セーレン・キルケゴールの一覧
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ユーザーレビュー
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キルケゴールを解説書などではなく、直接読むのは初めてだが、その信仰に身震いした。この歳まで読まずに来たことを悔やむ。つくづく読書は若いうちからはまるべきだ。これまで人生の何分の一かを損した気持ちになった。ただ私のラッキーは聖書に馴染み生きてきたことだ。多くの日本人にとって難解な書と思うが、聖書のバッ
...続きを読むクグラウンドがあることで一文字一文字が沁みるように入ってくる。文体そのものは一見古いが、キルケゴールの言葉運びそのものは、要点が分かりやすく、それをさらに砕いていくのでとても読みやすい。
人間の最初の姿は絶望である。神の前に犯した罪の故にエデンを追い出されて必ず死ぬものとされた人の姿は絶望そのものである。人は可愛い赤ん坊すらも死を抱えて生まれてくる。これだけなら絶望せずにいられようか。キルケゴールの言う死に至る病とはこの絶望のうちに生きる人間そのものであるが、しかし同時に(歴史的時間差はあれど)永遠の命の希望と赦し、救いをもたらすために人となった神が元からおり、その神と離れた状態を指して、さらに踏み込んで病として様々な表現で絶望を説明する。これが第一部である。日本にはキリスト教の神はないからそんな絶望は関係ないと感じる読者も多いだろう。そのような「絶望」の姿も第一部にはしっかりと書かれているからよく読まれたし。
第二部は絶望が神と人を分断するところの罪に置き換えられて述べられていく。罪とは一般に思われている徳の反対としての罪ではない。時々発露し人に迷惑をかけるような罪のことでもない。信仰の反対を罪という。永遠の命にに至る、神が私をあなたを赦したがっているという事実に抗うこと、罪とは行為ではなく状態のことである。
実存主義とはこの書が起点になったと説明されるが、人が死から命に移されていることのリアリティのように思う。
なぜキリスト教は嘘くさく人に伝わるのだろうと思うことがある。キルケゴールの言葉は爽快だ。それはキリスト教界がキリスト教を擁護するからだ。神による実存から自身と真実を切り離し外側に回って擁護するのだ。それは第二のユダである。ユダは接吻から裏切るのだと。
Posted by ブクログ
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死にいたる病
(和書)2011年07月06日 21:43
1996 筑摩書房 セーレン キルケゴール, Soren Kierkegaard, 桝田 啓三郎
キルケゴール「死にいたる病」を読むのは2回目なのです。1回目は何処が凄いのかピンとこなかった。でも今回読んでみて吃驚するぐらいすばらしい作品
...続きを読むだと思いました。
1回目を読んだ時の自分と2回目を読んだ時の自分が全く違う人間に変わってしまったような、新鮮な衝撃を受けました。
読書って1回読んだだけでは読み切れないって強く思いました。前回は必読書だから力が入りすぎたのかもしれない。
カントの啓蒙とキルケゴールの教化が繋がっていてヘーゲルに対している。最初にそこを読んで度肝を抜かれました。
お勧めです。是非お読み下さいませ。
3回目 読みました。
とても凄い作品です。必読書150で柄谷さんの評が載っている。木村敏が統合失調症の世界観を見事に描いていると書いてあり、漸くその意味が解った。カントの言う学問=秩序だった全体の内でみるということが、単独な人間は概念以下にあるということにおいて思弁に抑圧され、それを倫理としてしか見いだせないという次元において見事に学問として捉えられている。凄まじい作品です。何回も再読すべき名著だということを漸く知りました。
Posted by ブクログ
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文章は哲学調で読みにくいが、趣旨は明快。実際、本書が示す段階に沿って一段二段と歩を進め、生きてきた人は少なくないのでは。哲学と馬鹿にさせないだけの見事な現実洞察があると思いました。
Posted by ブクログ
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引用のされ方によるかもしれないけど、その姿勢や感覚は好印象。読み通すのは大変だけど読み通してよかったと思える。前提に対する共感がある程度必要かなと思う。そうでない人には響かないかもしれない。しかし、やはり名のある哲学者だけあり感じたことは有意義だった。
Posted by ブクログ
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絶望は自分が存在するというこの驚異的な当たり前を知ろうとしない、そのこともまた絶望。
絶望ということを知るからこそ、ひとははじめて死というものの存在に驚ける。死に至る病が絶望というのは、生きること死ぬことが、偏に、この絶望から起こるからだ。生に至る病と言ってもいい。存在するということを知ってしまう、
...続きを読む当たり前に驚いてしまう、これが病的だと彼は言う。生きることに自覚的になるとき、それまでと同じように生きることなどできない。死ぬことさえできないと知ってしまうのだ。これを病気と言わずに何と言えばいいのか。
学問的で教化的、彼ははじめにそう言った。
絶望から罪へと至るプロセスとその状態の分析、そして罪から信仰へと向かっていく。絶望や罪を知るということ、そこからすべてが始まる。絶望や罪を知ればおのずと信仰が生まれる。
では絶望を知るとはどういうことか。絶望とは自分がどういうわけか存在してしまうというこの事実。理由などない。どういうわけか、あれではなく、これであるということ。そのことを考えていくと、どうしてあちら側でなくてこちら側なのか、と自分であろうとしたくない衝動が生まれたり、そんなこと考えても仕方ないと思考停止させようとしたりする。そんな風になってしまうのも絶望だ。
自分が存在してしまうということへの絶望は、自分ではない存在、彼曰く「神」の前であるからこそ、起こるのだ。ここで絶望から罪が措定される。自分が自分であるということは、どうにもならないのだと気づける。そうなると、では自分ではないこの存在とはいったいなんだ。絶望の止揚が起こる瞬間。
自分ではない存在を前にして、自分が存在していることに絶望すること、これがあるからこそ、自分ではない存在というものに気付ける。そして、それが分からないと知るからこそ、信じることができる。これは思弁ではなく、どういうわけかそうせずにはいられないという義務的なものだ。わからないけど、自分がいてしまう以上、信じないわけにはいかないのだ。
絶望し、罪の在り方を知れば、すなわち信仰するはずであるのに、どういうわけかできない。それは、神という存在自体が躓きを含むものであるからだ、と彼は考える。自分が自分であり、それが神によって裏付けられているがゆえに、ひとは、神なんて胡散臭いとか、今がよけりゃそれでいいとか、神は神だから自分とは関係ないなどと躓くのである。そして、この状態にとどまっていることこそが、罪なのだ。新しく罪を重ねることが罪なのではなく、罪が罪であるということ自分が存在しているということを知ろうとしない、この無知こそが罪なのだ。
ヘーゲルの弁証法を彼は別に打ち壊そうとしていない。むしろ彼は積極的に弁証法でもって考えている。ヘーゲルの哲学で彼が不満だったのは、信じるということをどうしてすべてのひとが成し遂げられないのかという点を知りたかったからなのだと思う。起こるべくことだけが起きている。ならば、どうして信じることができないひとがいてしまうのか。それゆえに、信じることをほんとうに成し遂げるひとは病的だというのだ。ヘーゲルの哲学は宗教ではない。どうも考えたらそうなっているとしか言えない、そういうものなのだ。信じないひともいる。それもまた起こるべくして起きているのだ。
キルケゴールが学問的で教化的というこの著作は、ある意味で彼の絶望であるとも言える。
Posted by ブクログ
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