川村湊のレビュー一覧

  • 歎異抄

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     光文社古典新訳文庫の「歎異抄」(唯円著・親鸞述、川村湊訳)を読んだ。
     おそらく理解できないだろうから、まず川村湊の現代語訳から読んだ。東野圭吾さん原作のTVドラマ「ガリレオ」で、福山雅治さん演じる湯川学の名セリフの通り、「さっぱりわからない」。
     しかも、それを訳文が良くないせいだと思った。川村は「関西弁風の思いっきり砕けたスタイルで現代語訳した」と訳者まえがきに記す。これはいささか凝り過ぎだ。親しみやすさを狙ったのだろうが、違和感を覚える。ごく普通の形の訳文にしてほしかった。
     「歎異抄」は実に変わった本だということを、これまたこの年になって初めて知った。
     親鸞(1173-1262)は浄土真宗の開祖。唯円は弟子で、親鸞没後の1286年頃、「師の教えと異なる説が広まるのを嘆いて」記したのが「歎異抄」である。前半で親鸞が生きていた時に弟子たちに語った言葉を記録し、後半では教えに対する誤解や異説を批判している。これに漢文序、後記のほか、親鸞の流罪目録、さらに蓮如の奥書がある。(蓮如の書写本が原典のため)
     川村の現代語訳を読んだ後、川村の少し長い解説と訳者あとがきを読んで、少しだが基本知識を得た。その上で、原文を、ネットで見つけた〝オーソドックスな現代語訳〟を参照しつつ読んだ。一部分を音読すると、原文が名文であるような気がしてきた。
     核心のテーマは、言い切ってしまえば、他力本願と悪人正機だろう。
     「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」「念仏者は無礙の一道なり」「善悪のふたつ、惣じてもて存知せざるなり」…。
     いろいろな名文、あるいは名言が次々に出てくるが、さて、どう我が事と理解するか、しないか。むつかしいなぁ。
     「歎異抄」は「方丈記」「徒然草」とともに日本三大美文と呼ばれているそうだ。
     それにしても、「歎異抄」のこんな暢気な読み方ができるのも、還暦を遙かに過ぎたシニアならではと、自分で納得している。さて、何がどれだけ記憶に残るか、はなはだ心許ない。
     ※光文社古典新訳文庫の「歎異抄」には付録として親鸞和讃抄、親鸞・唯円関係年譜も収録されている。

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    2026年08月05日
  • 歎異抄

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    日々ありとあらゆるものに悩みぐらぐらふらふら迷っている自分だけど、この本を読んで、そんな自分でもいいのかなぁと思うことができた。

    自業自得という言葉があるけど、この本の中ではそんなものはなんら関係なく掬い上げる「アミダはん」の存在を諭していて、親鸞が語った様々な話に触れていくうちに、自分のどうしようもなさやあさましさを思い、こんな自分に関わってくれている周りのヒトモノセカイそしてそこから生ずる縁、全てに有り難いなという気持ちが湧いてきた。
    仏教の今生における目標は心の平安であるとしたら、この有り難いと思う心の状態というのは、とてもそれに近い気がする。
    愚かな自分を認めた先にそれをも大きく包んでくれている大きなもの(=アミダはん)に手をあわせたくなる気持ち(その気持ちを言葉であらわしたものが「ナムアミダブツ」なのかな)をただ持って生きればよいというシンプルな親鸞の教えは、文字が読めないなど当時の社会で強くない立場にいた人々にとって大きな救いとなったと想像できる。
    どんな苦しい状況でもアミダはんの本願の力に心から感謝をして、有り難い、有り難いと生きれば、死をも怖くはなくなる、というのもなんとなくわかる。
    幸せになるにはどうしたらいいのか?という率直な疑問に、難しいことは抜きで一直接にコミットした教えが他力本願なのかな。

    当時の農村の人々の目線で話を聴いているような、素朴な気持ちになれる読書時間でした。また苦しい時に再読していきたい。

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    2022年02月25日
  • 歎異抄

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    浄土真宗の教祖である親鸞。
    その直弟子の唯円が師である親鸞の思想がその死後に異なったものになることを歎じて書いた書と言われる『歎異抄』

