伊藤之雄の一覧
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ユーザーレビュー
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元老と呼ばれる戦前日本の政治指導者たちを肯定的に捉え直した一冊
要は、彼らは明治維新を経て近代立憲制を日本に定着させてゆく黎明期において、大日本帝国憲法のシステム運用上の機能不全を回避すべくインフォーマルに立ち回り、政党内閣誕生で結実する立憲国家への道を舗装していったという。
具体的には、総選挙
...続きを読むで民党が影響力を持つ過程で政党政治を求める世論の高まりを理解しつつも、政権運営能力のない政党に国家運営を任せることの懸念から、政党側に実務運営ノウハウをゆっくりと身につけさせる「自転車の補助輪」の役割を果たした。(例えば、第1回大隈内閣、立憲政友会の創設等)
確かに上からの改革でしかないという批判も当たるが、当時の日本を取り巻く国際状況や国内状況を踏まえると、中長期的ビジョンを持った非公式の集まりが形式上の制度が機能するまでの間、微調整をする必要性があったのかもしれない。
Posted by ブクログ
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明治維新から、漸進的に民主主義が進んできた中で、藩閥と民権の軸の民権側、政党政治側の引力になってきたのが大隈なのだろう。
幕末、維新、大正と活躍した政治家は数少なく、大隈の歴史を追うことで、特に大正までの政治、国際情勢の流れを理解することができる。
それに匹敵するのは山県有朋だけだろう。
大隈の
...続きを読む先見性はマスコミ(新聞)をうまく味方につけたこと。それは、今尚、早稲田出身者が、マスコミで活躍していることと繋がってくる。
以下抜粋~
・大隈は世界平和論の中で「東西文明の調和」を論じたように、大隈の根本には、異質の集団・精神や思想のいずれか一方が他を圧倒するのでなく、調和させながらより高いレベルに改革していくのが最も望ましいとの考え方があった。
・福沢と並んで大隈が極めて高く評価したのが、大久保利通である。
正義を大事にする大久保の行動は、大隈が国民道徳の標準として「正義人道」を旨とする武士道を提唱したことと合致している。
また大隈は、大久保は青年時代に幕閣の阿部正弘や水戸斉昭の政治のやり方を見て「権略」も学んだに違いないと見る。「偉人」たる政治家は、「権略」を使いこなせないといけない、という自分の価値観を反映している。
・大隈首相がイギリス風の政党政治をめざすのであれば、文官の首相(大隈)を中心とした内閣が、陸相、海相を通じて陸軍・海軍予算や海外派兵時の作戦の大枠まで事実上統制しなければならなかった。
大日本帝国憲法では、統帥権が独立していたので、そのようなことはできなかったと一般には理解されている。
しかし、数年のちになるが、1920年前後の原敬は自らの内閣でそれを達成している。
・大隈は公平な立場で、イギリス風の二大政党制のように政権交代のある政党政治の発展を願い、それに近づいたことを喜んだのであった。大隈が、原が無爵で組閣したことを評価していることから、華族制度に価値をおいていないことが分かる。
・国民葬に参列した人々の心の中にあった国内政治における大隈のイメージは、片脚を失ったにもかかわらず、超人的な元気さで活躍し、日本に政党政治を育成するのに大きな力があった人物、というものであろう。また、藩閥政治・官僚政治による腐敗をなくすように尽力し、大戦中の日本を導き好景気になるきっかけを作ってくれた大物政治家というものでもあっただろう。
また、もう一つのイメージは、庶民とは別次元の生活をしながらも、華族や官僚の臭味がなく、庶民の生活を充分に理解し、それを向上させるために尽力したというものであろう。一般の国民にも親しく語りかけて交友を求めてきたことも、国民に強い印象を残したはずである。
・イギリス風の政党政治の実現、政治の腐敗をなくし、小さな政府による税負担の軽減、中国を近代化し秩序ある自由市場として貿易や経済進出で日本の発展を図るなど、大隈の政策は一貫している。
Posted by ブクログ
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著者によれば、大隈重信に関する書物は多々あるものの、その実像、評価がはっきりしないとする。
ひとつの理由として、大隈が日記や直筆の手紙を残していないこともあるらしい。
