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Posted by ブクログ
光文社古典新訳文庫の「歎異抄」(唯円著・親鸞述、川村湊訳)を読んだ。
おそらく理解できないだろうから、まず川村湊の現代語訳から読んだ。東野圭吾さん原作のTVドラマ「ガリレオ」で、福山雅治さん演じる湯川学の名セリフの通り、「さっぱりわからない」。
しかも、それを訳文が良くないせいだと思った。川村は「関西弁風の思いっきり砕けたスタイルで現代語訳した」と訳者まえがきに記す。これはいささか凝り過ぎだ。親しみやすさを狙ったのだろうが、違和感を覚える。ごく普通の形の訳文にしてほしかった。
「歎異抄」は実に変わった本だということを、これまたこの年になって初めて知った。
親鸞(1173-1262)は浄土真宗の開祖。唯円は弟子で、親鸞没後の1286年頃、「師の教えと異なる説が広まるのを嘆いて」記したのが「歎異抄」である。前半で親鸞が生きていた時に弟子たちに語った言葉を記録し、後半では教えに対する誤解や異説を批判している。これに漢文序、後記のほか、親鸞の流罪目録、さらに蓮如の奥書がある。(蓮如の書写本が原典のため)
川村の現代語訳を読んだ後、川村の少し長い解説と訳者あとがきを読んで、少しだが基本知識を得た。その上で、原文を、ネットで見つけた〝オーソドックスな現代語訳〟を参照しつつ読んだ。一部分を音読すると、原文が名文であるような気がしてきた。
核心のテーマは、言い切ってしまえば、他力本願と悪人正機だろう。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」「念仏者は無礙の一道なり」「善悪のふたつ、惣じてもて存知せざるなり」…。
いろいろな名文、あるいは名言が次々に出てくるが、さて、どう我が事と理解するか、しないか。むつかしいなぁ。
「歎異抄」は「方丈記」「徒然草」とともに日本三大美文と呼ばれているそうだ。
それにしても、「歎異抄」のこんな暢気な読み方ができるのも、還暦を遙かに過ぎたシニアならではと、自分で納得している。さて、何がどれだけ記憶に残るか、はなはだ心許ない。
※光文社古典新訳文庫の「歎異抄」には付録として親鸞和讃抄、親鸞・唯円関係年譜も収録されている。
Posted by ブクログ
日々ありとあらゆるものに悩みぐらぐらふらふら迷っている自分だけど、この本を読んで、そんな自分でもいいのかなぁと思うことができた。
自業自得という言葉があるけど、この本の中ではそんなものはなんら関係なく掬い上げる「アミダはん」の存在を諭していて、親鸞が語った様々な話に触れていくうちに、自分のどうしようもなさやあさましさを思い、こんな自分に関わってくれている周りのヒトモノセカイそしてそこから生ずる縁、全てに有り難いなという気持ちが湧いてきた。
仏教の今生における目標は心の平安であるとしたら、この有り難いと思う心の状態というのは、とてもそれに近い気がする。
愚かな自分を認めた先にそれをも大きく包んでくれている大きなもの(=アミダはん)に手をあわせたくなる気持ち(その気持ちを言葉であらわしたものが「ナムアミダブツ」なのかな)をただ持って生きればよいというシンプルな親鸞の教えは、文字が読めないなど当時の社会で強くない立場にいた人々にとって大きな救いとなったと想像できる。
どんな苦しい状況でもアミダはんの本願の力に心から感謝をして、有り難い、有り難いと生きれば、死をも怖くはなくなる、というのもなんとなくわかる。
幸せになるにはどうしたらいいのか?という率直な疑問に、難しいことは抜きで一直接にコミットした教えが他力本願なのかな。
当時の農村の人々の目線で話を聴いているような、素朴な気持ちになれる読書時間でした。また苦しい時に再読していきたい。
Posted by ブクログ
浄土真宗の教祖である親鸞。
その直弟子の唯円が師である親鸞の思想がその死後に異なったものになることを歎じて書いた書と言われる『歎異抄』