    親鸞(1173-1262)は12世紀から13世紀にかけて生きた人物であり、今から750年以上も前の人物だ。

    驚きなのは、親鸞は弟子をとらない、としてこの本文中にも書かれてあり、
    また、大正時代のベストセラー本でもある『出家とその弟子』でも、このような形で描写されてあったが、その親鸞の教えである「浄土真宗」が今も尚脈々と受け継がれているということだ。

    唯円のように全てをなげうって、丁稚のような形で遍路をともにするものはいたが基本的には弟子達にお寺で大規模に教えるというようなことはなかったのではないかと見受けられる。

    そして、その教えを受け継いだのは親鸞の血族であり世襲によって引き継がれていくという点は興味深い。

    この浄土真宗における核となる思想「他力本願」は、信仰心をもち「南無阿弥陀」を唱えるとことで、学問や厳しい修行をできない人でも、救われるというもの。

    当時、学問的かつ厳しい修行を得てからでないと解脱はできず、普通の人にすれば仏陀へと至る道があまりに険しかった。

    そうであれば意味がないではないか、一般の人々に対しても門出をひらいてこその、この世の中ということで、自分の力で頑張るから救われるというパラダイムから、他人の力で救われるという他力本願を「南無阿弥陀」で作り出した宗派。

    その真髄を、
    唯円が語り口調で説いているのがこの書だ。

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    2019年02月02日
  • 村上春樹はノーベル賞をとれるのか?

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    特に文学賞に興味が向いている今、手に取った作品ということもあるけど、かなり面白く読ませてもらいました。村上春樹とノーベル賞の親和性についても頁数は割かれているけど、むしろノーベル賞の何たるかを検証する点に重きが置かれていて、世界規模の文学賞の実際が見えてくる構成。過去の受賞者とか(北欧偏重)、男女比とか(男性偏重)、まあ何となくそうなんだろうとは思いながら、改めて指摘されるとへーって感じ。アジア枠みたいな中に日本人も入っていて、中国とか韓国とかも合わせて選出、みたいになってるんですね。そうなると、目下一番のライバルがカズオイシグロってのも納得。いよいよ今年のそのシーズン。周りが騒ぎすぎ感が大きいけど、やっぱり取っては欲しいですよね~。

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    2016年10月04日
  • 原発と原爆 「核」の戦後精神史

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    ネタバレ

    P191
    原発関係者は放射能を閉じ込めるということを強調するのだが
    それは実は原発の全ての情報を閉じ込めることであり、
    原発に関する論議、討議を密室化し、その実情を決して明らかにしないということにある

    P195
    発電の方法はいくらでもある。
    コスト、環境悪化、持続可能性、終末処理、社会的リスクの
    どの面においても原子力発電はもっとも劣悪な選択枠であることは
    すでに明らかとなっている。
    誰かが犠牲にならなければならないという
    エネルギー政策は根本的に間違っているのだ。


    ★読んでみたい本、見て見たい映画がたくさん紹介されていた。
     川村 湊さんの本も、もっと読んでみたい。

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    2013年06月12日
  • 原発と原爆 「核」の戦後精神史

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    タイムリーなネタで面白かった。
    「読み比べといったところで、私にその両者の主張を科学的に吟味するだけの能力があるわけではない。私は、その内容というよりは、両者の著書が持つ説得性や論理的な説明の…」
    そう!それが私の言いたかった事。
    今、皆そのレベルの作業をしてる。
    いろんな「専門家」がバラバラの説明をする中、
    どの説明に自分が納得させられるニュアンスが感じられるか…。
    それだけなんだけどね(^^;
    って謙虚さが大事なんだよね~。

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    2011年11月01日
  • 歎異抄

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    現代語訳が、今どきここまでコテコテな人は居ないって…というレベルのコテコテの関西弁で、訳者はこの古典新訳のシリーズで『梁塵秘抄』を歌謡曲風に訳している人でもある。
    唯円が師の親鸞から伝え聞いた事を記述する、というスタイル(とくに前半部)なので、究極の話し言葉であるコテコテ関西弁をチョイスしたのは正解な気がする。黙読より、音読してみると良いと思う。

