落合恵子のレビュー一覧
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元気なほうのわたし、
いつものわたしこそ、
無理をして作っている、
わたしなのかもしれない。
水底に落ちたわたしも、
そこから浮上するわたしも、
元気なわたしも、すべてわたしだ、
と最近は考えるようにしている。
(落合恵子/作家
『自分を抱きしめてあげたい日に』より)
* * *
いつも元気でいたいけど
へこんでしまうこともある
いつも笑顔でいたいけど
気難しい顔のときもある
いつも自分らしくいたいけど
肩に力がはいることもある
へこんでいる わたし
気難しい わたし
肩に力がはいる わたし
それは きっと
がんばっている証拠
がんばっているから
傷つくし 考えすぎるし
力がはいってしまう……
どれも大切なわたしだから
優しく抱きしめて
受け入れていきたいな -
Posted by ブクログ
落合恵子さんは様々な視点から、意図せずに社会の中心からはず
れ、周辺から声なき声を上げいる人々を支援し続けているのだと
思う。勝ち組、強者、自己責任などが声高に叫ばれていた時代に
も、常にマイノリティーを声を代弁してきた。
本書の全体に多くの分野で声を上げてきた方たちの生き方、考え
方を伝えています。詩、歌、著作の紹介も多く取り上げられ、主
流ではないかも知れないが、確固たる意思を持って、静かに力強
く生きてきた方たちの声が聞こえてきます。
エミリ・ディキンソンの詩の一文が紹介されていました。
人のこころがこわれるのをとめられるのなら
"私が生きることは無駄ではない"
ひとつのいのちのうずきを軽くできるなら
ひとつのいたみを鎮められるなら
"I shall not live in vain"
平凡な人生ではあるが、このように感じられる瞬間があるのなら
それは日々賞賛を追い求める暮らしよりも、どんなに尊いことか
と思います。 -
Posted by ブクログ
自伝?と表現している人もいるが、執筆時期と著者の年齢を照らし合わせると関連はあるかもと思った。冬子が母親、友人、自分の3点から老いと死を見つめている。
認知症を患う母親の介護から看取りまでが前半、後半は友達を見送りながら自己の老いをしっかりと受け入れていく様が描かれている。前半部分は母親の介護を通して冬子自身が制御しようとしている心の叫びみたいなものを感じて少し気持ちがざわついた。それに相対するように後半は冬子の落ち着いた心の語りに聞こえた。
やはり母親は特別だし、自分のことではないからこそ自分にはどうにもできないもどかしさを受け入れるための葛藤に苦しんでいるように見えた。母親を看取った後に冬子も歳を重ねていくことで、自分の老いについてはむしろ自分のことだけを抱えればよく、気持ちはむしろ気楽に感じているようにも感じた。友人の看取りについては、冬子も年が近い分、母親に対するものとは別の思いで、少し冷静に受け止められていたのではないか。
それにしても最後の最後で友人とのお別れが多すぎ…詰め込みすぎではないかとも感じた。
最後、冬子が涙をこぼしたのは悲しみなのか、私にはなぜか喜びのようにも感じた。
ぱっと面白かったわけではないが、妙に印象に残るラストだった。 -
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子どもが小さかった頃、お世話になったクレヨンハウス。
最近またご縁が出来て、本を購入するようになった。
懐かしくて、若い頃夢中になって読んだ落合さんの本を
再び手に取ってみた。
この本は落合さんにとっても21年振りの小説らしい。
あの頃はわからなかったことが、20年以上たってようやくわかるようになってきた気がする。
ずっと子どもの頃から落合さんが社会に対して感じていた疑問や違和感は、
令和の世の中になっても、ちっとも解消していないんだろうなぁ。
体験者にしか書けないであろう認知症介護のリアルな姿や、人生の終い方について・・・
やっぱり私にとって落合さんの本は、いつも人生の先を行く素敵なお手本だと改めて感じた。 -
Posted by ブクログ
毎月届くクレヨンハウス通信の「クレヨンハウス日記」を楽しみにしているので、落合さんの著作を初めて読んでみた。
70歳を迎え、人生の終焉を見据えて自分の人生にどう決着をつけてゆくか、大きく5項目に分けて語られている。
・仕事の始末
・人間関係の始末
・暮らしの始末
・社会の始末
・わたしの始末
他人に寄りかからずともStand Aloneのスタンスで生きていけるよう、持ちすぎず抱え込みすぎない工夫、意識をする。
「思想も姿勢も、自分で立っていないと他人ともつながれない。」
反原発の意見をはっきりと掲げている方でいながら
始末は永遠のテーマであり、完結出来ないまま人生を終えるであろうという諦め、緩さを自分に許すところが逆に潔さを感じて好ましく感じた。
<心に響いたフレーズ>
会社や誰かからの必要ではなく、生きていく為に「私が私を必要」というのが自分にとって最も確かな必要であり、必然であるのだ。 -
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落合恵子の自伝小説。
若い人の恋の情熱ってすごいな、とつくづく思った。
若い人というのは落合恵子の母なのだが。 20代でかなり年上の妻子持ちの男と恋愛をし、妊娠して、一人で産み育てることを決意する。1945年の日本は、今よりもずっと婚外子に厳しく、産んだ女はもとより、親を選んで産まれた訳ではない子どもでもひどい差別を受けるのは当然という時代だった。それをわかっていながら産んだのは、相手の男を本当に愛していたからだと、娘に話す。経済的に困窮し、精神を病みながらも、男を恨んだり、憎んだりはしない。(したかもしれないが、誰にも言わなかった。)
その男が素晴らしい男だったから、というより、激しい恋愛をし、別れざるを得なかったというドラマチックな経験が、その思いを支えていたのではないかと、意地の悪い私はおもうのである。
もし、妻と別れて結婚していたら大した男じゃないと気付いたかもしれない。妻子がありながら、年取った立派な社会人でありながら若い女と恋愛する男の身勝手さと浅はかさに気付いたかもしれない。
でも、それがなかったために、死ぬまで素晴らしい男であったと慕いながら死ねた。
また、娘がそれを信じて、共感してくれたことは、どんなに救いになったことだろう。
もしかして、そんな母を疑問に思い、母と離れて生きるようになっていたら、落合さんとお母さんは全く違う人生を歩んだかもしれない。しかし、母と実際に送った人生が本当にいいものであったと落合さんが思っているのだから、これでいいのだろう。
お母さんは、恋に生き、娘に愛された。それが得られない人生が世の中にはたくさんある。その点では幸せだったと思う。
しかし、個人的には、母を批判したり否定したりする水村美苗の『母の遺産』や、その母の『高台にある家』の方がずっとしっくり来るのである。
もちろん、こちらがしっくりくる人もたくさんいるとは思うが。