親鸞(1173-1262)は12世紀から13世紀にかけて生きた人物であり、今から750年以上も前の人物だ。
驚きなのは、親鸞は弟子をとらない、としてこの本文中にも書かれてあり、
また、大正時代のベストセラー本でもある『出家とその弟子』でも、このような形で描写されてあったが、その親鸞の教えである「浄土真宗」が今も尚脈々と受け継がれているということだ。
唯円のように全てをなげうって、丁稚のような形で遍路をともにするものはいたが基本的には弟子達にお寺で大規模に教えるというようなことはなかったのではないかと見受けられる。
そして、その教えを受け継いだのは親鸞の血族であり世襲によって引き継がれていくという点は興味深い。
この浄土真宗における核となる思想「他力本願」は、信仰心をもち「南無阿弥陀」を唱えるとことで、学問や厳しい修行をできない人でも、救われるというもの。
当時、学問的かつ厳しい修行を得てからでないと解脱はできず、普通の人にすれば仏陀へと至る道があまりに険しかった。
そうであれば意味がないではないか、一般の人々に対しても門出をひらいてこその、この世の中ということで、自分の力で頑張るから救われるというパラダイムから、他人の力で救われるという他力本願を「南無阿弥陀」で作り出した宗派。
その真髄を、
唯円が語り口調で説いているのがこの書だ。
Posted by ブクログ
現代語訳が、今どきここまでコテコテな人は居ないって…というレベルのコテコテの関西弁で、訳者はこの古典新訳のシリーズで『梁塵秘抄』を歌謡曲風に訳している人でもある。
唯円が師の親鸞から伝え聞いた事を記述する、というスタイル(とくに前半部)なので、究極の話し言葉であるコテコテ関西弁をチョイスしたのは正解な気がする。黙読より、音読してみると良いと思う。
昨年浄土真宗のお寺での葬儀に参加する機会があり。参列者は基本的に要所で「南無阿弥陀仏」とつぶやくのみで、結構な田舎で通夜の後に不寝番して線香を…的な地域なんだけど、お坊さんは「無理せず。真宗ではそれは必ずしも必要ではない」のようなことをおっしゃり。そういうことがあったので、こんなにシンプルなもんなのか?と疑問が湧いて本書を手に取ったのだが、なるほど確かに、本当にシンプルなんだなぁと実感した。
Posted by ブクログ
何度目かの読み直しである。今度は、全面関西弁なので、とりあえず最後まで読み通す。関西弁、良いと思うよ。そもそも文字を知らない庶民に親鸞の教えを広めるのが目的の書き物じゃけん、しゃべり言葉で伝わらんかったら、意味ねぇーけんな(←突然岡山弁)。
(やはり元に戻して)「自力本願」に対する浄土真宗は「他力本願」。その他「悪人正機説」など、試験に出るから覚えていても、それを真から納得する者はいったいどれほどの人がいるのだろうか?わたしの家はそもそも真言宗なので、葬式の場面で「親は往生したのか」と自問自答したことはなかったのではあるが、何度か浄土真宗の葬式に出席していた時は、昔読んだ解説本や吉川英治・倉田百三・五木寛之の小説のことなどを思い返して不思議な気がした。
1番の関門は、阿弥陀さまを信じるかどうか?
「アミダはんのどんなしょうむない奴でも救うてやろういう本願がホンマやったら」回り回って、親鸞の言うこともホンマのはずや、と言うのが唯一の根拠である。‥‥分かったようで分からん。救うって、なんなん?極楽往生ってなんなん?
2番目の関門は有名な「善人なおもて往生を遂ぐ、言わんや悪人をや」である。
「善え奴でさえ往生する、ましてや悪人が往生するというのは当たり前のことやないかいな」
これは理屈としては通っている。「悪人なおもて往生を遂ぐ、言わんや善人をや」と思っている輩は、それは未だ自力本願の気持ちが残っているからだ。悪人はそんなこと思わないから、悪人の方に阿弥陀様は心にかけてくれるだろう。そこまでは良い。
では悪人にもいろいろ居るから、悪人からこう返されたら親鸞や唯円はどう答えるのか?