    昨年浄土真宗のお寺での葬儀に参加する機会があり。参列者は基本的に要所で「南無阿弥陀仏」とつぶやくのみで、結構な田舎で通夜の後に不寝番して線香を…的な地域なんだけど、お坊さんは「無理せず。真宗ではそれは必ずしも必要ではない」のようなことをおっしゃり。そういうことがあったので、こんなにシンプルなもんなのか?と疑問が湧いて本書を手に取ったのだが、なるほど確かに、本当にシンプルなんだなぁと実感した。

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    2024年04月20日
  • 歎異抄

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    『方丈記』に続き、徳を積む参考書として読んでみたけど、「ナンマンダブ」という魔法の言葉を唱えれば往生できるという。。聖人への道は多種多様だなと。
    『方丈記』を読んで、道端に酔っ払って寝ている人達の額に『阿』の字を書いて回りたいと思ってたところへ、まさかの簡単な方法が紹介されるという結末。
    他には、読み進めるとキリスト教に共通する教えもあり、まだまだ勉強する事が沢山あり、友達とワイワイ仮説の会話をしたい本の一つとなりましたと、云々

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    2023年07月10日
  • 歎異抄

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    一周回って「無思想」に辿り着いた親鸞さん。親鸞さんと唯円さんの対話があまりにも衝撃的な内容すぎて、『歎異抄』を書き写した蓮如さんも、「むやみにこれを読ませることを許してはならない」と最後に注釈を入れるほど。でも読んじゃダメって言われるほど、もっと読みたくなるものなんじゃないか。
    修行や勉強なんてしなくても、南無阿弥陀仏の魔法の言葉でみんな天国行けるから、アミダはんに全部任せちゃいなさいということだった。
    徳の積み方は千差万別なんだな、と目から鱗。

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    2023年07月09日
  • 梁塵秘抄

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    (遊女)遊びをするために生まれたのか。戯(たわむ)れをするために生まれたのか。(無心に)遊んでいる子どもの声を聞いていると、自分の心も揺れ動いてしまう。※貴族の前で遊女が演じた歌を集めてまとめたもの。後白河法皇『梁塵秘抄』1180

    道長批判。『大鏡』
    道長賛美。『栄華物語』
    *平安後期。院政。

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    2023年06月24日
  • 温泉文学論

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    温泉でゆかりの文学作品に思いを馳せる。異色の温泉文学。

    多くの名作の舞台となる温泉。作品を読み返し温泉を訪問し著した作品。

    尾崎紅葉「金色夜叉」の熱海
    川端康成「雪国」の越後湯沢
    松本清張「天城越え」、川端康成「伊豆の踊子」の湯ヶ島、湯ケ野
    宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の花巻
    夏目漱石「満漢ところどころ」の熊岳城、湯崗子
    志賀直哉「城の崎にて」の城崎
    藤原審爾「秋津温泉」の奥津
    中里介山「大菩薩峠」の龍神、白骨
    坂口安吾「黒谷村」の松之山
    つげ義春「ゲンセンカン主人」の湯宿

    章末の書籍の出版状況と温泉の現在に関する付記が良い。

    ちょっと独特の文体で小難しい。

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    2021年04月17日
  • 梁塵秘抄

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    あなたの 約束 忘れない
    信じて 信じて 待っている
    あなたの 名前を呼ぶだけで
    ほんとの 幸せ やってくる

    誰が歌っている演歌だろうか?いや、そうじゃない。今から900年ほど前、京の都を中心に流行した「今様」という歌謡の歌詞を川村湊さんが今様に訳したものです。
    本歌はこうです。

    阿弥陀仏の誓願ぞ 返す返すも頼もしき ひとたび御名を称うれば 仏になるとぞ説い給う

    大嘘じゃないか!百歩ゆずって意訳のし過ぎじゃないか!と思うだろうか?私はそうは思わない。当時、庶民にとっては阿弥陀仏は単なる仏様ではなかった。仏像や歌い手は時にはアイドルそのものだった(参考 五木寛之「親鸞」)。庶民がこの歌を歌うとき、おそらく意味合いは上の歌詞そのものだった、と私は思う。

