元木泰雄の作品一覧
「元木泰雄」の「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」「平清盛と後白河院」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「元木泰雄」の「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」「平清盛と後白河院」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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Posted by ブクログ
本書は、話題となった『河内源氏−頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011年)の続刊。『河内源氏』も読んだが、当時書いた感想には「よくわからなかった」と書いてあった。「よくわからなかった」本の続刊を読む起動力となったのは、もちろん2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の影響が大きいが、同様に(あるいはそれ以上に)先日読んだ野口実氏の『源氏の血脈−武家の棟梁への道』が大変面白かったことがある。野口氏の『源氏の血脈』では為義、義朝、頼朝、そして義経が取り上げられていたが、本書はもちろん頼朝にフォーカスされたもの。以下、その構成(章タイトルのみ)。
はじめに
Ⅰ 頼朝の登場−河内源氏の盛衰
Ⅱ 流刑地の日々―頼朝挙兵の前提
Ⅲ 挙兵の成功―流人の奇跡
Ⅳ 義仲との対立−源氏嫡流をめぐって
Ⅴ 頼朝軍の上洛−京・畿内の制圧
Ⅵ 平氏追討−義経と範頼
Ⅶ 義経挙兵と公武交渉−国地頭と廟堂改革
Ⅷ 義経の滅亡と奥州合戦−唯一の官軍
Ⅸ 頼朝上洛と後白河の死去−朝の大将軍
Ⅹ 頼朝の晩年−権力の継承と「失政」
むすび−頼朝死後の幕府
治承四年(1180)の挙兵から約20年、建久十年(1199)で満51歳の生涯を閉じるまで頼朝がいかにきわどい戦いに勝ち抜き、鎌倉幕府の基礎を築いたかが、大変興味深く論じられていた。また他の学説などに対するスタンスも明確であり、素人にもわかりやすかった。たとえば頼朝の父・義朝が藤原信頼と組んで挙兵(平治の乱)したことに対する議論を引きながら「武士と貴族とを対立する階級とする、古めかしい観念の呪縛の強さを痛感せざるをえない」(p.24)など。なお、この時の挙兵がいったん成功し、その時の除目によって初陣の頼朝は「右兵衛権佐」(佐殿 すけどの)になった。
20年に及ぶ伊豆での流人生活を経て挙兵に成功した頼朝は、富士川の合戦に勝利し、鎌倉に凱旋以後、所領は鎌倉殿・御家人双方の代替わりごとに安堵されることになり、初めて所領を媒介とした継続的な主従関係が成立した(p.80)。これはそれまでの河内源氏当主と家人との関係からの大きな変化であった(同)。
頼朝の朝廷工作についても高く評価されている。たとえば治承5年7月の後白河に送った和平提案(宗盛は清盛の遺言にしたがって拒否)などが寿永2年7月に「平氏都落ち」に追い込んだ義仲上洛の際の「勲功第一という評価を得る原因となった」(p.91)と指摘されている。その平氏都落ちに際して著者は歴史にifはないがと断りつつ、「もしも後白河が平氏に拉致されていたら、平氏は強い正当性を有したに違いない。これに対し、義仲は八条院・北陸宮を擁立し、独自の王権を構築したであろう。王権が分裂し、おそらく内乱は長期化したと考えられる。そして、権威の源泉である後白河を失った頼朝は、著しく立場を悪化させたはずである。後白河の脱出によって、日本は分裂の危機を回避し、頼朝も危機を免れたことになる」(p.101)と述べている。首肯できる主張である。
頼朝と義経の対立については第Ⅵ章・第Ⅶ章で詳しく論じられている。「対立の背景を突き詰めれば、後継者問題の不安定さなど、鎌倉幕府の組織が、まだ幼弱だったことに行き着く」(p.182)。「唯一の官軍」を目指した頼朝は院の勢力と結びつき独自の官軍となろうとした義経を絶対に容認できなかったのである。
