著者によれば、大隈重信に関する書物は多々あるものの、その実像、評価がはっきりしないとする。
ひとつの理由として、大隈が日記や直筆の手紙を残していないこともあるらしい。
本書では、大隈の実像をつかむため、その全生涯について、出来る限りの資料を読んだ上で、特定な分野や時期に限定せずに大隈を検討し、大隈が
...続きを読む近代日本と国民にとって、どのような存在であったかを著している。
現在では、早稲田大学創設者としてのイメージが強いのだろうが、本著を読むことで非藩閥出身者として首相も経験し、近代国家創設を先導してきた人柄、思想に触れることができる。
・唯一西洋に開かれた重要な港である長崎を警備する役目は、佐賀藩と福岡藩に任され、両藩は一年交代で任務に当った。祖父、父の仕事は、長崎を防備する大砲の責任者であった。
・大隈は、好んで自分より年長の友人を選んだので、友人には5、6歳から10歳以上の年長者も少なくなかった。
・当時の常識では、武士の家に生まれた者が商人と提携を考えるのは「異常の事」であり、批判されるべきことだったが、商業の初歩を理解しながら、大隈は、維新前に商人に対する偏見を捨てていった。
・大隈と井上・伊藤の交流は、幕末に始まっていたらしい。坂本龍馬らとも交遊し、一緒に長崎の丸山花柳界に遊んだこともあるという。
・パークスの相手は大隈しかいない。
・東京専門学校の学生に、イギリスを中心とした政治・法律の基本を身に付けさせ、日本を藩閥政治から脱却させる自主・独立の精神を育成する。
・(大隈が漸進主義だということに関して)大隈は、維新以来の日本での秩序破壊は、フランス革命によるものよりも甚だしいと見て、このまま経過すればその害はフランス革命以上になる、とも述べている。
・大隈は、国は農業から工業、商業へと発展していくととらえ、商業が発達した国が最も発展した国であるとみる。商業についての大隈の主張は国内での取引もさることながら、海外との取引、貿易に日本の発展の可能性が握られているとみる。このため国民、とりわけ実業家(商工業者・金融業者)が自立した精神と、国際的な視野を持ち、生産と取引に力を発揮し、特にイギリスのように貿易で利益を上げて富を蓄積することを理想とした。
・列強に対抗するためにも、さらなる教育の充実を主張した。日本の学者は発明を欧米に委ねて、その成果を模倣するという姿勢でいるが、もっと発奮すべきであると批判する。
・日本の商業・貿易の発展のためには日本の商人の道徳を高めるのが必要と見る。
・大隈が貿易の拡大を平和と関連づけてとらえた所は新しく、その後も同様を主張をしていく。また大隈は植民地拡大ではなく、自由貿易を中心とした通商国家を理想とすることが確認できる。
・幕末には関東は水戸藩、関西は佐賀藩が人物養成の中心で各藩より留学生がたくさんあった。