伊藤之雄のレビュー一覧

  • 元老―近代日本の真の指導者たち

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     歴史の教科書では「護憲運動を阻害した老害」とのイメージしかわかないインフォーマルな集団「元老」についての解説本。明治~昭和初期において政界に影響力を及ぼしたこの集団について細かい注釈を加えながら丁寧に説明している。

     この本で特に惹かれるのは元老内での人間模様を細かく描写していることだろう。一般的には元老というと大正期の「護憲運動の敵」としての山県有朋、もしくは昭和初期の「首班指名のご意見番」としての西園寺公望のイメージしかないだろう。しかしこの本では元老の形成過程での伊藤博文・山県・黒田清隆の権力争いや明治天皇の政治的志向、大正期の桂太郎・大隈重信と元老の一部との対立、昭和期に入ってなぜ西園寺が元老を補充せず終焉に導いたかなど、元老を取り巻く人間関係はさながら大河ドラマを見ているようで面白い。

     更には元老が必ずしも世間から「絶対悪」とはみなされていなかったことも興味深い。当時の新聞には必要悪として存続を認めるばかりでなく、元老の指導力の発揮すら求めた時期がある。また平民宰相と名高い原敬も山県との連携を密に保ち、山県が宮中某重大事件で窮地に追い込まれた時には助け舟を出すなど、世間や時の政権が受容する立場にあったこともあるという点は新しい視点だった。

     理想を言えば一部の人間に権力が集中しない完全な民主主義こそが理想なのだろう。しかし世の中は(この現代であっても)そう理想論通りにはいかない。その中でどのような体制が国家を維持するための最適解なのか。この本は元老という制度を通してこの時代が出した「解」を教えてくれたように感じた。

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    2024年02月12日
  • 元老―近代日本の真の指導者たち

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    元老と呼ばれる戦前日本の政治指導者たちを肯定的に捉え直した一冊

    要は、彼らは明治維新を経て近代立憲制を日本に定着させてゆく黎明期において、大日本帝国憲法のシステム運用上の機能不全を回避すべくインフォーマルに立ち回り、政党内閣誕生で結実する立憲国家への道を舗装していったという。

    具体的には、総選挙で民党が影響力を持つ過程で政党政治を求める世論の高まりを理解しつつも、政権運営能力のない政党に国家運営を任せることの懸念から、政党側に実務運営ノウハウをゆっくりと身につけさせる「自転車の補助輪」の役割を果たした。(例えば、第1次大隈内閣、立憲政友会の創設等)

    確かに上からの改革でしかないという批判も当たるが、当時の日本を取り巻く国際状況や国内状況を踏まえると、形式上の制度が機能するまでの間は中長期的ビジョンを持った非公式のエリートが微調整をする必要性があったのかもしれない。

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    2023年11月25日
  • 大隈重信(下) 「巨人」が築いたもの

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    明治維新から、漸進的に民主主義が進んできた中で、藩閥と民権の軸の民権側、政党政治側の引力になってきたのが大隈なのだろう。

    幕末、維新、大正と活躍した政治家は数少なく、大隈の歴史を追うことで、特に大正までの政治、国際情勢の流れを理解することができる。
    それに匹敵するのは山県有朋だけだろう。

    大隈の先見性はマスコミ(新聞)をうまく味方につけたこと。それは、今尚、早稲田出身者が、マスコミで活躍していることと繋がってくる。

    以下抜粋~
    ・大隈は世界平和論の中で「東西文明の調和」を論じたように、大隈の根本には、異質の集団・精神や思想のいずれか一方が他を圧倒するのでなく、調和させながらより高いレベルに改革していくのが最も望ましいとの考え方があった。

    ・福沢と並んで大隈が極めて高く評価したのが、大久保利通である。
    正義を大事にする大久保の行動は、大隈が国民道徳の標準として「正義人道」を旨とする武士道を提唱したことと合致している。
    また大隈は、大久保は青年時代に幕閣の阿部正弘や水戸斉昭の政治のやり方を見て「権略」も学んだに違いないと見る。「偉人」たる政治家は、「権略」を使いこなせないといけない、という自分の価値観を反映している。

    ・大隈首相がイギリス風の政党政治をめざすのであれば、文官の首相(大隈)を中心とした内閣が、陸相、海相を通じて陸軍・海軍予算や海外派兵時の作戦の大枠まで事実上統制しなければならなかった。
    大日本帝国憲法では、統帥権が独立していたので、そのようなことはできなかったと一般には理解されている。
    しかし、数年のちになるが、1920年前後の原敬は自らの内閣でそれを達成している。

    ・大隈は公平な立場で、イギリス風の二大政党制のように政権交代のある政党政治の発展を願い、それに近づいたことを喜んだのであった。大隈が、原が無爵で組閣したことを評価していることから、華族制度に価値をおいていないことが分かる。

    ・国民葬に参列した人々の心の中にあった国内政治における大隈のイメージは、片脚を失ったにもかかわらず、超人的な元気さで活躍し、日本に政党政治を育成するのに大きな力があった人物、というものであろう。また、藩閥政治・官僚政治による腐敗をなくすように尽力し、大戦中の日本を導き好景気になるきっかけを作ってくれた大物政治家というものでもあっただろう。
    また、もう一つのイメージは、庶民とは別次元の生活をしながらも、華族や官僚の臭味がなく、庶民の生活を充分に理解し、それを向上させるために尽力したというものであろう。一般の国民にも親しく語りかけて交友を求めてきたことも、国民に強い印象を残したはずである。

