元木泰雄のレビュー一覧
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本書は、話題となった『河内源氏−頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011年)の続刊。『河内源氏』も読んだが、当時書いた感想には「よくわからなかった」と書いてあった。「よくわからなかった」本の続刊を読む起動力となったのは、もちろん2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の影響が大きいが、同様に(あるいはそれ以上に)先日読んだ野口実氏の『源氏の血脈−武家の棟梁への道』が大変面白かったことがある。野口氏の『源氏の血脈』では為義、義朝、頼朝、そして義経が取り上げられていたが、本書はもちろん頼朝にフォーカスされたもの。以下、その構成(章タイトルのみ)。
はじめに
Ⅰ 頼朝の登場−河内源氏の盛衰
Ⅱ -
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腑に落ちた。後白河院は胡散臭かった、コイツは場当たり的な対応でシバシバ悪手を打つクセに頼朝の評が独り歩きする。1155タナボタ即位。1156保元の乱で標的に。信西の権勢に二条親政派と院政派が呉越同舟した1159平治の乱、何故か清盛独り勝ち・・・信西・信頼等偏愛した寵臣が亡くなり二条派の嫌がらせに後白河はほゞ二条派の清盛に助けを乞い、経宗・惟方(信西を殺した首謀者)を清盛は排除し、信西の息子たちを復権させる。1161二条天皇憲仁親王立太子疑惑で後白河は近臣全て失い院政停止。1165天皇崩御で後白河復権、六条天皇即位。1166摂政薨去し後白河は摂政領を遺児(盛子後見=清盛後見)へ渡す裁量をして清盛
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ネタバレメモ
鳥羽院と崇徳院の仲はそこまで悪くなかったという説。重仁は必ずしも後継者から除外されていない。二条天皇とともに、美福門院の養子。
近衛天皇の死後、重仁と守仁が後継者候補だが雅仁が中継ぎで即位。
今様に染まり帝王教育を受けていないので未熟
平氏も正室の子頼盛が清盛の存在を脅かした。
待賢門院と閑院流(三条・西園寺・徳大寺氏)
池禅尼は重仁の乳母
後白河院と信西、藤原信頼(清盛は両方と縁戚)
二条親政派の藤原経宗(忠実いとこ)、惟方の討伐
信頼、源氏壊滅で平氏が軍事警察権を独占
平治の乱後、急激に昇進するが、まだ権力を持てず上皇、天皇両属
法住寺殿と蓮華王院
関白藤原基実と清盛の連携、六 -
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1 河内源氏の成立
2 東国と奥羽の兵乱
3 八幡太郎の光と影
4 河内現時の没落
5 父子相克-保元の乱の悲劇
6 河内源氏の壊滅-平治の乱の敗北
むすび 頼朝の挙兵
痛快な通史である。
10世紀なかばの承平・天慶の乱からはじまり、治承・寿永の争乱の幕開けとなる頼朝挙兵に終わる河内源氏の栄枯盛衰の物語が本書である。
中世の武士ほど、中等教育までの教科書と歴史学研究の乖離がはなはだしいものは少ないのではないか。武士とは貴族である、と本書は至るところで主張する。それすらも乖離のごく一例である。詳細はぜひ手にとって読んでいただきたい。
本書を読めば、評者をはじめとする素人が、いかに通説的理 -
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角川ソフィア文庫 元木泰雄 「 平清盛 の闘い 」
清盛が目指した幻の国家像〜貴族政権を解体し、王権に従属させる公武一体国家〜の試みを論じた本
清盛の人生は、スピード出世して王権の中枢に位置し、クーデターを起こして 王権を掌握するも、すぐに病死して 平家もろとも滅亡。盛者必衰そのもの
平治の乱(1159)から治承三年の政変(1179)までの清盛の盛者ぶりは、圧巻
*平治の乱で 一人勝ちした清盛が、競合する軍事貴族や摂関政治を消滅させ、後白河院主導の政権を樹立
*後白河院との協調により、王権と政情を安定させ、清盛に外戚の座、日宋貿易の成果をもたらす
*建門寺院の僧侶を自在に動員 -
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河内源氏の祖頼信から、鎌倉幕府を開く頼朝の父である義朝までの河内源氏に関する通史。従来の研究では、平氏政権を打倒した源頼朝と東国武士との結びつきから遡行して源頼義・源義家との東国武士の絆が強調する「武家棟梁論」が支持されてきたが、その「武家棟梁論」に対する批判について多く書かれている。
「武家棟梁論」とは、広汎な東国武士を組織した河内源氏の武将は、多くの地方武士を組織する武家棟梁となり、その発展によって鎌倉幕府が樹立されるストーリーだが、前九年合戦では東国武士の参戦はわずかに過ぎず、安倍氏に惨敗する程度の武力しかなかったこと、出羽からの清原武則の支援でようやく勝利できたことなど、東国武士の組 -
ネタバレ 購入済み
武家の棟梁?
王権と自力救済の間で揺れ動きながら、栄光と没落、凄惨な骨肉の争いを経験した、実に劇的な一族河内源氏。
源頼信が平忠常の乱、源頼義が前九年の役、義家が後三年の役を平定。→東国武士を結集し、「武家の棟梁」と称される地位を確立。→院や貴族に脅威を与えた河内源氏は、院と結んだ平氏による源氏勢力削減政策により不遇を極め、保元の乱と平治の乱を経て没落。→先祖が築いた基盤をもとに頼朝が鎌倉幕府を開いた。
こういった歴史の教科書に載ってるような通説に対する検討をされています。
・貴族と武士は同じ支配者層であり、貴族と武士が対立関係にあったのではない。
・頼朝の隆盛の基盤は源平争乱の結果で得た領