セーレン・キルケゴールのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
さて、読み終わったが、かなり分からなかった。キリスト教的価値観についてはこれまでかなり勉強してきた筈だったがそれでもこの本には分からない表現が多かったし、哲学書としてはニーチェのツァラトゥストラのように詩的表現をされている訳でもないにも関わらずそれ以上に難解だった。
かろうじて私が受け取れた表現で面白かったところをいくつか。
◎想像力とは無限化するところの反省である→→自己とは反省である→→想像力とは反省であり、即ち自己の再現であり、したがって自己の可能性である。
…想像力(ファンタジー)を巡らせることとはつまり自分について反省することであり、逆説的に自分とは反省によって形成されているとい -
Posted by ブクログ
ネタバレ自分の内面と徹底的に向き合うみたいなところの真剣さがすごかった。の対象がキリスト教の神であるところはかなり正統派(保守派?)な感じがするけれど。
自己意識との葛藤、どう自己意識を高めても私たちは、一人のただの人間で、不完全性から逃れられることはない、けどだからと言って、それを止めてしまうんじゃなくて、絶望を極めつつも、自分の意識と向き合い続けようとすることこそが、まさに弁証法的な生き方―彼の場合は、罪を贖う唯一の生き方―なんだ、ということを言っているのかと理解する。それには、信じること、とにかく絶望に負けない希望みたいなものの存在が必要ということにもなる。
ちょっと違うと思うけれど、理想と現 -
Posted by ブクログ
市民革命・産業革命が進む中、人々は自覚のあるなしに関わらず、人間中心の近代的なものの見方を身につけつつあった。キルケゴールは、そうした近代のものの見方にとらわれることなく、信仰へ飛躍しなければ、自らが本当に生きるということにはならないと説き、それに対してニーチェは、信仰にも近代的なものの見方にもとらわれるな、と説いているように思われる。本書は全編、信仰への飛躍を妨げるメンタリティを彼独特の仕方で分類整理し、その有り様を執拗に描き出そうとする。とても読みにくい。そして最後には、言葉で説明できるようなものは、信仰ではないというようなことも言う。やっかいではあるが、様々なメンタリティの描写には見るべ
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死に至る病とは絶望であるとキルケゴールは言う。
しかも、絶望しない人間はいないとも言う。
世間一般に言われる、願いが叶ったとか、よい人生だったとかの幸福を彼はことごとく否定する。
その追い詰められた状態から、何が幸福かを見いだせるのか。
その答えは、読み取ることができなかった。
ただ、自分の欲望を満たしたり、世間の言う幸福に追従したのでは、真の幸福に巡りあえないばかりか、絶望から抜け出すことすらできないということを理解した。
資本主義、契約社会の中では、一つの失敗が自らの人生を破滅に追い込む。
だから、いつも転落の恐怖に晒されながら、おそるおそる生きている自分がいる。
その姿は -
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キルケゴール。高校の倫理の時間に軽く学んで以来とっても興味があったけど、なかなか手を出せずにいました。このたびいよいよその著作に目を通しとても感銘を受けました。あらゆるシチュエーションでの『絶望』というところから、神と出会うことの重要性を説きます。明らかな教化的著作だけども、哲学書としても一流だと感じました。巻頭にキルケゴールの生涯を簡単にまとめたものがついています。その中で「キルケゴールほど、その人生と思想とが肉薄している人物も珍しい」とありましたが、まさにその魂の哲学だったのだと感じます。更に読み進めていきたいです。
09/5/17 -
Posted by ブクログ
キェルケゴール 「死に至る病」
絶望について論じた本。死に至る病=絶望=地獄 として、キリスト教による救済につなぐ構成
絶望から解放されるにはキリスト教による救済しかないという結論だと偏狭さや他人任せを感じるが、フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」のように「神が人間であり、人間が神である」として読むと、信仰の意味が自己対話的になり、主体的に絶望から脱け出す方法が見えてくる
著者の結論
*絶望=自己の病→自己の喪失=神との関係の喪失
*絶望は 精神の領域=自己自身との関係 において起きる
*絶望を通じて、神の前に現存する自己を意識することで 絶望から解放される
人間は 追いつめ -
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ネタバレ読み進めるのが難しい哲学書でした:創世記におけるアダムを通して考察を進める。アダムはもともと無垢であり無知であったため、無限の可能性をもっていた。禁断によってひとつの自由の可能性を目覚めさせ、アダムを不安がらせた。そしてアダムの最初の罪を通して、罪性がアダムの中に入ってきた。罪によって感性は罪性となる。無垢のうちの感性は罪性ではなく、性欲は罪性ではない。人間は霊と肉の綜合であるが、両者を統一するのが精神である。精神は自己に対して不安と関係する。無垢というのは野蛮さのことではなく精神によって規定される無知のことであり、これが不安である。ここには善と悪に関する知識は少しも見られない。現代は神話を
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Posted by ブクログ
死に至る病とは何か、1ページ目をめくった瞬間に答えが出た、と思ったのにそこからが遠かった。
最初が論文口調でいて自分の意見を世の中全てに当てはまるように話しているだけなのか、「自己自身とは自身の自己に関する関係である」云々のようにトートロジーっぽくて抽象的で何を言っているのかわからない。結論から言うと、最初の数ページは飛ばして読むでも大丈夫だった。そして絶望の類型のあたりから意味がわかってくる。
絶望の先にある唯一の救済はキリスト教の信仰にある、という点で相容れないものはあるけれど。貴賎や行動でなく、自分に対する自分自身の認識、意識によって絶望のランク分けがされるという(解説によると実存主義の