    ・イギリス風の政党政治の実現、政治の腐敗をなくし、小さな政府による税負担の軽減、中国を近代化し秩序ある自由市場として貿易や経済進出で日本の発展を図るなど、大隈の政策は一貫している。

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    2020年09月13日
  • 大隈重信(上) 「巨人」が夢見たもの

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    著者によれば、大隈重信に関する書物は多々あるものの、その実像、評価がはっきりしないとする。
    ひとつの理由として、大隈が日記や直筆の手紙を残していないこともあるらしい。
    本書では、大隈の実像をつかむため、その全生涯について、出来る限りの資料を読んだ上で、特定な分野や時期に限定せずに大隈を検討し、大隈が近代日本と国民にとって、どのような存在であったかを著している。
    現在では、早稲田大学創設者としてのイメージが強いのだろうが、本著を読むことで非藩閥出身者として首相も経験し、近代国家創設を先導してきた人柄、思想に触れることができる。

    ・唯一西洋に開かれた重要な港である長崎を警備する役目は、佐賀藩と福岡藩に任され、両藩は一年交代で任務に当った。祖父、父の仕事は、長崎を防備する大砲の責任者であった。

    ・大隈は、好んで自分より年長の友人を選んだので、友人には5、6歳から10歳以上の年長者も少なくなかった。

    ・当時の常識では、武士の家に生まれた者が商人と提携を考えるのは「異常の事」であり、批判されるべきことだったが、商業の初歩を理解しながら、大隈は、維新前に商人に対する偏見を捨てていった。

    ・大隈と井上・伊藤の交流は、幕末に始まっていたらしい。坂本龍馬らとも交遊し、一緒に長崎の丸山花柳界に遊んだこともあるという。

    ・パークスの相手は大隈しかいない。

    ・東京専門学校の学生に、イギリスを中心とした政治・法律の基本を身に付けさせ、日本を藩閥政治から脱却させる自主・独立の精神を育成する。

    ・(大隈が漸進主義だということに関して)大隈は、維新以来の日本での秩序破壊は、フランス革命によるものよりも甚だしいと見て、このまま経過すればその害はフランス革命以上になる、とも述べている。

    ・大隈は、国は農業から工業、商業へと発展していくととらえ、商業が発達した国が最も発展した国であるとみる。商業についての大隈の主張は国内での取引もさることながら、海外との取引、貿易に日本の発展の可能性が握られているとみる。このため国民、とりわけ実業家(商工業者・金融業者)が自立した精神と、国際的な視野を持ち、生産と取引に力を発揮し、特にイギリスのように貿易で利益を上げて富を蓄積することを理想とした。

    ・列強に対抗するためにも、さらなる教育の充実を主張した。日本の学者は発明を欧米に委ねて、その成果を模倣するという姿勢でいるが、もっと発奮すべきであると批判する。

    ・日本の商業・貿易の発展のためには日本の商人の道徳を高めるのが必要と見る。

    ・大隈が貿易の拡大を平和と関連づけてとらえた所は新しく、その後も同様を主張をしていく。また大隈は植民地拡大ではなく、自由貿易を中心とした通商国家を理想とすることが確認できる。

    ・幕末には関東は水戸藩、関西は佐賀藩が人物養成の中心で各藩より留学生がたくさんあった。

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    2020年08月29日
  • 伊藤博文 近代日本を創った男

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    伊藤博文及び明治の近代国家創設を知るための必読書だと思う。当時の書簡の遣り取りを掘り起こし、事実関係を丁寧に整理しており、網羅性の観点からも秀逸。また、全般的に分かりやすい。
    特に伊藤博文のネガティブな評価を覆す思いが意図としてあり、彼の真意を理解することで、改めて彼の功績を評価することができる。

    以下引用~
    ・こうして木戸は、大蔵省・民部省という最重要官庁の次官から局長にあたる中枢ポストに、大隈・伊藤・井上馨という三人の腹心を送り込んだ。

    ・(大蔵省時代)渡米中の伊藤大蔵少輔(次官クラス)等は政府に条約改正の準備を強く促していた。しかし、日本は欧米のような法律も制定しておらず、新しい有利な条約を結べる状況にはなかった。

    ・伊藤は君主に主権があり、それが立法部・行政部・司法部に委任される形になるが、君主はみだりに委任を取り消せない、と憲法で規定し、君主権を制約する憲法を作った、と主張している。

    ・(伊藤が西郷従道を参議に推挙するに関して)伊藤は、実力者の岩倉右大臣と連携を保ち、長州の盟友井上馨や山県ら長州派を固め、西郷従道や松方を通じて薩摩派にも影響を及ぼせるようになったのだった。

    ・シュタインの説明は、君主権は神から授かったものであり、君主は専制的に行動してもよいという考え方を否定するためにできた考え方で、当時のヨーロッパの君主制についての最先端の学説、君主機関説であった。伊藤はシュタインとの会談で、その趣旨を理解できたのである。これで、伝統的に天皇専制(天皇親政)が行われていない日本に、その実態にあった憲法を作るための糸口がみえてくた、と伊藤は喜んだのである。

    ・伊藤がシュタインから最も影響を受けたその教えは、(1)行政権が優位であるべきだが、行政権・君主権・議会の権限の三権が緊張関係にあることが望ましい(君主権と言えども制限されるべき)、(2)憲法はその国の固有の歴史を反映したものであるべきだ、(3)歴史は変化するので、憲法の運用や制度も変化していくことが自然であること、等である。