第Ⅷ章、第Ⅸ章では奥州合戦の意義と鎌倉幕府が名実ともに成立するプロセス、頼朝が目指したものの完成と内乱の終結が叙述される。そして、「古めかしい王朝権威に依存した頼朝を非難するのはたやすい。しかし、所領の新恩給与は戦時下であったがゆえに可能となったのである。また、内乱以前の武士に対する恩給は官位であった。平時に移行した頼朝が、官位を中心とする王朝権威に依拠して主従関係を維持するのは当然のことだったのである」(p.251)と述べられている。
さて義経没落後、京都守護の役割を一時的に担った北条時政のイメージは大河ドラマとは随分と違うので注意が必要かと思う。時政についてはミネルヴァの評伝シリーズから野口実氏が新著を出したのでそちらも読んでみたい。頼朝が晩年に結局はなし得なかった幕府基盤の安定化は、幕府内の闘争を経て、北条氏により成し遂げられるのだから。
Posted by ブクログ
腑に落ちた。後白河院は胡散臭かった、コイツは場当たり的な対応でシバシバ悪手を打つクセに頼朝の評が独り歩きする。1155タナボタ即位。1156保元の乱で標的に。信西の権勢に二条親政派と院政派が呉越同舟した1159平治の乱、何故か清盛独り勝ち・・・信西・信頼等偏愛した寵臣が亡くなり二条派の嫌がらせに後白河はほゞ二条派の清盛に助けを乞い、経宗・惟方(信西を殺した首謀者)を清盛は排除し、信西の息子たちを復権させる。1161二条天皇憲仁親王立太子疑惑で後白河は近臣全て失い院政停止。1165天皇崩御で後白河復権、六条天皇即位。1166摂政薨去し後白河は摂政領を遺児(盛子後見=清盛後見)へ渡す裁量をして清盛を取り込みにかかる。(東宮大夫も清盛)ところが1168清盛危篤(臨終出家したけど生き延びる)に後白河は他の平氏のご機嫌窺いで高倉天皇即位(平滋子は皇太后)姉の時子の子宗盛が相対的に浮上。1169嘉応の強訴で後白河近臣成親配流要求を叡山と争いを避ける清盛の意向を無視してごまかす。1170成親の復権。検非違使別当を5年間…院も軍事・警察力を有した。成親=武勇の若殿上人。1171清盛の子徳子入内。1174厳島へ後白河参詣(前代未聞)平氏とのパイプ役建春門院(滋子)崩御し、後白河寵臣への贔屓昇進。翌月清盛の子左右近衛大将。(やり返し?)1177白山騒動に又も成親配流要求され、清盛は比叡山要望を全て叶える=世に言う鹿ケ谷の陰謀は表面的な発表。西光・成親を断罪。後白河は盛子・重盛死去の際に所領を奪うが清盛の怒りを買う。1179治承三年のクーデター。福原から兵を率いての入京に後白河は「今後一切政務口出ししない」と院政停止。1180以仁王令旨で全国に反乱がおきる。以仁王こそ倒したものの清盛は太郎・次郎焼亡で都は荒廃し、園城寺や藤原氏寺興福寺も敵に回したため福原遷都をする。(長くなったのでここまで)何が言いたいか・・・鎌倉幕府への道筋がかなり理解できた気がするので嬉しい。
Posted by ブクログ
メモ
鳥羽院と崇徳院の仲はそこまで悪くなかったという説。重仁は必ずしも後継者から除外されていない。二条天皇とともに、美福門院の養子。
近衛天皇の死後、重仁と守仁が後継者候補だが雅仁が中継ぎで即位。
今様に染まり帝王教育を受けていないので未熟
平氏も正室の子頼盛が清盛の存在を脅かした。
待賢門院と閑院流(三条・西園寺・徳大寺氏)
池禅尼は重仁の乳母
後白河院と信西、藤原信頼(清盛は両方と縁戚)
二条親政派の藤原経宗(忠実いとこ)、惟方の討伐
信頼、源氏壊滅で平氏が軍事警察権を独占
平治の乱後、急激に昇進するが、まだ権力を持てず上皇、天皇両属
法住寺殿と蓮華王院
関白藤原基実と清盛の連携、六条天皇即位も後白河は院政をできず
基実死後、弟基房を抑えて妻盛子の父清盛が摂関家掌握
白河院の子、摂関家大殿の立場から太政大臣、内大臣
後白河と近い重盛。時子の妹滋子が憲仁を生むと立場は微妙に。
頼盛、時忠ら清盛と違う路線をとる平氏一門も
高倉天皇即位と清盛(出家)、滋子を通した後白河との協調、院政
清盛の子徳子を後白河・重盛の養女として高倉に入内=新王朝
時子の長男宗盛は時子・滋子の妹と結婚、清宗を生む。重盛に対抗
殿下乗合事件は重盛の焦り?
