒を好むちゅうのはおかしなことや」とはっきりいわはったのは、そないなよこしまな考え(=邪執)をやめさせようとしはったためや。
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【本の内容】
「アミダ如来はんにいただいた信心を、おれのもんやいう顔で取り返そういうのんは、ホンマにアホらしいことやで」。
天災や飢饉に見舞われ、戦乱の収まらない鎌倉初期の無常の世にあって、唯円は師が確信した「他力」の真意を庶民に伝えずにいられなかった。
親鸞の肉声、ここに蘇る。
[ 目次 ]
歎異抄
歎異抄(原典)
付録 親鸞和讃抄
[ POP ]
浄土真宗の開祖、親鸞(1173~1262年)の言葉を弟子の唯円が書き取ったとされる仏書を、文芸評論家の川村湊さんが現代語訳した。
取り合わせが意外だ。
しかも、当時の語りの雰囲気が出るよう関西弁風にしたという。
「悪人正機」を唱えた有名な一節、<善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや>はこうなる。
<善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない>
今年5月、パルコ出版から『ソクラテスの弁明 関西弁訳』(北口裕康)も出た。
難しい書物を大阪風の語感で訳すのが、流行なのか。
<往生には賢しらな考えなど持たずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつねに思い出してみるべきや>
親鸞は、自分で考える「自力」を否定し、阿弥陀にすがり、念仏を唱える「他力本願」を説く。
強い教えに引かれながら、「あかん……」。
その境地に至るのはまだ早い気がした。
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
1110923onTV? 央寺
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3・11から逆に照らし出された戦後日本のすがた。ゴジラと放射能恐怖映画から、「原発文学」の数々まで、さまざまな文化現象をとりあげながら、原発と原爆をめぐる時代精神を浮き彫りにする。
著者紹介
1951年北海道生まれ。文芸評論家。法政大学国際文化学部教授。「補陀落」で伊藤整文学賞、「牛頭天王と蘇民将来伝説」で読売文学賞、「南洋・樺太の日本文学」で平林たい子文学賞受賞。
戦後の日本が世界中の人々に本当に伝えるべきこと、それは、被爆=被曝の体験から生まれた文化、原子力による被害の文化である―。ゴジラと放射能恐怖映画から、鉄腕アトム、広瀬隆『東京に原発を!』、吉本隆明『「反核」異論』、黒澤映画『生きものの記録』、『はだしのゲン』、『長崎の鐘』、『風の谷のナウシカ』、『AKIRA』、「原発文学」の数々まで、さまざまな文化現象を世相に重ね合わせながら読み解き、原発と原爆(=「核」)をめぐる時代精神を浮き彫りにする。3・11の破局にいたるまで、私たちはいったい何をしていたのだろうか…。
内容
第1章 ゴジラと放射能の恐怖(集合的無意識としての怪獣ゴジラ;怪獣と放射能 ほか);
第2章 アトムと原子力の平和利用(アトム・コバルト・ウラン;原子力の平和利用としての「アトム」 ほか);
第3章 ナウシカとAKIRAの戦後世界(アトムを擁護する;戦後の原子力研究 ほか);
第4章 「原発」の文学史(ゴジラの復活;ゴジラは二度死ぬ ほか) -
Posted by ブクログ
ネタバレ親鸞の弟子・唯円が記した親鸞の言行録。なのでプラトンにとっての『対話篇』、孔子にとっての『論語』にあたる。この本はもともと口語体で書かれたものなので、関西弁での現代口語訳になっている。
この本の最大のポイントは「他力本願」。今でこそ他力本願というと、「最初から他人をあてにする」という否定的な言葉として使われるが、これは原義と異なる。
実際の「他力本願」は一切の衆生を救う阿弥陀仏に「お任せ」、「お願い」すること。衆生というのは皆あらゆる煩悩具足に囚われた凡夫=悪人なのであり、それを自覚した悪人が救いの対象になる(悪人正機説)。
この有名な説は、誰かを頼む拠り所のない悪人「南無阿弥陀仏」と唱えることで、阿弥陀仏に「お願い」できるのに対し、自力作善(自分の力で何でもできる)の人は自分を頼み、阿弥陀仏に「お願い」する心が欠けているという理屈によるもの。
私はこの本を通して、阿弥陀仏は自分が煩悩まみれの救われない人間であるであることを救うということ、「俺が俺が」という我執に囚われて独善的になってはいけないということを学んだ。実際、この本で仏教の宗派同士で「お前らは劣っている」と言い合って法敵を作っている状態があることにも触れられている。
浄土真宗はわかりやすく、誰にでも実践できたから多くの信者を獲得できたのだということも改めて認識した。