    ・天津条約の締結の交渉に関して、清国行の際に、天津領事であった29歳の原敬を見出したことも、大きな副産物だった。

    ・伊藤が憲法政治を定着させることが可能であったのは、(1)明治天皇の信頼を得、薩摩系の有力者とすら協調できる明朗な人柄、(2)英語力や中国・日本の古典などに裏付けられた法律や経済・歴史などに対する深い洞察力と西欧の規範への理解、(3)現実主義の立場から内政や外政を処理する実務能力と、「剛凌強直」な生活による政治への決断力、などがあったからだった。

    ・(伊藤体制の凋落)日清戦争後に、山県有朋を盟主とする山県系官僚閥が形成されたことである。
    山県の狙いは、専門家集団としての陸軍が、なるべく政府から干渉されない形で自立することだった。

    ・伊藤は、薩長や藩閥になるべくこだわらない形で、新しい近代国家を作ろうと尽力した。1893年、第二次内閣の時に文官任用令と文官試験規則を公布したのは、それを象徴している。

    ・伊藤と明治天皇がいなくなったことで、二人が作った明治憲法の改正を推進する人物がいなくなってしまった。また、日清・日露の両戦争に勝ったため、天皇の死後、偉大な明治天皇が発布した憲法としての権威がつきすぎ、改正を発想することすら政治的に危険になった。

    ・イギリスにも2ヶ月も滞在して調査したように、伊藤は議会の権限の弱いドイツモデルに固執していたわけではなく、議会の権限が強いイギリスモデルも将来の視野に入れていた。

    伊藤のリーダーとしての資質は、(1)しっかりとした学識にもとづき、長期的な展望を持っており、(2)また当時の日本が置かれていた現実の厳しさもよくわかっていた、(3)それにもかかわらず、現状の厳しさに絶望しない楽天的な性格を持っていて、強い決意で、しかも現実的な手法で問題を一歩一歩解決していったこと、にあるといえよう。このような伊藤博文と日本の近代の歩みの中に、厳しい状況にある現代の日本を改革していくにあたって、政治家などのリーダーや私たちの生き方がどうあるべきか、というヒントが見出せるように思えてならない。

    奇妙なことであるが、伊藤の伝記を書く作業を進める中で、安重根の人柄を知るにつれ、立場こそ異なるものの、正義感や意志の強さ等、伊藤のそれと似ている面が多いことがわかってきた。そのため、伊藤の暗殺者である安重根に、信念に生きた人間として、伊藤と共通する親しみすら感じる。本書が、伊藤博文や日本の近代化を理解するためのみならず、日韓や東アジアの相互理解と永続する連携のための一助になれば、幸いである。

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    2020年07月23日
  • 大隈重信(下) 「巨人」が築いたもの

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    下巻は隈板内閣(第1次大隈内閣)が倒れてから没するまで、つまり1898年から1922年までの四半世紀が描かれる。大隈の年齢で言えば、ちょうど還暦から86歳で亡くなるまでの時期である。

    この時期の大隈は在野で早大総長として東西文明の「調和」論を展開しつつ、他方、忍耐強く2度目の政権担当を狙っていた。そして、76歳になった1914年の第2次大隈内閣を組織し、第1次世界大戦という難局を乗り切った。

    もちろん、対中国政策では「対華二十一ヶ条要求」という外交上の失敗もあり大隈の政治責任もあったが、政党政治の確立という大目標の中で加藤高明を重用し続けなければならなかった事情もあった。

    著者は第17章で大隈の政治思想を理解する上で重要な「世界平和論」の骨格を次のようにまとめている。

    「大隈の世界平和論は、約10年後にウィルソン米大統領によって展開される国際連盟構想などに比べると見劣りする。とはいえ、平和のために各国や地域が「文明」化して議会のある民主化した立憲国家となること、商業・貿易が発達して経済的に豊かになることが必要との考え方は、現在にも通用するものである。」(p.124)

    実際、大隈は立憲改進党からスタートとしつつ、昭和の二大政党制(政友会と民政党)につながる流れを断ち切らずに粘り強く政治をおこなっていったのである。

    また大隈は維新創業の第一世代を受け継ぐ第二世代を「第二国民」と呼んで教育にも力を入れた(p.130)。その努力は早稲田大学を通じて達成されていったのだろうが、自分の政治的な後継者を育てるという意味ではなかなか難しかったのだろう。本書の全編を通じてそれは感じ取られるところである。

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    2020年06月30日
  • 大隈重信(上) 「巨人」が夢見たもの

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    本書「はしがき」は「日本近代史上これほど有名で疑問に満ちた人物はいない。大隈を見直すことは、政治とは、政治家とはどうあるべきかを考える素材となり、また大隈に熱狂した人々を通し、明治維新から大正期までの日本の歩みを考え直す糸口にもなるであろう」(ivページ)と述べる。

    上巻は大隈の少年期から隈板内閣期までのおよそ60年が描かれる。下巻はその後ということになるので、大隈が83歳で亡くなるまでの23年が描かれることになる。

    経済史の側面から見れば、財政家大隈の描かれ方が気になるところであるが、著者は政治家・大隈を多面的な角度から綿密な資料考証に基づいて描く。とくに論争となっている点、なってきた点に関しては(*)で長めの注書きが付されており、勉強になった。たとえばp.173では井上財政と大隈財政を極端に緊縮から積極への転換という対照で捉えることは大隈理解を妨げるであろうなどという指摘は短いながらも重要な指摘であろう。

