「センター試験『倫理』で出題される問題をとっかかりとして、西洋哲学のあらましと大きな流れを解説した本」(p.3)。著者曰く、「大学生や社会人が哲学のあらましを知るうえで、高校倫理の内容は難易度としてちょうどいい塩梅」(p.259)らしく、センター試験の問題を解きながら、西洋思想史の流れを、哲学者の人物を中心に解説したもの。
おれは高校の時に、勝手に倫理を勉強して、センターの科目でも倫理を使って、自称倫理マスターみたいな感じになっていたので(今考えると結構痛いヤツだなあと思うけど、若さ故ということで…)、こういう本は今でも好き。でも社会人になってからは局所的に何かの思想や哲学の本を読んだとしても、高校倫理の内容を概観するようなことはそんなにやっていないので、なんかまたあの時に勉強した内容が色々蘇ってくる感じで、個人的には楽しかった。ベーコンの劇場のイドラ、とか、カントの定言命法とか、そうそうあったよなあ、みたいな。
あとは自分が勉強になったところのメモ。まず「プラトンの『イデア/現象』という区分は、『無限/有限』『魂(霊)/肉体』『理性/感覚』という区分に重ねられ、西洋思想の基本的な枠組みをつくりあげていくことになりました」(p.57)という部分。「二世界論」というらしいが、それこそソシュールの『ラング/パロール』とか、2つの世界を想定する、みたいな考え方って当たり前のようにたくさん出てくるけど、その源泉がプラトンなんだ、ということに納得した。「キリスト教神学の『神の国/地上の国』、カントの『物自体/現象』という区分もまた二世界論の延長にある考え方」(同)というのは分かりやすかった。そして、この上位の方の世界は「真理」という世界に通じると思うが、ニーチェは「さまざまな著作で『真理』という概念を攻撃し」(p.197)た、というのは分かりやすかった。ちなみにニーチェによれば、真理の世界の変遷は、「プラトンのイデア界→キリスト教の彼岸→カントの物自体→実証科学の真理」(同)となるらしい。高校の倫理って、少なくともおれの経験の中では、こういう、同じような概念が哲学者によってどう変遷していったか、っていう長い流れ、みたいなことってあんまり学習しない気がする。次にアリストテレスになると、プラトンよりちょっと難しい、という印象があるが、小阪修平という人の本の孫引きになるけど、「アリストテレスはプラトンのイデアから形相の概念を、イオニア自然学から質料の概念を継承し、この二つのアルケーの組み合せで、世界を考えた」(p.66)と考えると、確かにつながりがもっと分かりやすくなる。カントとかになると、あんまりよく分からずキーワードを暗記して終わった感じになってたけど、まず三つの著作「『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という三批判書は、それぞれ『私は何を知りうるか』『私は何をすべきか』『私は何を望んでよいか』という問いに対応しています。いわば、神ぬきの理性や知性の働きと限界を見極めようとした」(p.103)という大枠を掴むことが大事だと思った。あとベーコンの「イドラ」が4つあったのは覚えてたけど、4つが何だったかは忘れていた。そのうち「市場のイドラ」については、「コミュニケーションのなかで生じる言葉の誤用や不適切な使用がもたらす先入観です。流言やデマを信じたり、抽象的な概念をもてあそんだりする際に、市場のイドラは生じます」(p.113)ということだが、流言とデマは分かるけど、「抽象的な概念をもてあそぶ」ことも「市場のイドラ」というのは、ちょっと意外だった。カントやヘーゲル以上に、ライプニッツとかスピノザになるともっとお手上げで訳分からん思想だなあと思ってたけど、まずライプニッツの「モナド論」について、「いってみれば、神は超絶プログラマーです。個々のモナドには、世界が最善となるようなプログラムがあらかじめ書き込まれている。世界はあらかじめ予定調和になるようにできている」(p.138)ということらしい。次に観念論の学習の次に経験論をやったら分かりやすい、単純、って思うけど、バークリーとかヒュームになったらまたよく分からなくなる。けどこれは「経験論は、その言葉から感じるニュアンスに反して、純度が高まるほど、観念論的になっていきます。経験を知識の基盤とする以上、事物が客観的に実在することを論証できないから」(p.148)というのは納得。確かに理屈がこねくりまわされている感がすごい。あと道徳論の「理性は情念の奴隷である」はヒュームの言葉らしい。「ヒトは結局感情で動く」とおれは常々思っているが、それってここに遡るのかなあと思ったり。あとはマルクスの話になるが、「マルクスは、精神が成長するから物質的に豊かになるのではなく、物質的な生活や条件の変化が、精神的な営みの変化も生み出すと考えた」(p.187)ということが、なんとなく最近読んだ『体育ぎらい』という新書で書いてあった、身体によって世界の見え方が変わる、という発想と似ている?と思った。何ができる体か(物質的な世界や条件)、ということになるのではないか、と思ったり。そのあとのニーチェの思想の、「身体こそがより根源的な『大いなる理性』として、精神や感覚を通じて自我(自己意識)を支配する」(p.206)というのも、身体が世界の見方を変える、という考えに似ていると思うのだけど…。そしていよいよ最後い実存主義、ハイデガーやサルトルになっていくと、高校の時も思ったけど、やっぱりカッコイイな、と思ってしまう。なんか生き方の話、っていうのは認識論とかよりも頭に入ってきやすい、というか。ハイデガーは、「過去を引き受けたうえで、将来の自分の可能性を選ぶ取っていく本来的な時間性に対して、ダス・マンは、のっぺりとした単調な時間性のなかに安住してしまっている」(p.224)みたいな話は、高校の時もおーって思った気がする。そしてデンマークの哲学者、『死に至る病』のキルケゴールの話(キルケゴールの方がハイデガーより前だけど)になるが、「キルケゴール自身がこの死に至る病に冒されていた人でした。彼は、父の秘密や自身の結婚破棄などを通じて、つねに深い罪の意識にとらわれ、絶望の真っ只中にありました。」(p233)ということだそうだけど、父の秘密って何??と思って調べたら、母をレイプした、みたいなことだそうだ。
ということで、西洋思想史が手軽に復習できる感じも良かったし、できるだけ平易なことばで説明しようとする感じもよく、時々出てくるイラストも分かりやすかった。東洋思想編、現代思想編、というのがあるようなので、ぜひそちらに進んでみたい。巻末にブックガイドがあって興味をそそられるし、この本が十分橋渡しの役目を果たしているように思う。同時に、やっぱりこれくらい本読まないと思想史って語れないのか、と思った。(24/09/16)