    それにしても素晴らしい訳業だと思う。そのまま、誰か曲をつけて売り出して貰いたいものだと本気で思う。もちろん出来不出来はあります。

    また、今から900年前に、既に庶民の間では歌謡曲の条件が揃っていたということが、生き生きとわかる素晴らしい「古典」だと思う。ここでの訳業は全体の1/5も無い。また、歌謡曲だけでなくて、「前口上」「ピン芸人」「風刺」「阿保芸」等々、凡ゆる娯楽の素地が生まれている可能性がある。しかも「梁塵秘抄」はたまたま近代に見つかったもので、全体の一部に過ぎないらしい。ホントの全体像は未だ謎なのです。後白河法皇が、まるで憑かれたようにカラオケボックスに籠っていたのがわかる気がする。録音機が無いのを法皇は残念がっていたが、せめて歌詞だけでも纏めてみたいと思い、精力傾けて編纂したのもわかる気がする。おそらく居たはずのスーパースターの歌声と曲調は如何なものだったのだろうか?庶民文化史の燦然と輝く裾野を見せ、想像させる面白い訳業でした。

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    2020年11月14日
  • 歎異抄

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    何度目かの読み直しである。今度は、全面関西弁なので、とりあえず最後まで読み通す。関西弁、良いと思うよ。そもそも文字を知らない庶民に親鸞の教えを広めるのが目的の書き物じゃけん、しゃべり言葉で伝わらんかったら、意味ねぇーけんな(←突然岡山弁)。

    (やはり元に戻して)「自力本願」に対する浄土真宗は「他力本願」。その他「悪人正機説」など、試験に出るから覚えていても、それを真から納得する者はいったいどれほどの人がいるのだろうか?わたしの家はそもそも真言宗なので、葬式の場面で「親は往生したのか」と自問自答したことはなかったのではあるが、何度か浄土真宗の葬式に出席していた時は、昔読んだ解説本や吉川英治・倉田百三・五木寛之の小説のことなどを思い返して不思議な気がした。

    1番の関門は、阿弥陀さまを信じるかどうか?
    「アミダはんのどんなしょうむない奴でも救うてやろういう本願がホンマやったら」回り回って、親鸞の言うこともホンマのはずや、と言うのが唯一の根拠である。‥‥分かったようで分からん。救うって、なんなん?極楽往生ってなんなん?

    2番目の関門は有名な「善人なおもて往生を遂ぐ、言わんや悪人をや」である。
    「善え奴でさえ往生する、ましてや悪人が往生するというのは当たり前のことやないかいな」
    これは理屈としては通っている。「悪人なおもて往生を遂ぐ、言わんや善人をや」と思っている輩は、それは未だ自力本願の気持ちが残っているからだ。悪人はそんなこと思わないから、悪人の方に阿弥陀様は心にかけてくれるだろう。そこまでは良い。
    では悪人にもいろいろ居るから、悪人からこう返されたら親鸞や唯円はどう答えるのか?
    「よっしゃああ!往生遂げるんなら、死ぬまでに思いっ切り悪いことしちゃろ!そして死ぬ間際に浄土真宗に帰依したらええねん」こういう輩が出るのは必定である。
    絶対出てくるこの意見に対して、実は歎異抄では明確に「邪見」と答えている(35p)。親鸞は手紙の中で「薬があるからというて、毒を好むちゅうのはおかしなことや」と言っていたらしい。ただし、今一つ説得力はない。五木寛之「親鸞」では、このことが大きなテーマになっている。

    歎異抄には、最大の難問が親鸞から唯円に挑まれている。唯円にとっても人生で大きな出来事だったのだろう、かなり具体的な会話である。

     また、ある時は、「唯円房は、ワシが言うことを信じるんか」と、聞かはりましたので、「もちろんですわ」というたら、「そんならワシの言うことに絶対そむかへんか」と、重ねていわはりますから、「もちろん、つつしんで承知させてもらいますわ」というた。「ほな、たとえばひとを千人殺せいうて、そしたら往生間違いなしやいうたらどうする」と聞かはりました。「いやあ、いわはることやけど、1人かてワイの器量では殺すなんてことはできしまへん」と申しましたら、「ほんなら、さっきはなんで親鸞のいうことにそむきまへんいうたんや」ときついことばや。
     これでわかるやろ。なにごとでも人や自分の心のままになるんやったら、往生のために千人殺せといわれたら、殺さんとあかん。そやけど、そんな業縁はないので、1人かて害することはできしまへん。自分の心が善うて殺さんちゅうことではないということや。
     また「害せえへんと思うても、百人千人殺すことかてあるんや」といわはった。おっしゃったのは、ワイらの自分の心で、善いことは善い、悪いことは悪いと思うことやなしに、願のフシギさに助けられておることを、知らずにいるちゅうことの教えなんやなあ。(34p)