本書では、大隈の実像をつかむため、その全生涯について、出来る限りの資料を読んだ上で、特定な分野や時期に限定せずに大隈を検討し、大隈が
...続きを読む近代日本と国民にとって、どのような存在であったかを著している。
現在では、早稲田大学創設者としてのイメージが強いのだろうが、本著を読むことで非藩閥出身者として首相も経験し、近代国家創設を先導してきた人柄、思想に触れることができる。
・唯一西洋に開かれた重要な港である長崎を警備する役目は、佐賀藩と福岡藩に任され、両藩は一年交代で任務に当った。祖父、父の仕事は、長崎を防備する大砲の責任者であった。
・大隈は、好んで自分より年長の友人を選んだので、友人には5、6歳から10歳以上の年長者も少なくなかった。
・当時の常識では、武士の家に生まれた者が商人と提携を考えるのは「異常の事」であり、批判されるべきことだったが、商業の初歩を理解しながら、大隈は、維新前に商人に対する偏見を捨てていった。
・大隈と井上・伊藤の交流は、幕末に始まっていたらしい。坂本龍馬らとも交遊し、一緒に長崎の丸山花柳界に遊んだこともあるという。
・パークスの相手は大隈しかいない。
・東京専門学校の学生に、イギリスを中心とした政治・法律の基本を身に付けさせ、日本を藩閥政治から脱却させる自主・独立の精神を育成する。
・(大隈が漸進主義だということに関して)大隈は、維新以来の日本での秩序破壊は、フランス革命によるものよりも甚だしいと見て、このまま経過すればその害はフランス革命以上になる、とも述べている。
・大隈は、国は農業から工業、商業へと発展していくととらえ、商業が発達した国が最も発展した国であるとみる。商業についての大隈の主張は国内での取引もさることながら、海外との取引、貿易に日本の発展の可能性が握られているとみる。このため国民、とりわけ実業家(商工業者・金融業者)が自立した精神と、国際的な視野を持ち、生産と取引に力を発揮し、特にイギリスのように貿易で利益を上げて富を蓄積することを理想とした。
・列強に対抗するためにも、さらなる教育の充実を主張した。日本の学者は発明を欧米に委ねて、その成果を模倣するという姿勢でいるが、もっと発奮すべきであると批判する。
・日本の商業・貿易の発展のためには日本の商人の道徳を高めるのが必要と見る。
・大隈が貿易の拡大を平和と関連づけてとらえた所は新しく、その後も同様を主張をしていく。また大隈は植民地拡大ではなく、自由貿易を中心とした通商国家を理想とすることが確認できる。
・幕末には関東は水戸藩、関西は佐賀藩が人物養成の中心で各藩より留学生がたくさんあった。
Posted by ブクログ
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伊藤博文及び明治の近代国家創設を知るための必読書だと思う。当時の書簡の遣り取りを掘り起こし、事実関係を丁寧に整理しており、網羅性の観点からも秀逸。また、全般的に分かりやすい。
特に伊藤博文のネガティブな評価を覆す思いが意図としてあり、彼の真意を理解することで、改めて彼の功績を評価することができる。
...続きを読む
以下引用~
・こうして木戸は、大蔵省・民部省という最重要官庁の次官から局長にあたる中枢ポストに、大隈・伊藤・井上馨という三人の腹心を送り込んだ。
・(大蔵省時代)渡米中の伊藤大蔵少輔(次官クラス)等は政府に条約改正の準備を強く促していた。しかし、日本は欧米のような法律も制定しておらず、新しい有利な条約を結べる状況にはなかった。
・伊藤は君主に主権があり、それが立法部・行政部・司法部に委任される形になるが、君主はみだりに委任を取り消せない、と憲法で規定し、君主権を制約する憲法を作った、と主張している。
・(伊藤が西郷従道を参議に推挙するに関して)伊藤は、実力者の岩倉右大臣と連携を保ち、長州の盟友井上馨や山県ら長州派を固め、西郷従道や松方を通じて薩摩派にも影響を及ぼせるようになったのだった。
・シュタインの説明は、君主権は神から授かったものであり、君主は専制的に行動してもよいという考え方を否定するためにできた考え方で、当時のヨーロッパの君主制についての最先端の学説、君主機関説であった。伊藤はシュタインとの会談で、その趣旨を理解できたのである。これで、伝統的に天皇専制(天皇親政)が行われていない日本に、その実態にあった憲法を作るための糸口がみえてくた、と伊藤は喜んだのである。
・伊藤がシュタインから最も影響を受けたその教えは、(1)行政権が優位であるべきだが、行政権・君主権・議会の権限の三権が緊張関係にあることが望ましい(君主権と言えども制限されるべき)、(2)憲法はその国の固有の歴史を反映したものであるべきだ、(3)歴史は変化するので、憲法の運用や制度も変化していくことが自然であること、等である。