「よっしゃああ!往生遂げるんなら、死ぬまでに思いっ切り悪いことしちゃろ!そして死ぬ間際に浄土真宗に帰依したらええねん」こういう輩が出るのは必定である。
絶対出てくるこの意見に対して、実は歎異抄では明確に「邪見」と答えている(35p)。親鸞は手紙の中で「薬があるからというて、毒を好むちゅうのはおかしなことや」と言っていたらしい。ただし、今一つ説得力はない。五木寛之「親鸞」では、このことが大きなテーマになっている。
歎異抄には、最大の難問が親鸞から唯円に挑まれている。唯円にとっても人生で大きな出来事だったのだろう、かなり具体的な会話である。
また、ある時は、「唯円房は、ワシが言うことを信じるんか」と、聞かはりましたので、「もちろんですわ」というたら、「そんならワシの言うことに絶対そむかへんか」と、重ねていわはりますから、「もちろん、つつしんで承知させてもらいますわ」というた。「ほな、たとえばひとを千人殺せいうて、そしたら往生間違いなしやいうたらどうする」と聞かはりました。「いやあ、いわはることやけど、1人かてワイの器量では殺すなんてことはできしまへん」と申しましたら、「ほんなら、さっきはなんで親鸞のいうことにそむきまへんいうたんや」ときついことばや。
これでわかるやろ。なにごとでも人や自分の心のままになるんやったら、往生のために千人殺せといわれたら、殺さんとあかん。そやけど、そんな業縁はないので、1人かて害することはできしまへん。自分の心が善うて殺さんちゅうことではないということや。
また「害せえへんと思うても、百人千人殺すことかてあるんや」といわはった。おっしゃったのは、ワイらの自分の心で、善いことは善い、悪いことは悪いと思うことやなしに、願のフシギさに助けられておることを、知らずにいるちゅうことの教えなんやなあ。(34p)
前半は会話記録、後半は唯円の解釈である。
この唯円の解釈に対しては、おそらくさまざまな研究があると思うが、わたしは唯円は親鸞の真の狙いから逃げていると思う。自力本願を一切排するという立場を強調したいのだろうが、親鸞は源平合戦の最中に青春を送った人物である。また、兄弟子に熊谷直実(源氏の大将。子供のような平氏を殺したことで出家した人)も居る。「業縁」はないのではない。すぐそばにある。「その時、ワイは千人殺すのだろうか」と自問自答しなければならなかった。実際親鸞の後継を宣言している本願寺は、この理屈を通して信長と応戦「戦争」をしている。(参考「村上海賊の娘」)
西洋、そして最近ではイラク戦争も、キリスト教の名前のもとに千人も万人も殺し、殺された。
「業縁」は、人では判断できない。神が判断するのだ。と言って、逃げるべきではない。とわたしは思う。
Posted by ブクログ
8年前に梅原猛訳で一度読んでいるのだが、好きな「光文社古典新訳文庫」で「関西弁訳」があると知り読んでみた。
原典は現代の日本人からすると十分に格調高い古典的な硬い文章に見えるのだが、当時の親鸞はわかりやすい平易な言葉で説いたらしく、その雰囲気を醸すために、『何となく分かる』スタイルの関西弁風翻訳としたそう。その試みは当たっているような、そうでないような。関西に計15年程住んだ者にとっては分かりやすく感じた。二度目だからかもしれない。
悪人正機説(善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや)が誤解されないように諭した部分の例え話は秀逸だ。
十三
原典
くすりあればとて、毒をこのむべからず
とあそばれてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。
関西弁訳
「薬があるというたからとて、毒を好むちゅうのはおかしなことや」とはっきりいわはったのは、そないなよこしまな考え(=邪執)をやめさせようとしはったためや。
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