あらすじ
歌の練習に明け暮れ、声を嗄らし喉を潰すこと、三度。サブ・カルチャーが台頭した中世、聖俗一体の歌謡のエネルギーが、日本の第77代天皇でもあった後白河法皇を熱狂させた。画期的新訳による中世流行歌100選!「わたしは バカな 女です」「マリーのひとりごと」「わが子ゆえの嘆き」「も一度 抱いて」など。日本古典の現代語訳を一新! 歌謡曲のルーツはここにある。
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(遊女)遊びをするために生まれたのか。戯(たわむ)れをするために生まれたのか。(無心に)遊んでいる子どもの声を聞いていると、自分の心も揺れ動いてしまう。※貴族の前で遊女が演じた歌を集めてまとめたもの。後白河法皇『梁塵秘抄』1180
道長批判。『大鏡』
道長賛美。『栄華物語』
*平安後期。院政。
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あなたの 約束 忘れない
信じて 信じて 待っている
あなたの 名前を呼ぶだけで
ほんとの 幸せ やってくる
誰が歌っている演歌だろうか?いや、そうじゃない。今から900年ほど前、京の都を中心に流行した「今様」という歌謡の歌詞を川村湊さんが今様に訳したものです。
本歌はこうです。
阿弥陀仏の誓願ぞ 返す返すも頼もしき ひとたび御名を称うれば 仏になるとぞ説い給う
大嘘じゃないか!百歩ゆずって意訳のし過ぎじゃないか!と思うだろうか?私はそうは思わない。当時、庶民にとっては阿弥陀仏は単なる仏様ではなかった。仏像や歌い手は時にはアイドルそのものだった(参考 五木寛之「親鸞」)。庶民がこの歌を歌うとき、おそらく意味合いは上の歌詞そのものだった、と私は思う。
それにしても素晴らしい訳業だと思う。そのまま、誰か曲をつけて売り出して貰いたいものだと本気で思う。もちろん出来不出来はあります。
また、今から900年前に、既に庶民の間では歌謡曲の条件が揃っていたということが、生き生きとわかる素晴らしい「古典」だと思う。ここでの訳業は全体の1/5も無い。また、歌謡曲だけでなくて、「前口上」「ピン芸人」「風刺」「阿保芸」等々、凡ゆる娯楽の素地が生まれている可能性がある。しかも「梁塵秘抄」はたまたま近代に見つかったもので、全体の一部に過ぎないらしい。ホントの全体像は未だ謎なのです。後白河法皇が、まるで憑かれたようにカラオケボックスに籠っていたのがわかる気がする。録音機が無いのを法皇は残念がっていたが、せめて歌詞だけでも纏めてみたいと思い、精力傾けて編纂したのもわかる気がする。おそらく居たはずのスーパースターの歌声と曲調は如何なものだったのだろうか?庶民文化史の燦然と輝く裾野を見せ、想像させる面白い訳業でした。
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原文をチラチラ見ながら、大胆に現代歌謡曲の歌詞風に翻案して感性で読ませる斬新なスタイル。ふむ、こうやって移し替えるのか、とニヤリとできる楽しみがあった。肩の凝らない古典でありながら、「遊びをせんとや生まれける・・」は読みようによって、人としての根幹を揺すぶる素朴な力がある。かようなものを後世に残してくれた後白河法皇の日本文化への貢献は、まっこと素晴らしいです。
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狂言綺語のあやまちは 仏を讃むるを種として 麁き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる(原歌222)
伝聖徳太子『法華義疏第一の序』に、「妙法者外國薩達磨然妙是絕麁之号法即此經中所說一因一果之法也言此經中所說一乘因果之法超然絕於昔日三乗因果之麁稱妙」とあり、漢字「麁」の使用からアイディアの引用を感じさせる(明治45年佐佐木信綱『増訂梁塵秘抄』には平仮名での記載だった、山田孝雄文庫写本では朱筆で「麁」の注あり、第一義が「大智き」)が、そのような考察がされていない。謎の現代唱歌は不要であるが、法華経の原典からのアイディアの引用を明示して論じた書はないものか。本書に収録されていない、「戯れ遊びのうちにしも さきらに学びん人をして 未来の罪を尽くすまで 法華の縁を結ばせん(原歌167)」は、有名な「遊びをせんとや生まれけむ(原歌359)」の解釈に必要であるように思われ、法華経「三車火宅の譬喩」の火宅で遊び戯れる子どもとの関連も考察したいものである。
別書を見るに、梁塵秘抄にはどの経典がどのようなものであるか、どこの神社はなんであるか、経典の登場人物たちがどんな人であるかをやさしく教え、「めでたけれ」「あはれなり」と彼らを尊敬するように口伝えに優しく教える歌が多く収録されており、本格的に仏道修行に入る前に、物心がつく前から子弟の子どもに事前に準備をさせるように作られているように思われる。後白河法皇は今様にはまった趣味人であり、「即位の器ではない」 と評されたように遊び人としての側面や、源頼朝に「日本一の大天狗」と評されたように政治的権謀術策の達人としてのイメージが強いが、このように子どもの為に思いやって教育課程を整備するようなこともしていたのだというのは瑞々しい驚きがあった。(法華経従地涌出品を参照してのことと思われる。)
しかし、近年、自分の学問も出来上がっていないにも関わらず、「子どもむけに易しく教える」ところばかりやりたがる不逞の輩が多い。半端な知識を半端な理解で教えたところで何を理解しろというのか。まず自分が完全な知識を得ることを務め励むことが肝心である。正法-像法-末法の思想が意味するところがよくわかる嘆かわしい過去数年の傾向は、もしかしたら数百年前に生きた「日本一の大天狗」の呪縛だったのかもしれない。
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中世あたま(平安時代末期)に後白河上皇が集めた今様集。
基本的な構成は、昭和歌謡風の現代語訳・原文・訳者の解釈やコメントからなるパートが100個。
これは現存している梁塵秘抄の一部を取り出したもので完訳ではない点、出版から10年足らずで訳自体の現代感覚がすでに過去のものになっている(まあ10年ちょっと前のおじさんの感覚と、今の30代の感覚が合うことはない)ことに留意する必要はあるけれど、読んでいて楽しかったから、まあよいし、こういう試みの面白さが、初期の光文社新訳文庫の強みだったとも思うし。