【感想・ネタバレ】真実の原敬 維新を超えた宰相のレビュー

あらすじ

こんな総理が、今いたら!
藩閥政府の行き詰まりを打開し、昭和の戦後復興を支えたのは、この男のヴィジョンだった。

混乱の時代における政治家の役割とは何か。政治における優れたトップリーダーの資質とは何か。今まさに問われているこのテーマに、大きなヒントを与えてくれるのが、今年百回忌を迎えた「平民宰相」原敬である。厖大な史料を確かな眼で読み込み、伊藤博文や大隈重信、昭和天皇など近代日本をつくってきた人々の評伝を著して高い評価を得てきた著者は、原を「近代日本の最高のリーダーの一人」と断言する。
原は、朝敵・南部藩に生まれながら、明治新政府への恩讐を超え、維新の精神を受け継いでその完成を目指し、さらに世界大戦後のアメリカを中心とした世界秩序を予見して、日本政治の道筋を見すえていた。その広く深い人間像は、外交官、新聞記者、経営者と様々な経験と苦闘のなかで培われたものだった。志半ばで凶刃に倒れたことで、「失われた昭和史の可能性」とは何か。
著者にはすでに、選書メチエで上下巻930ページにおよぶ大著『原敬―外交と政治の理想』(2014年)があるが、その後の新史料と知見をふまえ、「今こそ改めて原の生涯と思想、真のリーダー像を知ってほしい」と書き下ろした新書版・原敬伝。