    大隈の初期の経済に関する考え方は、基本的に政府による急速な近代化路線であった。それが転換するのは1875年1月の建議(「収入支出の源流を清まし理財会計の根本を立つるの議」)からであった。そこでは在野の創意工夫を活かし自発的な近代化を進めるべきであるという意見が述べられる(p.225-9)。通貨政策をおこなって経済の基盤整備はおこなうが、経済活動そのものへの介入は極力抑えて民間の自由におこなわせるという考え方は、福沢諭吉の考え方とも共鳴した(p.256)。ただし、大隈は福沢に出会う前から福沢の経済に関する考え方を読んでいた形跡はないので、大隈の経済についての考え方がどこから得られたものかはよくわからない。

    いずれにせよ、1880年の官業払い下げに関する建議および5000万円外債募集の建議までに大隈は生涯持ち続けることになる「自由な中国市場」を前提とした自由主義的な経済観を持ち続けた(p.260-1)。

    「明治14年の政変」後、大隈は立憲改進党を組織していく。改進党の主義・綱領のなかにも大隈の経済観ははっきりと現れる。著者はここで国権と民権の相違が従来の政治史研究では過度に強調され、対立したものとして捉えられているが、それは正しくないということをきっちりと指摘しており、共感するところである(p.305)。

    在野の大隈は日清戦争前までには経済政策を含む政策体系を深めていった。もちろん理想とする英国流議会政治実現のためである。また松方デフレ後の国内産業の進展状況もあった。その政策体系を著者は「柔軟な「小さな政府」論」であるという(p.384-9)。これは渋沢や中野武営などの考え方と通じるものがあった(p.444)。また日清戦後の台湾統治のあり方についての大隈の考え方も総督府方式を批判して、イギリスによるアイルランド統治のあり方を範としていたという点も興味深いものがある。

    経済政策面を中心にやや長く書いたが、もちろん本書の魅力は大隈の経済政策面の分析だけではない。しかし、こうした経済政策の一貫性、魅力は政治家大隈のヴィジョンを支え続け、財政通の大隈という立ち位置が固められていく一因となったことは間違いないであろう。

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    2020年06月27日
  • 大隈重信(下) 「巨人」が築いたもの

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    下巻は忍耐編、老熟編として各章が配されるが、20世紀に入っての諸情勢下での動き、政党政治の進展の中での動き、2回目の首相を務めた経過、最晩年までである。
    下巻は各方面に影響力を行使するようになって、巧みなイメージ戦略のようなことを展開する様子が綴られ、加藤高明を“後継者”と期待しながら、当時としては「かなり高齢」ということになる76歳から78歳で2回目となった首相を務めた経過が詳しく述べられる。そして色々な情勢の中での最晩年の様子である。「早稲田騒動」と呼ばれた、自らが起こした大学での混乱に関しても詳しく綴られている。
    大隈重信は“本流”とか“主流”というようには看做され悪い位置に在って諸々の活動に携わっていたという場面が多かったのかもしれない。それでも、襲撃によって負った傷と障碍を有しながらも「明るく元気な指導者」として相当な高齢まで色々な活動を続けて来た人物である。
    時代なりの難しさが続いた中で「調和」というようなことを訴え続けたという大隈重信だが…現在もまた時代なりの難しさが続く状況であろうから、こういう「もう直ぐ逝去から100年」という“大物”の生涯に触れると、何か気付くことが在るのかもしれない。お勧めしたい本書である…

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    2019年08月13日
  • 大隈重信(上) 「巨人」が夢見たもの

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    上巻は青春編、飛躍編、希望編、力闘編として各章が配されるが、生い立ちから、初めて首相を務めた「隈板内閣」までである。
    上巻では佐賀の鍋島家中に在った武家に生まれ、そこで育って好奇心旺盛で豪胆な若者になり、明治初期には外国の外交官を含む各方面との交渉で活躍する経過等が綴られている。そして士族反乱や議会開設を巡る色々な対立で下野し、学校を起こして行く経過や、政治の世界に復して初めての組閣に至るまでのことが在る。その中で、条約改正に携わっていた頃に爆弾による襲撃を受けて右足を失ってしまった一件に関しても詳しく綴られている。
    ハッキリ言って、大隈重信という人物の名に行き当って、少しなりとも関心を寄せるのなら、本書を紐解けばこの人物に関しては殆ど何でも判るという労作である。

