『論語』の名を知らない人はまずいないと思いますが、きちんと全
文を読んだことがある人になると、それほど多くはないかもしれま
せんね。かくいう私もその一人です。どうにも堅苦しい印象があっ
て、どうしても読む気にならなかったのです。
しかし、そんな印象を一変させてくれる一冊が、今週おすすめする
白川静
...続きを読む著『孔子伝』です。白川氏は2年前に96歳の生涯を閉じた、日
本が世界に誇る漢字・東洋学者です。
私がこの大学者の仕事の一端に触れたのは、娘の命名のために漢字
の起原を調べようと『常用字解』『人名字解』を買ったことがきっ
かけでした。この2冊の字典は、大袈裟なようですが、それまでの世
界観を覆すほどの衝撃をもたらすものでした。漢字がこんなに呪術
と結びついたものだとは全く知りませんでしたし、白川氏の解説を
読んでいると、文字にこめられた呪能が、古代の人々の世界観と共
に立ち上がってくるのです。それは、めくるめくような体験でした。
こんな仕事を一人でやり遂げた白川静という人間はただ者ではない、
と思いました。それから彼の著作を読み始めたのです。
『孔子伝』は、漢字に関する著作の多い白川氏の著作の中で、唯一
の評伝です。これがまた従来の孔子像に挑戦する、大胆な仮説を提
示している書物なのです。
「孔子は巫女の私生児であった」というところから白川氏は孔子像
の転覆をはかります。孔子の前半生は暗くけわしいもので、世に認
められたのは40歳をかなり過ぎてから。しかし、社会的な成功とは
程遠く、死の直前まで亡命と流浪を繰り返す日々であったと言うの
です。
「四十にして惑わず」どころではないです。実際の孔子の人生は、
彷徨の人生だったのです。しかし、現実の世界では敗北者であり、
失敗者であったからこそ、逆に孔子の思想は輝きを増したのだ、と
白川氏は論じます。
実は白川氏自身が遅咲きの花でした。岩波新書で『漢字』を書いて
一般に知られるようになるのが60歳のことです。88歳で文化功労者、
94歳で文化勲章を受賞されますが、それでも、常に異端者と見られ、
学界では少数派であったようです。そんな世俗のことはどこふく風
と、ただひたすら文字の世界と向き合い続けた96年の人生は、現実
に敗れながらも自らの理想を追い続けた孔子の74年の人生とどこか
重なるものがあります。
『孔子伝』が世に出たのは1972年のこと。学生運動が教育の現場を
荒廃させ、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていた頃です。そう
いう世情の中で、白川氏は孔子について書いてみようと思ったのだ
そうです。「多分孔子も、このような時代に生きたのであろう。哲
人孔子は、どのようにしてその社会に生きたのか。孔子はその力と
どのように戦ったのか。そして現実に敗れながら、どうして百世の
師となることができたのであろうか。私はそのような孔子を、かき
たいと思った。社会と思想と、その人の生きざまと、その姿を具体
的にとらえたいと思った」と当時の心境を振り返っています。
『孔子伝』は、そういう意味で、極めて個人的な著作だと思うので
す。孔子の生き様を通じて、我が身を振り返る。そういう白川氏の
思いが随所に溢れているように思えます。それがまた孔子の人間像
に精彩を与え、この書物を魅力的にしているのです。
自分の人生を生きるとはどういうことか。そういうことを深く考え
させてくれる好著です。是非、読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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孔子は、たしかに理想主義者であった。理想主義者であるゆえに、
孔子はしばしば挫折して成功することはなかった。世にでてからの
孔子は、ほとんど挫折と漂白のうちにすごしている。
哲人は、新しい思想の宣布者ではない。むしろ伝統のもつ意味を追
求し、発見し、そこから今このようにあることの根拠を問う。探求
者であり、求道者であることをその本質とする。
孔子は、巫女の庶生子であった。いわば神の申し子である。父の名
も知られず、その墓所など知る由もない。