    前半は会話記録、後半は唯円の解釈である。
    この唯円の解釈に対しては、おそらくさまざまな研究があると思うが、わたしは唯円は親鸞の真の狙いから逃げていると思う。自力本願を一切排するという立場を強調したいのだろうが、親鸞は源平合戦の最中に青春を送った人物である。また、兄弟子に熊谷直実(源氏の大将。子供のような平氏を殺したことで出家した人)も居る。「業縁」はないのではない。すぐそばにある。「その時、ワイは千人殺すのだろうか」と自問自答しなければならなかった。実際親鸞の後継を宣言している本願寺は、この理屈を通して信長と応戦「戦争」をしている。(参考「村上海賊の娘」)

    西洋、そして最近ではイラク戦争も、キリスト教の名前のもとに千人も万人も殺し、殺された。

    「業縁」は、人では判断できない。神が判断するのだ。と言って、逃げるべきではない。とわたしは思う。



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    2020年10月12日
  • 梁塵秘抄

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    原文をチラチラ見ながら、大胆に現代歌謡曲の歌詞風に翻案して感性で読ませる斬新なスタイル。ふむ、こうやって移し替えるのか、とニヤリとできる楽しみがあった。肩の凝らない古典でありながら、「遊びをせんとや生まれける・・」は読みようによって、人としての根幹を揺すぶる素朴な力がある。かようなものを後世に残してくれた後白河法皇の日本文化への貢献は、まっこと素晴らしいです。

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    2020年01月25日
  • 村上春樹はノーベル賞をとれるのか?

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    ネタバレ

    毎年のように恒例となった村上春樹のノーベル賞受賞騒ぎ。何か非常に確度の高いように思っていたが、実際はそうでもないんだ。他の理系の賞と異なり、多分に政治的な要素があることが分かる。

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    2016年09月22日
  • 原発と原爆 「核」の戦後精神史

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    借りたもの。
    サブタイトルの通り核と関わってきた日本人の精神面をフォーカスしたもの。
    それは原爆から原発、そして原発事故に至るまでの日本人の考え方の変化も読み取れるものだった。
    日本人の“唯一の被爆国”(表向きに唯一実戦投入されたのは事実だが)という考えに釘を差し、アレルギー並みの嫌悪感を抱きながら原発の誘致を進めた矛盾を細かく切り刻んでゆく。
    結局、安全神話は迷信であり、原子力ムラというより“原子力マフィア”ともいうべき一部の利権を得られる人々に、扱いきれない代物を金によって盲目にされた人々が受け入れてしまった、という話だった。
    「原発の必要性」は欺瞞であると。

    何よりこの本は、文学やサブカルチャーに見る「核」との関わり方にフォーカスしている部分は非常に興味深かった。
    『ゴジラ』に始まり、『AKIRA』『風の谷のナウシカ』まで。(冲方丁『シュピーゲル・シリーズ』や井上智徳『COPPELION』はどうした!?)
    日本人にとって原爆の被害が、台風や地震と同じ未曾有の大災害と似た形で受け止められていた事、他所から来た未知の力、“マレビト”に例えている事が言い得て妙だった。(そうでなければゴジラも腐海も生まれなかっただろう)
    斜め読みだが、村上隆『リトルボーイ―爆発する日本のサブカルチャー・アート』にも同じような思想があったかも知れない。今度こそしっかり読みなおしてみようと思う。
    若干駆け足で、要素がしっかり繋がっていないような気もするが……史実だけではなく人の精神史について書かれたものはまだ少ないと思うので、良い本だと思う。

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    2015年03月20日
  • 歎異抄

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    歎異抄を現代関西弁に訳すという面白い試みの本。
    親しみやすさは確かに増したような気がしましたが、読み進めると自分は関西弁に触れたことがあまりないせいか、少し読むのに苦労しました。
    ただ、平易な口語訳で書かれているため、「読む」こと自体に労力を使う必要がなく、折に触れ何度も読むことが出来るのがこの本の優れている所だと思います。