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    2019年08月13日
  • 昭和天皇伝

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    確かな史料に基づいて書かれた、読みやすい昭和天皇の伝記。客観的な視点に立ち、昭和天皇の判断、行動、思いや考え方について、とてもよく研究されていると思う。昭和天皇を知る上で第一級の書籍であると思う。印象的な記述を記す。
    「現代の高みから、当時の世界でどこにも行われていなかった政治基準を設定して、旧憲法や戦前の体制を批判したところで、現代の私たちにとって意味をなさない」p26
    「(2.26事件について)武力を用いても速やかに鎮圧すべしという天皇の方針が、三日間も実行されなかったことを、もっと考慮すべきである」p253
    「元来陸軍のやり方はけしからん。柳条溝の場合といい、今回の廬溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。誠にけしからん話であると思う」p275
    「実に石油の禁輸は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖(ぎょうこう)に期しても、戦った方がよいという考えが決定的になったのは自然の勢いといわねばならぬ」p309
    「日本には憲法があって天皇は憲法の条規によって行動しなければならない。「憲法上明記してある国務大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙(ようかい)し干渉し、これを掣肘(せいちゅう)することは許されない」」p395
    「敗因について一言いわしてくれ。我が国人が、あまりに皇国を信じすぎて英米をあなどったことである。我が軍人は、精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである」p480
    「昭和天皇は靖国神社のA級戦犯合祀に批判的であり、靖国神社がそれを独断的に行ったことに不快感を抱いているのである」p532
    「即位後、昭和天皇が三つの重要事件(張作霖爆破事件、ロンドン軍縮会議、満州事変)の対応を誤り、威信を確立できなかった原因の一つは、天皇を輔弼する集団に経験豊かな有力政治家がおらず、牧野内大臣ら天皇を支えた宮中側近が、判断を誤ったことである」p548
    「確かに昭和天皇は、内閣と軍が上奏してきた政策でも自分の気に入らないものは拒否し、自分の意向に十分に応じない首相・閣僚に対しては拝謁を拒否する、などの行動をとることはできる。そうした場合、首相や関係閣僚、あるいは参謀総長・軍令部総長らは、辞表を提出するであろう。問題は、その後任を得られるかどうかである。後任を得られなければ、次の内閣を作ることができない。天皇は大きな窮地に立ち、屈辱的な形で屈服を強いられ、さらに威信がなくなる。(中略)立憲国家の枠内で、天皇の意向を国政に反映させるためには、明治天皇のように権威を確立し、その後も権力行使を抑制しつつ、必要な場合にはバランスのよい調停的な政治関与を続けなければならない」p550

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    2018年11月13日
  • 伊藤博文 近代日本を創った男

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    明治時代について現在が見渡すとき
    まず江戸からの維新の成功と
    第二次大戦に至ってしまった失敗との区切りがある
    日本の歴史に残る大宰相が政治活動をするのに意見の違う他者を斬る時代から現在への転換は
    成功であり
    現在の自分が歴史の現代に対して分けて見えるのが敗戦であるから

    もっとも江戸のまま第二次大戦に至るさまを思い描けないのと同じく
    負けていなかったため現在と歴史の区切りをつけられないようすを想像してみるのも難しい
    成功と失敗はなぜ生じたのか
    何が生じせしめたのか
    明治の歴史はどうであったのか
    例えば責任はだれにあるか
    普通選挙がなかったことを理由にわれわれでないと皆がいうのか
    お上のすることに理由はないのか
    ただ自らにかなうあたりしかありえないのか
    現実をいやいや見つめるならば
    日本にはどうやら明確に成功と失敗があるので
    その差を個々人の庶民信念としてあげつらわねばならない
    隣の国やその隣の国やその周囲の国や
    お偉方やその周囲やそこに利益を関する周りやそのあたりにいるわれわれも
    見て見ぬようではいられない
    ひとつひとつの行動を取り上げていってそこに良し悪しをつけていって
    それを歴史の成功と失敗に結び付けられるのか
    人間の知性が処置できる分を過ぎているように思えるけれども
    それが歴史に学ぶことでもある

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    2018年10月27日
  • 元老―近代日本の真の指導者たち

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    元老について辿るとそのまま日本の近代史になるんだな。元老というものに殊更興味がなかったとしても明治維新後にどのように日本の政治制度が整えられていったのかがよくわかるし、原敬なんかの政治手腕も凄いもんがあるなと改めて勉強になることが多かった。西園寺と昭和天皇と陸軍や右翼との政治的バトルのところは、著者の熱意も伝わってきて、それぞれの想いを考えたときになんだか胸が熱くなってしまった。

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    2017年10月21日
  • 元老―近代日本の真の指導者たち

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    元老が近代日本の外交、内政にどのような役割を果たしたのか、天皇との関係、そもそも元老とはどのような制度で誰が作り変えていったのか、制度の正当性はどのように確保されたのか、そして最後に一人元老となった西園寺死後、誰が首相を決めていったのか、について詳細かつ、わかりやすく解説している。

    日本のような後進国がいきなり議会制度を機能させることは難しく、その意味で元老というインフォーマルな制度が日本の民主制度発展にもった積極的な役割をもっと評価すべきであるという主張には大いに首肯できる。


    ところで、「あとがき」で慶應義塾大学の八代先生のお名前が登場してきて、ちょっとびっくり。私も2003年の在外研究時にはお世話になったので。著者の伊藤先生も2015年のオックスフォード滞在時にお世話になったのだとか。

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    2017年01月20日
  • 元老―近代日本の真の指導者たち