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Posted by ブクログ

伊藤之雄「真実の原敬」(講談社現代新書)
原敬については「利益誘導型で権力志向が強い泥臭い政治家」というイメージが流布しているが、実際は、危機を的確に予測し、ヴィジョンを持って大改革できるリーダーだったと著者は主張する。
1. 原は南部藩の上級家臣の次男として1856年に生まれる。藩が朝敵となったことで生家は没落した。藩校で漢学を学んだあと東京に出た。フランス人宣教師に仏語を習った後に司法省法学校に入学しフランス法を学ぶが司法官の将来に夢を持てず退学。中江兆民の私塾でさらにフランス学を学ぶ。その後新聞記者となり、取材で井上馨や外務官僚の知遇を得る。
2. 1882年に伝手を得て外務省に採用され、フランス語の翻訳や井上の演説の草稿作りを行う。1883年に在天津領事となり李鴻章と知り合う。朝鮮の甲申事変では的確な情報を伊藤や井上に伝えた。1885年に書記官に昇進しパリ公使館駐在となった。その間、陸戦法規の翻訳を行い、伏見宮や西園寺も接遇した。帝国憲法が発布された1889年に帰国。井上に誘われて農商務省の参事官となり組織改革を担当し大リストラを提言するが、産業振興に注力する前田正名らに阻まれた。1990年に陸奥宗光が農商務相に就任、陸奥と原は前田を追放しリストラを実行した。
3. 日清戦争の後、1895年に三浦公使が閔妃殺害事件を起こす。原が得た情報で政府は事件の全貌を把握、三浦は処分された。同年、原は公使として朝鮮に赴任。大隈が外相となると不仲な原は公使を辞任。大阪毎日新聞に入社し、社長として部数を3倍増させる。
4. 1990年、伊藤が結成した立憲政友会に参加、同年12月に逓信大臣となる。1902年には盛岡市選挙区から出馬して衆議院議員となった。1904-5年の日露戦争は桂内閣が主導したが原は戦争には消極的だった。その頃、陸奥を通じて関係のあった古河鉱業の副社長に就任した。戦後の講和条約での紛糾で桂が辞任。初めて政友会主導の西園寺内閣が成立した。原は内相になり鉄道国有化法案を成立させた。
5. 1908年に西園寺の体調が悪化して総辞職、桂内閣成立。原は半年をかけて米欧を周遊し、米国の発展を認識した。新聞社や事業会社(古河鉱業)の経営者として実業についての知識経験があったからこそ認識できたと著者はいう。1911年に桂が辞職、第二次西園寺内閣では原は内相兼鉄道院総裁となった。中国で辛亥革命が勃発。山県らは満州への出兵を主張したが原が抑えた。
6. 1912年、陸軍の増師を巡り西園寺と上原陸相が衝突、西園寺が総辞職し、桂内閣が成立。世論は陸軍の強引さに怒り憲政擁護運動が起きた。結局、1913年に桂が内閣を投げ出した。西園寺にも意欲が無く、海軍の山本が組閣し政友会が協力することになった。原も内相として入閣。原は陸海軍省官制改革で陸海軍相の任用資格を予備役・後備役に拡大、また陸軍増師の予算を組まないなど軍部の押さえ込みに成功した。ところが1914年にジーメンス事件が発生、山本は直接関係なかったが山県が動き辞職、大隈内閣が成立した。西園寺は党首を辞して元老となり、原が政友会総裁になった。
7. 同年、欧州で第一次世界大戦が勃発。日本はドイツに宣戦、ドイツが支配する南洋諸島と山東省青島を占領した。年末の総選挙で大隈内閣は二個師団増設を主張、原は反対を打ち出したが大隈の勝利に終わった。大隈政権が中国に要求した二十一ヶ条要求は中国の反日感情をあおり、またアメリカなど列強にも警戒されることになった。山県は、本件を主導した加藤外相の独断に怒り、大隈も辞任。山県系の寺内内閣が成立。原は寺内に協力した。1917年に原、寺内、犬養の間で中国の領土保全・内政不干渉を合意。総選挙で政友会が優位になった後、原は「中国内政には干渉しない、列強との協調維持、国内企業の競争力強化、教育制度の充実」を訴えた。寺内は陸軍に押されシベリア出兵を行ったが、米騒動がおこり退陣した。
同年、山県らは原の起用を決断、原内閣が成立した。外務・軍務以外の全ての閣僚が政友会所属となる本格的な政党内閣となった。原はアメリカとの協調を重視し、また中国に山東省権益を返還した一方で満蒙利権を列強に認めさせた。朝鮮での騒乱に対しは、憲兵増派で抑え込むが、総督府を内閣が把握し民政の充実に努めた。内政では官立の単科大学や旧制高校を増やし私立大学を正規の大学と認定するなど高等教育の充実を推進した。また産業政策では鉄道はじめインフラ整備を進めることとした。
8. 普通選挙運動が盛り上がっていたが、原は1919年に納税資格を10円から3円に引き下げる改革で答えた。従来、これは原の保守性と解されていたが、著者は一気に普選にすると有権者が10倍増となり政党による有権者の把握が困難になるところ、原の改革では2倍増で選挙が安定的に実施できると肯定的に評価している。その後の普選では急激な有権者増で候補者が金銭に頼るようになり、それが昭和初期の政友会・民政党の疑獄事件・政党不信を引き起こしたというのが著者の主張である。
1920年の選挙はその改定選挙法で実施され、政友会が圧勝した。シベリア撤兵は内閣主導で行い参謀本部には後に通知した。著者は、原が軍事知識を持ち、軍の立場も尊重し軍の信頼も得ていたこと、さらに軍に影響力を持つ山県と連携していたから軍の統制が可能だったと評価している。1921年に皇太子(後の昭和天皇)の良子との婚約結婚問題が発生した。良子の家系に色覚異常があり、将来男子が生まれた時に軍務につけない可能性があると山県らは主張し、婚約取りやめを主張した。結局は予定通り婚約が執り行われ、山県系の宮中支配が崩れることとなった。また原は皇太子の訪欧、帰国後の摂政就任を取り仕切るなど、宮中の統制も進めた。同年、原は東京駅で中岡青年に暗殺された。原因は確定されていないが皇太子妃問題が関係していると思われる。
8. 著者は原の早すぎる死が日本の針路を変えたと評価している。後続の各政権は(1)原が行った軍と宮中の統制を制度化できなかった。(2)二大政党は権力対立、金銭収賄とその暴露を繰り返し、政党内閣の正当性を自ら傷つけた。(3)若い昭和天皇が適切な助言者を得られず、張作霖事件、海軍軍縮会議問題、満州無断越境問題で不適切な行動を行い軍部の不信を買ったという。これらが昭和初期の日本の不幸を招いたというのが著者の主張である。

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2025年04月03日

Posted by ブクログ

①原敬の特徴として、幅広い知見、経験を挙げることができる。
若い時にフランス、中国、朝鮮に駐在した豊かな海外経験、新聞社(含む経営)での勤務、古河鉱業への経営としての参画。今の政治家と比べても、特筆できる多面的なキャリアを持つ。
特に民間企業での経験が活かされていることは、政治家になってからも公利の中にあっての民活を意識していたことからも分かるし、政策に実効性が伴っていたのだと思う。
また、新聞社での勤務経験は、大正デモクラシーの中で政治家としても武器として使えたのであろう。(大隈重信の人気も早稲田閥を中心とした新聞社の力が大きかった)