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    2013年05月31日
  • 歎異抄

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    ネタバレ

    今週おすすめする一冊は、親鸞の教えを弟子の唯円が書き綴った書
    『歎異抄』の現代語訳版です。現代語訳と言っても、本書は大胆に
    も、思いっきりくだけた関西弁になっています。「金剛」を「ダイ
    ヤモンド」と訳すなど、ちょっとそれはどうなの?と思うような部
    分もありますが、画期的に読みやすいことは確か。日本史の教科書
    の中でしか知らなかった『歎異抄』をあっという間に読めてしまう
    手軽さは、やはり新訳ならではでしょう。

    『歎異抄』というと、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人を
    や」というフレーズが有名ですね。「善人が浄土へ行けるなら、悪
    人だって行けるのは当然だ」という意味で、このような考え方を
    「悪人正機説」というのだと、高校の授業では教えられたよぅに記
    憶しています。それが親鸞の言葉だということも。

    親鸞は、法然の弟子です。法然は、南無阿弥陀仏の念仏すら唱えて
    いればいいという浄土宗を興しますが、その一門は、時の後鳥羽天
    皇に弾圧され、僧籍を剥奪された上で、越後(新潟)に流されます。
    親鸞、時に34歳。

    しかし、流浪の民として、越後に行ってからが親鸞の本領発揮です。
    親鸞は、出家した僧ではなく、一人の人間として、自ら土を耕し、
    農民たちと語らいながら、念仏の教えを広めていきました。越後の
    次は常陸(茨城)に移り、63歳で京都に帰るまでの期間をそうやっ
    て庶民の間で暮しながら、信仰に生きました。

    京都生まれの親鸞が、庶民に教えを伝える時の口調というのは、確
    かに本書のようなものだったのかもしれません。そういう意味では、
    本書の翻訳もあながち行き過ぎではないと言えるでしょう。

    平易な言葉で説かれる親鸞の思想は、しかし、決して易しいもので
    はありません。「自力」ではなく、「他力本願」で生きるというの
    は、頭ではわかっても実践はなかなかに難しい。親鸞は、人間の善
    悪の判断など、阿弥陀様という絶対の存在の前では無に等しいと言
    います。人間が自力で解脱しようとするのは、賢しら(さかしら)
    で浅ましい、「自分たのみ」ではなく、ただひたすら阿弥陀様のこ
    とを信じ、自分の力ではどうにもならないと念仏を唱える「人まか
    せ」の姿勢で生きる。それが幸福の条件なのだと言うのです。

    中途半端に自力を突き詰めていくと、他人の存在は不要になります。
    「自己責任」を言い続ければ、人と生きることの意味が自明でなく
    なるのは、いわば当然の帰結なのです。他人の存在が希薄になり、
    「自分」が肥大化した現代だからこそ、他力にすがる親鸞の言葉に
    もう一度耳を傾けてみるべきではないかと思うのです。

    自らの小賢しさに気づかせてくれる一冊です。是非、読んでみてく
    ださい。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずが
    ない。世間のしょうむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なん
    で善え奴がそないならんことあるかいなというとるけど、なんや理
    屈に合うとるようやけど、それは「ひとまかせ(=他力本願)とい
    うモットーにはずれとるんや。
    つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、「お願いします」
    ちゅう気持ちの欠けている分だけ、アミダはんのいわはる誓いと違
    うとる。けども「自分たのみ(=自力本願)」という心を入れ替え
    て、まあ「あんじょう頼みます」と願うとれば、ホンマもんの極楽
    行きも間違いなしやで。

    親鸞は、弟子は一人ももってはおらへん。なぜかちゅうと、自分の
    意志やはからいでひとに念仏させたんなら、ワテの弟子やいうこと
    にもなろうが、ひとえにアミダはんのおぼしめしで念仏するように
    なったんやから、ワテの弟子やいうのんは、まったくもってオコガ
    マシイこっちゃ。

    念仏ちゅうもんは「(何かを)やろう」という作為性(=義)なし
    に「やる」ということなんや。

    「ナンマンダブ」と申すのも、アミダ如来はんのおはからいと思う
    て、ちっとも自分の力なんか混じらんからこそ、アミダはんの本願
    に応じて、ほんまもんの浄土に往生することができるんや。