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    日本史選択であれば覚えているであろう戦前の「元老」。おそらく、主に一線を退いた政治家が裏で首相選定など重大な政務を牛耳ったというイメージが強いように思われる。(というか僕がそう)しかし、この本は元老の仕事をより広くとらえ、かつ元老の影響を重視することで、イメージの刷新を狙うものである。まず、こう指摘される。
    「近年まで、「元老」の用語を、藩閥有力政治家で第一線を退いても政治的影響力を及ぼす人々、と第一線を退くというニュアンスを込めて高校日本史教科書でも説明するのが普通であった。これは、元老とは「黒幕」という現代イメージを、歴史上の慣例的制度に遡らせて理解しようとしたものであり、ようやく修正された。」p71
    ここから、一般のイメージより大きな役割を果たした元老の実像が主要な政治史的事件に沿って展開される。そして、こうまとめる。
    「元老は、後継首相推薦やその他の重要問題で天皇を補佐することで、日本の国際協調と民主化・近代化を安定して進めていくことに、全体として寄与したと言える。…世界や東アジアの流れに対する長期的なヴィジョンを持った元老が、後継首相推薦などを通して外交・内政の調整と方向づけを行った。」p298
    本書は新書にしては珍しい、「他研究者への当てつけ」の側面を持った本である。学会で論争を繰り広げるのではなく、成果を直接一般市民に問うという変化球である。また、豊富に一次資料を引用することで、他説への批判も行う。単なる自説の開陳や事例の解説に止まらないという意味で、日本史学の豊穣な世界を覗かせてくれる、中公新書きっての歴史書になり得る一冊である。

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    2016年08月10日
  • 元老―近代日本の真の指導者たち

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    京都大学大学院法学研究科教授(日本政治外交史)の伊藤之雄(1952-)による、近代日本における元老制度の概説。

    【構成】
    序章 元老とは何か
    第1章 明治維新後のリーダー選定
    第2章 憲法制定と元老制度形成
    第3章 日清戦争後の定着
    第4章 元老と東アジアの秩序・近代化
    第5章 政党の台頭による制度の動揺
    第6章 第一次護憲運動による危機
    第7章 元老制度存廃の戦い
    第8章 原内閣下の首相権力拡大
    第9章 危機をどう乗り越えるか
    第10章 新しい首相推薦様式
    第11章 昭和天皇の若さと理想
    第12章 満州事変後の軍部台頭の時代
    第13章 二・二六事件と元老権力
    第14章 太平洋戦争は避けられないか
    終章 元老制度と近代日本

    本書で紹介されるのは近代日本において、帝国憲法には全く記されていないが、しかし明確に政治上の重要事項に関わり続けた「元老」と呼ばれる立場の人々である。

    著者が元老とみなしているのは、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西園寺公望の8名である。このほかに、元老として天皇を補佐するよう「元勲優遇」の勅語を受けた桂太郎、それに準ずる沙汰書を受けた大隈重信が挙げられる。また、元老になる可能性はあったが、死亡によりそれがかなわなかった原敬、加藤高明は候補者と言える。

    内閣制度・帝国憲法の運用が確立した1890年代半ばは、初期議会・日清戦争を経て、伊藤、山県、黒田、松方が少なくとも1度は内閣総理大臣として組閣した経験を持った。しかし、政党の台頭を受け、元勲のトップである伊藤ですら、第二次内閣退陣時に単独での後任首相の奏薦をすることができなかった。このため、明治天皇の下問を受けて、合議により次期首相の奏薦をする元老制度がスタートすることになる。

    評者は本書のテーマについて、専門的な知見を持たない。
    素人なりに読めば、桂太郎を元老と見なさないと明言しているところに象徴されるように、元老を他研究者よりも狭義に定義していることに伊藤の主張の第一の特徴があるように思える。
    元勲優遇の詔勅を受け、元老会議に出席して、後任首相奏薦についての合議に加わった桂ですら、他の元老から正式な元老と認められていないし、桂自身の自覚も無いという理由で、退けている。松方、西園寺から元老入りを反対された大隈も然り。
    一方で、加藤孝明の元老入りの可能性については、ごく主観的な評価を下している。外相時の加藤高明に辛い評価をつけていた西園寺が、首相就任に同意した点、没後10年あまりが立った時点で「ひとかどの人物だった」と表現した点をもって「元老に推していたであろう」というのはあまり根拠のない主張のように感じる。

    第二の特徴としては、元老自身が「元老という憲法外のグループの正統性」をどう担保しようとしていたのか、を軸に元老制度の推移を論じていることである。
    桂園時代が終わる頃から、新聞は元老の非立憲性について、批判を展開する。そこが大隈の追い風になるわけだが、山県はこれに対抗する。その一方で、薩派の山本権兵衛を退ける一方で、政友会の原敬のリーダーシップを頼りに、元老制度の維持を図ろうとする。
    山県、松方が相次いで死を迎えた後、一人元老となった西園寺は元老制度の後半を一身に引きうけ、その幕引き係となった。元老の補充をしなかったのも、いつまでも元老が首相を選定するのではなく、「憲政の常道」に代表される政党政治に基づく首相交代を目指した。一番最後に元老となり、最期まで元老であり続けた西園寺が「元老」という存在を必要悪とみなしている姿は面白い。

    著者はすでに明治天皇、伊藤博文、山県有朋、原敬、西園寺公望、昭和天皇の評伝を書き上げ、近代史における宮中・府中の力学を論じてきた。本書はその仕上げとしての「元老論」である。引用される先行研究のほとんどが著者自身の著作物となっており、著者の自信、主張の強さを随所に感じる。西園寺が病床についてからの立ち位置については、説が分かれているようであり、本書の主張だけを鵜呑みにするのは避けたいが、それにしても説得力は十分にある。

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    2016年07月03日
  • 伊藤博文 近代日本を創った男

    Posted by ブクログ

    伊藤博文の成し遂げた事績を考える内容を含む本を、読んだことが無い訳ではないが…正直、伊藤博文に関しては、個人的には「小中学生の頃に手にした、小遣い銭の千円紙幣に在った肖像画」というイメージの以上でも以下でもない…が、色々と「新しい状況への対応?」という現代のような時代であるからこそ、伊藤博文のような先人の事績や人物が見直されるべきなのかもしれない。

    或いは本書は、「伊藤博文という先人との新たな出会い」を演出してくれる存在だ。お薦めである!!