孔子がようやく世上に姿をあらわすのは、おそらく四十もかなり過
ぎてからであろう。その頃には多少の弟子ももっていたようである。
(中略)このような孔子が、一躍にして世人の注目をあびるように
なるのは、魯に内乱的な状態が発生した時である。(中略)孔子も
行動を起こそうとする。しかしそれはたちまち挫折するのである。
しかし、その挫折は孔子を救ったと私は考える。政治的な成功は、
一般に堕落をもたらす以外の何ものでもない。
孔子がいくらか得意であった時期は、ものの三年もつづかなかった。
孔子はなぜ失敗したのであろう。それは孔子が、革命者ではあって
も、革命家ではなかったからである。
事実は必ずしも真実ではない。事実の意味するところのものが真実
なのである。
孔子はえらばれた人であった。それゆえに世にあらわれるまでは誰
もその前半生を知らないのが当然である。神はみずからを託したも
のに、深い苦しみと悩みを与えて、それを自覚させようとする。そ
れを自覚しえたものが、聖者となるのである。
伝統とは民族的合意である。儒教は少なくとも、中国における旧社
会の伝統であった。しかしわが国の場合、そのような意味での伝統
は、はたしてあったであろうか。またそれにかわりうるものがあっ
たであろうか。
それにしても、孔子がかつてその現実の行動のうちに示した、あの
はげしい求道者的な精神、また道への献身は、どこから生まれてき
たものであろう。(中略)そこには理想に生きるものの、かがやく
ような美しさがある。
絶対は対者を拒否する。しかし対者の拒否が単なる否定にとどまる
限り、それは限りなく対者を生みつづけるであろう。対者の否定と
は、対者を包みかつ超えるものでなくてはならぬ。
思想は本来、敗北から生まれてくるもののようである。
現実の上では、孔子はつねに敗北者であった。しかし現実の敗北者
となることによって、孔子はそのイデアに近づくことができたので
はないかと思う。社会的な成功は、一般にその可能性を限定し、と
きに拒否するものである。思想が本来、敗北者のものであるという
のはその意味である。
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●編集後記
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3月から区民農園を借りました。たった6畳ほどの小さな敷地ですが、
自ら食べるものを自ら作る。私の母はそういう人でしたが、その母
の真似事を一家で始めました。
昨日、初めてその畑地を耕しに行きました。まずは土づくりです。
鍬とスコップですっかり堅くなった地面を掘り起こしました。が、
これがなかなか大変。6畳なんて小さいな、と思っていたのですが、
すぐに息が上がってきます。こんな時こそ父親の威信を見せようと
頑張るのですが、ぜーぜーと肩で息をする有様で、全然、格好よく
ありません。
おかげで今朝は筋肉痛です。1日で筋肉痛が出てくるところを見ると
思ったほど肉体は老化していないのかもな、とちょっと嬉しくなり
ました。
さて、孔子と言えば、ソクラテス、キリスト、釈迦とあわせて、し
ばしば世界の四聖と言われますね。
ある日、はたと気づいたのですが、この4人は、誰も自分で著作を
残していませんね。弟子達が「子、曰く」の形でそのことばを残し
ている。聖典とされる『論語』『聖書』『ブッダのことば』は皆そ
ういう構造で書かれていますし、ソクラテスの思想も、弟子であっ
たプラトンが対話編の形で残したものです。
しかも、孔子と同じく、聖人達は生前は決して社会的には成功して
いません。ソクラテスとキリストは処刑をされています。釈迦は最
初は王族として豊かな人生を送りましたが、出家後は苦労続き。悟
りを開いた後はよくわかりませんが、栄華を極めたという人生でな
かったことは確かです。
もしかしたら、聖人達というのは、土づくりや種蒔きをすることに
その本質かあるのかもしれませんね。自分が開花することを願って
いるのは所詮小人で、自分が耕した土地、撒いた種で、人々が開花
することを願う。それが聖人を聖人たらしめたものなのかもしれま
せん。筋肉痛で重い腕をさすりつつ、ふとそんなことを考えました。