清盛・時子・宗盛・高倉・滋子VS重盛・藤原成親(・後白河)?
清盛は分裂を回避
滋子の死と後白河との溝、鹿ケ谷事件
平氏政権下で後白河の独裁が難しく、藤原成親ら近臣の活動が制限
高倉退位工作、人事分裂、右左近衛大将
後白河の権力失墜、言仁誕生、重盛の死、宗盛の台頭と平氏家人分断
治承3年の政変、摂関交代、院近臣解官、後白河幽閉、知行国独占
高倉院政、安徳即位、厳島詣、以仁王挙兵、福原遷都による新王朝樹立
源頼朝挙兵、平安京還都、高倉の死と後白河院政復活,清盛娘との結婚
清盛の死、後白河に甘い宗盛の父の否定と政権の返上
平家の都落ちと後白河の脱出
一の谷の戦いの鵯越逆落としは多田行綱
平氏の滅亡と平氏王朝の壊滅、後白河復権
血族であってもライバルとなり、彼らの生涯で何度も変わる人間関係がややこしい。清盛と後白河は終生のライバルだなと感じる。ただ、著者の後白河への評価は低い。平氏滅亡時に三種の神器と安徳を道連れにした時子の対応が、後白河王朝の権威を失墜させ、承久の乱の遠因になったという指摘や、性的に徳子を愛していた後白河への徳子の言葉など、妄想的だが考えさせられる部分がある。「平家にあらずんば」と言った時忠の生き残り術は、しぶとくて素晴らしい!
Posted by ブクログ
1 河内源氏の成立
2 東国と奥羽の兵乱
3 八幡太郎の光と影
4 河内現時の没落
5 父子相克-保元の乱の悲劇
6 河内源氏の壊滅-平治の乱の敗北
むすび 頼朝の挙兵
痛快な通史である。
10世紀なかばの承平・天慶の乱からはじまり、治承・寿永の争乱の幕開けとなる頼朝挙兵に終わる河内源氏の栄枯盛衰の物語が本書である。
中世の武士ほど、中等教育までの教科書と歴史学研究の乖離がはなはだしいものは少ないのではないか。武士とは貴族である、と本書は至るところで主張する。それすらも乖離のごく一例である。詳細はぜひ手にとって読んでいただきたい。
本書を読めば、評者をはじめとする素人が、いかに通説的理解に染まっているのかがよく分かる。
本書でもたびたび引用される『愚管抄』に、保元の乱以降は「武者ノ世」だという有名な一説がある。恥ずかしながら『愚管抄』も『吾妻鏡』も読んだことがない。しかし、高校の日本史の授業や大河ドラマなどを通じて、鎌倉時代になってから記された古典を源流にした「源平観」や「誇張された武士像」に多かれ少なかれ影響を受けている。
そのすり込まれた武士像を、厳密な史料批判によって再構築・再解釈していくのが本書の最大の魅力である。
とにかく饒舌に時代背景を説き、人脈の広がりを示し、舌鋒鋭く通説(とくに東大の先生の)を斬って捨てる。とにかく早口でまくし立て、ノートが追いつかないほどのスピードで黒板に書きまくる元木先生の講義そのものである。
一読すれば、普段この時代に興味関心の無い評者のような人間に対しても、好奇心をかき立て、歴史書を手にとってみようと気にさせるという点で、歴史学の新書として期待される最大の役割を果たしていると言えるだろう。