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    2016年02月04日
  • 昭和天皇伝

    Posted by ブクログ

    *この文章は、歴史上の人物としての昭和天皇を描いた作品の感想文のため、敬語を使用していません。

    60年以上という、歴代最長の期間に渡り在位した、昭和天皇。
    自分自身は、昭和天皇の晩年、一般参賀等のTV報道での姿を目にしたという経験しかないのですが、じっと前を見据えた立ち姿に、他の人物にはない、強い意志のようなものを感じた記憶があります。
    これまで、戦争との関連を含め、天皇というある種「近寄り難い」存在について、本を読んだり語ったりすることにためらいを感じていました。
    しかし、自分が暮らしている日本という国を理解するには、天皇の存在ということについてある程度、知っておかないといけないと考え、関連する本を読むことにしました。
    この本は2011年に出版された一冊。
    出版当時、複数の昭和天皇関連本が同時期に発表されて、話題になっていたという記憶があります。
    約3年を経て文庫版が出版されたので、読んでみることにしました。
    昭和天皇の誕生から亡くなるまでを、伝記形式で時系列にそって記述しています。
    第一部は誕生から天皇に即位するまで、第二部は立憲君主として日本を統治していた期間、そして第三部は戦後の象徴天皇としての期間という形に、大きく三部に分けられています。
    著者はまず第一部で、立憲君主として国民から大きな期待を受けていた天皇の姿を描いています。その中でどのような教育を受けて成長していったのか、そして本書のキーワードの一つである「生真面目な性格」に関するエピソードも記述されています。
    第二部では、国民の期待を受けて即位した「やる気に満ちた」天皇が、日本を統治していく中で挫折を経験しダメージを受け、その状態で戦争という大きな波にどのように対峙したのかが描かれています。
    第三部は日本という国をどのように変えていくべきなのか、その中で自分はどのような役割を担うべきなのかを考え、日本という国に向き合う姿が描かれています。
    恥ずかしながら、本書を読んで始めて、立憲君主としての天皇が(形式的な存在ではなく)日本の政治に大きな影響力を持っていたということを知りました。
    そして、好奇心旺盛な天皇が、報告された情報を咀嚼し、大所高所に立って、日本という国を導いていたのだなあと理解しました。
    そのような見識、判断力があったからこそ、戦後も長らく、政治家たちは天皇に報告を行い、時には助言を受けていたのですね。
    明治憲法の中での立憲君主という位置づけと、新憲法の中での象徴天皇という位置づけの両方を経験したという意味では、歴代の天皇の中でも稀有な存在だったのではないかと、本書を読んで感じました。
    著者の主観によって、取り上げる題材に強弱はつけられているとは思いますが、一人の人物としての昭和天皇を知りたいという自分には、とてもフィットする一冊でした。
    昭和天皇に関しては数多くの著作が出版されているようなので、他の著作も読んで、理解を深めていきたいと思います。

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    2015年01月21日
  • 真実の原敬 維新を超えた宰相

