小泉義之のレビュー一覧
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BOOKOFF響ヶ丘店にて購入。
もう30年前、大学の教養課程の哲学の講義がレヴィナスだった。高校で倫理の授業がない課程だったので哲学については全く何も知らなかったから、レヴィナスはおろか、カントやニーチェさえ知らなかった。
案の定、哲学の成績はD(!)だったが今回この本を見つけたので、昔を思い出して買ってみた。
やはり哲学の議論というのは「言質を弄する」という感じで苦手だが、帯にあった「人は生まれて生んで死んでいく」という言葉が一番端的にこの解説本のまとめになっているのではないかと思った。
だとすると、「産む性」にあって産まなかった私のような人は生きる意味がないのか?という残念な気持ち -
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度肝を抜かれた。前半部が最高にいい。今年ベスト。「なんでいきるのか」「幸福になるために生きている」……これは非常に凡庸な問い(と答え)だ。
そこからの、小泉=レヴィナスのよる、問題構造の立て直し方がすごい。
目的を問わなくても、人は生きていける。息を吸って、食物を食べて、風景を眺めること…、我々はそれらをすでに享受してしまっている! 享受し続けている時点で、生きているという時点で、我々はもうすでに幸せなのだ。
……それでも、享受しているはずなのに、元気じゃないときがあるよね、特に理由もなく。
→→それは、「実存そのもの」に疲れてしまっているのだ。生きて、存在することへの倦怠。
そしてそこか -
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いつもドゥルーズの求めた「新しい人間」は仏陀みたない存在なのではないか、と思うわけだけど、他方で、ドゥルーズは第一の自然としての欲望を捨て去った先に「新しい人間」を見ているわけでもなさそうなので、あらゆる欲望(煩悩)を消滅させる仏陀のイメージとは、やはり、違うのかなぁ。でも、いつもドゥルーズの「新しい人間」の生きる所の雰囲気が、悟りの境地を思うときの静謐で何もないような空虚な所に思えてしまう。そして、それはかなり怖いイメージでもある。ただし、ドゥルーズが考え抜いても、答えを出せない来るべき新しい人間、来るべき民衆への渇望を共有したいと思ってしまう。別のしかたでの人間があって欲しいと思う。小泉
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構成は
・永井ー小泉の対談
・永井論考
・小泉論考
<文庫版書き下ろし>
・永井論考
・小泉論考
対談は恐ろしく噛み合ってない。
それは永井先生も論考内で「この対談に際して小泉氏は私の以前の著作をずいぶん勉強してこられたようで、氏の発言には私の用語がちりばめられている。しかし、その用法が私の理解と食い違っているため、逆に理解しにくかった。」(p82)と言っていたり、「小泉氏の発言の意味がわからなかった」といった趣旨の発言をかなりの回数使っているところからも伺える。(逆に小泉先生はそのような類の発言はしていなかったように思う)
ただ、この噛み合わなさ、対談後の論考の議題設定のあまりの違いが -
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『ヨーロッパ思想入門』で震えた「他者」の概念にも触れられているが、本書の肝は「繁殖」の概念。適所で例示を示し、レヴィナス思想の核心に迫る試み。
気になった記述。
・働きながら生きている。ということは、なにものかを享受して生きていることになる。
・人生は無条件に幸福であり、「人生は人生への愛である」。
・「享受において、私は絶対的に私のために存在する。私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるということではない。私は独りであるが、孤独であるというとではない。私は無垢な独りのエゴイストである。」
・自殺に定位して死を考えたところで、生まれて老いて死んでゆく肉体の次元には決して届かないか -
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[ 内容 ]
真の人生は、どんな人生なのか。
人間は、生まれて、生んで、死んでゆく。
この事実をどう受け止めるか。
レヴィナスと共に、人生の意味と人生の目的について根底から考え直す。
[ 目次 ]
はじめに 生きていてよいのか
第1章 自分のために生きる(こんなもののために生まれてきたんじゃない;No Music,No Life ほか)
第2章 他者のために生きる(倫理の始まり;他者の顔 ほか)
第3章 来るべき他者のために(とはいえ、私は死ぬ;存在と無、生成と消滅、生と死 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ -
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ドゥルーズの単著としては、彼の主著と呼ぶこともできる『差異と反復』の議論を紹介しつつ、ドゥルーズの思想を新しい「生命論」に根ざした自然哲学として読み解く試みがなされています。
普遍数学や分子生物学、スピノザ、ニーチェ、フーコーといった思想家たちや、画家のフランシス・ベーコンなどにかんする章がならんでいますが、基本的には著者の解釈する生命論的な世界像にもとづく議論がくり返し語られているという印象です。ただし著者の考える生命論は、一元論的な生命への還帰を説くものではなく、微分にかんするドゥルーズの議論を踏まえて、世界のうちに身を置くわれわれが、無数の差異を認めつつも、その差異を肯定することのでき -
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永井の『これがニーチェだ』(講談社現代新書)の刊行を受けておこなわれた、当時話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問をめぐる対談と、永井と小泉それぞれの論考が収録されています。
個人的には、小泉の問題提起の鋭さに感銘を受けました。対談のなかで「生活」と「生」という対概念が提出されていますが、永井は大江健三郎のような世間的な意味での道徳的言説を「生活」に、ニーチェの権力意志を「生」に割り振っています。これに対して小泉は、永井のそうした立場が、「生活」と「生」の境界線を引きつづけるという振る舞いを通じてのみ担保されるほかないということへの問題提起をおこなっています。これはいわばハ -
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[ 内容 ]
病み衰えて末期の状態にある人は死ぬほかない―。
死の哲学はそう考える。
しかし死にゆく人にもその人固有の生命がある。
死の哲学はそれを見ようとせず、生と死の二者択一を言い立てる。
ソクラテスもハイデッガーもレヴィナスも、この哲学の系譜にある。
そのような二者択一に抗すること。
死へ向かう病人の生を肯定し擁護すること。
本書はプラトン、パスカル、デリダ、フーコーといった、肉体的な生存の次元を肯定し擁護する哲学の系譜を取り出し、死の哲学から病いの哲学への転換を企てる、比類なき書である。
[ 目次 ]
1 プラトンと尊厳死―プラトン『パイドン』
2 ハイデッガーと末期状態―ハイデッガ -
Posted by ブクログ
タイトルに対する答えは、「ない」。これが2人の意見である。本書を読んでいると、この問いを結論づけようとすること自体がナンセンスだと考えさせられる。重要なのは、その答えを模索する過程だというのが、著者両氏の主張の唯一の共通点ではないだろうか。本書の内容に共感したり疑問を持ったり考えていくことが意味を持つ。それだけ、「生死」に関わる問いは、1つの答えを求めてはいけない慎重に扱うべき問題だ。2人の激論がその危険性を物語っている。本書で興味深いのは、著者両氏が哲学者であるという点。同じ哲学者でも主題へのアプローチがまったく異なる。そして、決して熱くないトーンで冷静に「論理の抜け」を指摘する。内容がシリ