1937(昭和12)年—1938(昭和13)年の作。
久生十蘭の比較的初期の頃の、長編小説である。殺人事件の謎を追いかける点でミステリと言えるが、いわゆる本格推理小説の類とは全く違う。
何しろ、一作ごとに文体も手法もがらっと変えてしまう十蘭は、ピカソもストラヴィンスキーも目じゃないほどの「カメ
...続きを読むレオン」作家だ。本作では江戸の落語家のような、諧謔を交えた非常に闊達な口調で地の文が語られ、エンタメ小説としてぴちぴちとした生きの良い全体を形作っている。短時間の内に目まぐるしく事件は発展し、二転三転四転五転とどんでん返しが畳みかけられる。ドタバタコメディのようで、ふつうに面白いエンタメ小説だ。さすが十蘭という感じがする。行き当たりばったりに展開しているようにも見えるが、実はかなり緻密な計算に沿って書いているのではないかと思う。
本作で描き出される大きなゲシュタルトでは、東京という「魔都」においては平凡でちっぽけな一人の「死」の原因を追いかけていくと、それが実は国際上の大問題に関係していたり、思いがけない「裏側の作用」が明らかになっていく。些事と思われたものが全世界に作用していく巨大な作用因でありうるというこの知見は、現在における、経済のグローバル化や移動・情報交換の速度の圧倒的進化、あらゆるものが複雑に絡み合うこの見通しのきかない社会全体の複雑性そのものと、合致しているように思える。そう思ってみると、当時(戦争の機運がいよいよ高まっていた)の東京という都市をテーマとした本作の内容も、今日的になかなか興味深いものである。