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    伊藤之雄「真実の原敬」(講談社現代新書)
    原敬については「利益誘導型で権力志向が強い泥臭い政治家」というイメージが流布しているが、実際は、危機を的確に予測し、ヴィジョンを持って大改革できるリーダーだったと著者は主張する。
    1. 原は南部藩の上級家臣の次男として1856年に生まれる。藩が朝敵となったことで生家は没落した。藩校で漢学を学んだあと東京に出た。フランス人宣教師に仏語を習った後に司法省法学校に入学しフランス法を学ぶが司法官の将来に夢を持てず退学。中江兆民の私塾でさらにフランス学を学ぶ。その後新聞記者となり、取材で井上馨や外務官僚の知遇を得る。
    2. 1882年に伝手を得て外務省に採用され、フランス語の翻訳や井上の演説の草稿作りを行う。1883年に在天津領事となり李鴻章と知り合う。朝鮮の甲申事変では的確な情報を伊藤や井上に伝えた。1885年に書記官に昇進しパリ公使館駐在となった。その間、陸戦法規の翻訳を行い、伏見宮や西園寺も接遇した。帝国憲法が発布された1889年に帰国。井上に誘われて農商務省の参事官となり組織改革を担当し大リストラを提言するが、産業振興に注力する前田正名らに阻まれた。1990年に陸奥宗光が農商務相に就任、陸奥と原は前田を追放しリストラを実行した。
    3. 日清戦争の後、1895年に三浦公使が閔妃殺害事件を起こす。原が得た情報で政府は事件の全貌を把握、三浦は処分された。同年、原は公使として朝鮮に赴任。大隈が外相となると不仲な原は公使を辞任。大阪毎日新聞に入社し、社長として部数を3倍増させる。
    4. 1990年、伊藤が結成した立憲政友会に参加、同年12月に逓信大臣となる。1902年には盛岡市選挙区から出馬して衆議院議員となった。1904-5年の日露戦争は桂内閣が主導したが原は戦争には消極的だった。その頃、陸奥を通じて関係のあった古河鉱業の副社長に就任した。戦後の講和条約での紛糾で桂が辞任。初めて政友会主導の西園寺内閣が成立した。原は内相になり鉄道国有化法案を成立させた。
    5. 1908年に西園寺の体調が悪化して総辞職、桂内閣成立。原は半年をかけて米欧を周遊し、米国の発展を認識した。新聞社や事業会社(古河鉱業)の経営者として実業についての知識経験があったからこそ認識できたと著者はいう。1911年に桂が辞職、第二次西園寺内閣では原は内相兼鉄道院総裁となった。中国で辛亥革命が勃発。山県らは満州への出兵を主張したが原が抑えた。
    6. 1912年、陸軍の増師を巡り西園寺と上原陸相が衝突、西園寺が総辞職し、桂内閣が成立。世論は陸軍の強引さに怒り憲政擁護運動が起きた。結局、1913年に桂が内閣を投げ出した。西園寺にも意欲が無く、海軍の山本が組閣し政友会が協力することになった。原も内相として入閣。原は陸海軍省官制改革で陸海軍相の任用資格を予備役・後備役に拡大、また陸軍増師の予算を組まないなど軍部の押さえ込みに成功した。ところが1914年にジーメンス事件が発生、山本は直接関係なかったが山県が動き辞職、大隈内閣が成立した。西園寺は党首を辞して元老となり、原が政友会総裁になった。
    7. 同年、欧州で第一次世界大戦が勃発。日本はドイツに宣戦、ドイツが支配する南洋諸島と山東省青島を占領した。年末の総選挙で大隈内閣は二個師団増設を主張、原は反対を打ち出したが大隈の勝利に終わった。大隈政権が中国に要求した二十一ヶ条要求は中国の反日感情をあおり、またアメリカなど列強にも警戒されることになった。山県は、本件を主導した加藤外相の独断に怒り、大隈も辞任。山県系の寺内内閣が成立。原は寺内に協力した。1917年に原、寺内、犬養の間で中国の領土保全・内政不干渉を合意。総選挙で政友会が優位になった後、原は「中国内政には干渉しない、列強との協調維持、国内企業の競争力強化、教育制度の充実」を訴えた。寺内は陸軍に押されシベリア出兵を行ったが、米騒動がおこり退陣した。
    同年、山県らは原の起用を決断、原内閣が成立した。外務・軍務以外の全ての閣僚が政友会所属となる本格的な政党内閣となった。原はアメリカとの協調を重視し、また中国に山東省権益を返還した一方で満蒙利権を列強に認めさせた。朝鮮での騒乱に対しは、憲兵増派で抑え込むが、総督府を内閣が把握し民政の充実に努めた。内政では官立の単科大学や旧制高校を増やし私立大学を正規の大学と認定するなど高等教育の充実を推進した。また産業政策では鉄道はじめインフラ整備を進めることとした。
    8. 普通選挙運動が盛り上がっていたが、原は1919年に納税資格を10円から3円に引き下げる改革で答えた。従来、これは原の保守性と解されていたが、著者は一気に普選にすると有権者が10倍増となり政党による有権者の把握が困難になるところ、原の改革では2倍増で選挙が安定的に実施できると肯定的に評価している。その後の普選では急激な有権者増で候補者が金銭に頼るようになり、それが昭和初期の政友会・民政党の疑獄事件・政党不信を引き起こしたというのが著者の主張である。
    1920年の選挙はその改定選挙法で実施され、政友会が圧勝した。シベリア撤兵は内閣主導で行い参謀本部には後に通知した。著者は、原が軍事知識を持ち、軍の立場も尊重し軍の信頼も得ていたこと、さらに軍に影響力を持つ山県と連携していたから軍の統制が可能だったと評価している。1921年に皇太子(後の昭和天皇)の良子との婚約結婚問題が発生した。良子の家系に色覚異常があり、将来男子が生まれた時に軍務につけない可能性があると山県らは主張し、婚約取りやめを主張した。結局は予定通り婚約が執り行われ、山県系の宮中支配が崩れることとなった。また原は皇太子の訪欧、帰国後の摂政就任を取り仕切るなど、宮中の統制も進めた。同年、原は東京駅で中岡青年に暗殺された。原因は確定されていないが皇太子妃問題が関係していると思われる。
    8. 著者は原の早すぎる死が日本の針路を変えたと評価している。後続の各政権は(1)原が行った軍と宮中の統制を制度化できなかった。(2)二大政党は権力対立、金銭収賄とその暴露を繰り返し、政党内閣の正当性を自ら傷つけた。(3)若い昭和天皇が適切な助言者を得られず、張作霖事件、海軍軍縮会議問題、満州無断越境問題で不適切な行動を行い軍部の不信を買ったという。これらが昭和初期の日本の不幸を招いたというのが著者の主張である。

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    2025年04月03日
  • 元老―近代日本の真の指導者たち

    Posted by ブクログ

    愛国だけでなく国際感覚を持っていた元老たち。
    異なる藩からの集まりでよくまとまった。今の日本とは大きな違い。
    庶民よりも裕福な暮らしであったが、今の独裁者たちと比べれば質素。それが明治天皇の言葉からというのも面白い。

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    2023年08月31日
  • 元老―近代日本の真の指導者たち

    Posted by ブクログ

    それぞれの元老の紹介や制度の変遷(主に首相推薦)について丹念に追った本です。研究である著者の説を分かりやすく一般向けに書いたイメージです。ところどころに別の学説への批判など、専門書向けの書き方も入っており、専門書を読んだことがない人が読むと少し違和感を覚えるかもしれません。

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    2023年05月06日