    目に一丁字もない無学なもんで、お経のことも学問の筋道ちゅうも
    んも知らんものが、となえやすかろうと思うて、「ナンマンダブ」
    ちゅう名号がおわしますんやさかい、これを「易行」、アンキで簡
    単なやり方というんや。学問で何とかしたるちゅうのは、聖道門い
    うて、これは難行、ごっつう難しいやり方というんや。「間違うて
    学問して、名誉やの利欲なんぞにしがみついとるひとは、今度生ま
    れ変わったつぢの世での往生はどないなるかわらかへん」という証
    文(=証拠の経文)さえあるちゅうことや。

    こないなアミダはんの悲願があるからこそ、こんなあさましい罪人
    がどないしたら生死の苦しみから脱け出すこと(=解脱)ができる
    んやろと思うて、一生の間「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と申す
    念仏は、ぜえんぶ如来はんの大悲への恩返しやで、その徳を有り難
    い、有り難いと感謝することや。

    すべてのいろんなことにつけても、往生には賢しらな考えなど持た
    ずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつ
    ねに思い出してみるべきや。そうすれば、自然と念仏も口から出て
    くるのと違いまっか。これが自然(じねん)の道理や。
    自分であれこれ考えないことを、自然ちゅうのや。これがすなわち
    「ひとまかせ(=他力本願)」ということや。それなのに、自然ち
    ゅうことが別にあるように、知ったかぶりをしてものをいう人がお
    られると聞いとりますが、ほんまにあさましいことやで。

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    ●[2]編集後記

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    この一週間は、靴に悩まされた一週間でした。

    先週の終末、久しぶりに靴を買ったのですが、それがどうしても足
    に合わない。買う時に、ちょっと幅がせまい気がしたのですが、必
    要性に迫られていたし、あれこれ選んでいる時間もないので、機能
    性と値段を優先して、その靴を買うことにしたのです。

    「これだ!」とピンときて買ったものではないですから、買った後
    も本当にこれで良かったのかと心にひっかかります。で、履き心地
    を試してみようと思って履いてみたら、やっぱり幅が狭いのです。
    紐をゆるめにすれば何とかなるかなと思っていたのですが、半日も
    履いているとどうしようもなく締め付けられ、足が痛くなってくる。

    合わない靴というのは、もうどうしようもないのですね。たいてい
    のことは調整すれば何とかなるし、時間が解決してくれもしますが、
    靴だけはどうにもなりません。それが悔しくて悔しくて。

    どうしても必要だったので、今週末、改めて買いにいったのですが、
    やっぱり「これ!」と思えるものがないのです。こんなにモノが溢
    れているのに、自分の今の必要を満たす一足に出会えないというの
    は一体どういうことなのかと頭を抱えるやら、腹が立つやら。

    今回は必要に迫られて買ってしまいましたが、やっぱり「これ!」
    と思えないままに買うのはいけませんね。喜びがないし、本当に正
    しい判断だったのかといつまでも尾をひきます。ピンと来るものに
    出会えなかったら、どんなに必要に迫られていようが、買ってはい
    けないのです。逆に、「これ!」と思えるものに出会えたら、金に
    糸目をつけずに買ってしまう。結局、ピンとくるかどうかが重要で、
    それ以外の情報や状況に惑わされてはいけないのでしょう。

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    2012年01月05日
  • 梁塵秘抄

    Posted by ブクログ

    古語に触れたかったので、その教材に今様を選んでみた。庶民の芸能である今様に後白河法皇がハマり、なんとか歌だけでも後世に伝えようとして編纂させたものが、一部失われたもののこうして現代まで残ってきたのは感慨深いものがある。

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    2026年01月23日
  • 梁塵秘抄

    Posted by ブクログ

    中世あたま(平安時代末期)に後白河上皇が集めた今様集。
    基本的な構成は、昭和歌謡風の現代語訳・原文・訳者の解釈やコメントからなるパートが100個。

    これは現存している梁塵秘抄の一部を取り出したもので完訳ではない点、出版から10年足らずで訳自体の現代感覚がすでに過去のものになっている(まあ10年ちょっと前のおじさんの感覚と、今の30代の感覚が合うことはない)ことに留意する必要はあるけれど、読んでいて楽しかったから、まあよいし、こういう試みの面白さが、初期の光文社新訳文庫の強みだったとも思うし。

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    2023年10月22日