・天津条約の締結の交渉に関して、清国行の際に、天津領事であった29歳の原敬を見出したことも、大きな副産物だった。
・伊藤が憲法政治を定着させることが可能であったのは、(1)明治天皇の信頼を得、薩摩系の有力者とすら協調できる明朗な人柄、(2)英語力や中国・日本の古典などに裏付けられた法律や経済・歴史などに対する深い洞察力と西欧の規範への理解、(3)現実主義の立場から内政や外政を処理する実務能力と、「剛凌強直」な生活による政治への決断力、などがあったからだった。
・(伊藤体制の凋落)日清戦争後に、山県有朋を盟主とする山県系官僚閥が形成されたことである。
山県の狙いは、専門家集団としての陸軍が、なるべく政府から干渉されない形で自立することだった。
・伊藤は、薩長や藩閥になるべくこだわらない形で、新しい近代国家を作ろうと尽力した。1893年、第二次内閣の時に文官任用令と文官試験規則を公布したのは、それを象徴している。
・伊藤と明治天皇がいなくなったことで、二人が作った明治憲法の改正を推進する人物がいなくなってしまった。また、日清・日露の両戦争に勝ったため、天皇の死後、偉大な明治天皇が発布した憲法としての権威がつきすぎ、改正を発想することすら政治的に危険になった。
・イギリスにも2ヶ月も滞在して調査したように、伊藤は議会の権限の弱いドイツモデルに固執していたわけではなく、議会の権限が強いイギリスモデルも将来の視野に入れていた。
伊藤のリーダーとしての資質は、(1)しっかりとした学識にもとづき、長期的な展望を持っており、(2)また当時の日本が置かれていた現実の厳しさもよくわかっていた、(3)それにもかかわらず、現状の厳しさに絶望しない楽天的な性格を持っていて、強い決意で、しかも現実的な手法で問題を一歩一歩解決していったこと、にあるといえよう。このような伊藤博文と日本の近代の歩みの中に、厳しい状況にある現代の日本を改革していくにあたって、政治家などのリーダーや私たちの生き方がどうあるべきか、というヒントが見出せるように思えてならない。
奇妙なことであるが、伊藤の伝記を書く作業を進める中で、安重根の人柄を知るにつれ、立場こそ異なるものの、正義感や意志の強さ等、伊藤のそれと似ている面が多いことがわかってきた。そのため、伊藤の暗殺者である安重根に、信念に生きた人間として、伊藤と共通する親しみすら感じる。本書が、伊藤博文や日本の近代化を理解するためのみならず、日韓や東アジアの相互理解と永続する連携のための一助になれば、幸いである。
Posted by ブクログ
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下巻は隈板内閣(第1次大隈内閣)が倒れてから没するまで、つまり1898年から1922年までの四半世紀が描かれる。大隈の年齢で言えば、ちょうど還暦から86歳で亡くなるまでの時期である。
この時期の大隈は在野で早大総長として東西文明の「調和」論を展開しつつ、他方、忍耐強く2度目の政権担当を狙っていた。
...続きを読むそして、76歳になった1914年の第2次大隈内閣を組織し、第1次世界大戦という難局を乗り切った。
もちろん、対中国政策では「対華二十一ヶ条要求」という外交上の失敗もあり大隈の政治責任もあったが、政党政治の確立という大目標の中で加藤高明を重用し続けなければならなかった事情もあった。
著者は第17章で大隈の政治思想を理解する上で重要な「世界平和論」の骨格を次のようにまとめている。
「大隈の世界平和論は、約10年後にウィルソン米大統領によって展開される国際連盟構想などに比べると見劣りする。とはいえ、平和のために各国や地域が「文明」化して議会のある民主化した立憲国家となること、商業・貿易が発達して経済的に豊かになることが必要との考え方は、現在にも通用するものである。」(p.124)
実際、大隈は立憲改進党からスタートとしつつ、昭和の二大政党制(政友会と民政党)につながる流れを断ち切らずに粘り強く政治をおこなっていったのである。
また大隈は維新創業の第一世代を受け継ぐ第二世代を「第二国民」と呼んで教育にも力を入れた(p.130)。その努力は早稲田大学を通じて達成されていったのだろうが、自分の政治的な後継者を育てるという意味ではなかなか難しかったのだろう。本書の全編を通じてそれは感じ取られるところである。
Posted by ブクログ
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