②日本の近代化にあって、実力社会が活きていた。
藩閥政治の中でも、非藩閥の原敬が首相にまでなれたのは、同じように実力でその地位を築いた陸奥宗光の背中を見てきたからだろう。原敬が陸奥を尊敬していたことの理由がよく分かる。なお、陸奥が外務大臣の時に原敬と組んで外交官になるための試験制度を作り、実力主義を徹底させたことは有名な話。当時、弱小な日本が外交面で秀でていた理由はここに原点がある。

③原敬(内閣)の外交政策はアメリカ重視。
第一次世界大戦後、アメリカと日本の台頭が顕著となり、お互いに対立してくる。
そのような環境の変化の中で、原はアメリカとの関係を第一にしていた。
歴史にIFが許されるのであれば、原敬が暗殺されなければ、太平洋戦争も避けられたかもしれない。
また、日中親善を考えていた。
端的に言うと、世の中の大きな潮流を自らが確りと理解していた、ということ。
(なお、原敬は政治活動の狭間で約6カ月の外遊を行っており、特にアメリカに注目し長く滞在した模様)
最後に原内閣の特徴として、政党内閣が軍と宮中の統制を果たしていた、ということを挙げたい。
言い換えると、彼の暗殺により、政党内閣のその可能性が失われ、暗黒の昭和時代に入ってしまう。

以下抜粋~
原は、立憲政治家としては一番格好のついた人のようにみえますね。
外の人に比べてみれば、政治ということを除いて人生の意義に徹していた。言葉を換えて言えば、人生に対する一つの哲学を持っている。そこに徹底していた。
政治は人生のすべてではないのだ。
人生の中の一部のもので、かなり人間が興味を持つものである。
だから人生によく徹底した眼で見て政治をやっているのだから、原敬の身体自身が政治ではない。だからあの人の政治はゆとりがある。人生に対する一つの哲学を持っている。それで政治をやっている。
それで見方に依っては垢抜けをしている。

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2022年03月14日

Posted by ブクログ

日本で初めて本格的な政党内閣を組織し、「平民宰相」と呼ばれた原敬の「泥臭い利益誘導政治家」というイメージを払拭し、実証的にその実像を描こうとしている。
著者には、既に『原敬―外交と政治の理想』という大部の評伝があるが、本書はそれを簡潔にまとめるというだけではなく、新たな視点も含めて論じられている。
それは第一に、原が、木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・伊藤博文・明治天皇らが協力して達成した明治維新と近代国家形成を受け継ぎ、「イギリス風の立憲国家をつくる」という、その究極の目的を実現すべく尽力したという点である。
第二に、原が第一次世界大戦中から大戦終了後に形成される、アメリカの台頭による新しい国際秩序をほぼ正しく予測し、それに適応する構想を展開させ、原内閣で本格的に実施し始めるという点である。
第三に、原が「公利」という現代の公共性につながる考えを、青年期に学んだことを踏まえ、原が障害にわたって国家と国民のあるべき関係をどうとらえていたか、という原の思想を系統的に考えるという点である。
第四に、原の成長過程で、原の思想や行動に大きな影響を及ぼした母リツ、中江兆民、陸奥宗光、伊藤博文といった人との関わりと、その特色を、さらに明確に示すという点である。

ところどころ原に対する好意的に過ぎると思えるような解釈も散見されたが、原が公共性に対する意識を強く持った、現実に立脚した長期的ビジョンをもった政治家であるということはよく理解できた。特に、普選運動に安易に同調せず、漸進的な改革を目指したところに、原のリアリズムを感じた。

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2020年12月05日

Posted by ブクログ

・原は伊藤や大隈と違い、生年やバックボーンから「潜在的なイギリスへの脅威はそれほどなく、アメリカの台頭という変化を受け入れやすかった」という視点がとても勉強になりました
・賄征伐エピソードが掘り下げられてるのが面白い
・第一次護憲運動のとき、原は世論でなく輿論を尊重したため距離を取った、という解釈は、長年近現代史に向き合ってこられた方だからこその見地だなあと思ったり

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2023年08月20日

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