【感想・ネタバレ】死に至る病のレビュー

あらすじ

「死に至る病」とは絶望のことである。本書はキェルケゴールが絶望の暗黒面を心理学的に掘りさげつつ、人間というものの本質を激しく追求したものであるが、繊細深刻をきわめる絶望者の心理描写の中には、多分に著者自身の自己分析と自己告白とが含まれている。ここに著者の哲学的思索の根本的な特色がある。

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Posted by ブクログ

実存主義の創設者と言われる哲学者キェルケゴールの主著。

死に至る病とは、要するに絶望(死にたくても死ねない状態)のことで、これを解決するには信仰しかないとのこと。

読み始めて、早速このような難解な書を読むためにはどうすれば良いかという問題に直面したので、無理矢理にでも自分自身の問題に置き換えるという方法で読み進めた。

まずは第一編の以下の冒頭は「自己」に別の言葉を入れることで、読者各々の実存(生きるとはどういうことか)を取り出すことが可能だと思った。

「人間とは精神である。精神とは〇〇である。〇〇とは〇〇自身に関係するところの関係である」

(私は〇〇に「運命」や「笑い」を当てはめて読み進めてみた)

また、絶望は以下の4パターンに区分されるとのことだが、自身はどれに当てはまるか考えながら読んだ。

※念のためパターンを記載しますが、これだけでは意味不明。

①無限性の絶望は有限性の欠乏に存する。
②有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。
③可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。  
④必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。

私は③だったが、③は現実を生きておらず夢想ばかりしている人向けである。

夢想している人間が現実に戻ってくる時に現実に必然性を持ち合わせていなければ、生きることができず、また夢想へと向かうのである。

最後に最も重要だと思うことは、本著を書いた当のキェルケゴールが絶望していたということである。

彼の父親は子供達は若くして死ぬと信じており、キェルケゴールに「可愛そうな子よ、お前はやがて絶望のなかに陥る」と言い放ち、幼く柔らかい心に呪いをかけた。
(実際に7人兄弟の5人は早死にし、1人は精神病で入院した、キェルケゴールは街中で倒れ死ぬ)

またキェルケゴールは突然に愛していたレギーネとの婚約を破棄し、レギーネは思い留まるように彼に泣きついたが、結果絶縁した。

そして怠慢なデンマーク教会に改革を求め、教会闘争中に道ばたで倒れて42歳で死んだ。

元来の自意識、父親の呪い、愛する人との絶縁、腐敗した教会。彼はこの絶望から救われたのだろうか。幸せだったのであろうか。

少なくとも彼は自殺していない。精神病で寝床に伏してもいない。(それは決して悪いことではないが)

彼は背後に存在する絶望を決して人生に連れて行こうとせずに、むしろ周り右して、信仰とその知性を持ってして絶望に突進しに行った。

その凄まじい程の衝突は意図せず、キリスト教から実存主義を生んだ。(キリストが意図せず、ユダヤ教からキリスト教を生んだように)

ここで、ミラン・クンデラの小説「存在の耐えらない軽さ」の言葉を引用したい。

「悲しみは形態であり、幸福は内容であった」

「絶望は形態であり、幸福は内容であった」という現象もあり得るのではないか。そして、その幸福とは「生き抜いた幸せ」ではないだろうか。(キェルケゴールはそれを信仰と呼ぶだろう)

読者の私自身、物心ついた頃から現在に至るまで希死念慮と友達だが、そういう意味ではキェルケゴールは絶望の大先輩である。

しかし、私は知性も信仰もない。
どうすれば良いのだろうか。

ただ、確かに分かっていることは自分より遥かに絶望した人間が、この世界には間違いなく存在したということである。

それが分かっただけでも、だいぶ良い。

★追記
本書には次のような文章が出てくる。
「罪は無知である。これが周知のようにソクラテス的な定義である。」

無知は罪?ソクラテス、こんなこと言っていたっけ?と調べてみると、案の定キェルケゴールのお手製だった。やってるな、キェルケゴール(笑)

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2024年09月24日

Posted by ブクログ

キルケゴールを解説書などではなく、直接読むのは初めてだが、その信仰に身震いした。この歳まで読まずに来たことを悔やむ。つくづく読書は若いうちからはまるべきだ。これまで人生の何分の一かを損した気持ちになった。ただ私のラッキーは聖書に馴染み生きてきたことだ。多くの日本人にとって難解な書と思うが、聖書のバックグラウンドがあることで一文字一文字が沁みるように入ってくる。文体そのものは一見古いが、キルケゴールの言葉運びそのものは、要点が分かりやすく、それをさらに砕いていくのでとても読みやすい。

人間の最初の姿は絶望である。神の前に犯した罪の故にエデンを追い出されて必ず死ぬものとされた人の姿は絶望そのものである。人は可愛い赤ん坊すらも死を抱えて生まれてくる。これだけなら絶望せずにいられようか。キルケゴールの言う死に至る病とはこの絶望のうちに生きる人間そのものであるが、しかし同時に(歴史的時間差はあれど)永遠の命の希望と赦し、救いをもたらすために人となった神が元からおり、その神と離れた状態を指して、さらに踏み込んで病として様々な表現で絶望を説明する。これが第一部である。日本にはキリスト教の神はないからそんな絶望は関係ないと感じる読者も多いだろう。そのような「絶望」の姿も第一部にはしっかりと書かれているからよく読まれたし。

第二部は絶望が神と人を分断するところの罪に置き換えられて述べられていく。罪とは一般に思われている徳の反対としての罪ではない。時々発露し人に迷惑をかけるような罪のことでもない。信仰の反対を罪という。永遠の命にに至る、神が私をあなたを赦したがっているという事実に抗うこと、罪とは行為ではなく状態のことである。

実存主義とはこの書が起点になったと説明されるが、人が死から命に移されていることのリアリティのように思う。

なぜキリスト教は嘘くさく人に伝わるのだろうと思うことがある。キルケゴールの言葉は爽快だ。それはキリスト教界がキリスト教を擁護するからだ。神による実存から自身と真実を切り離し外側に回って擁護するのだ。それは第二のユダである。ユダは接吻から裏切るのだと。

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2021年12月20日

Posted by ブクログ

文章は哲学調で読みにくいが、趣旨は明快。実際、本書が示す段階に沿って一段二段と歩を進め、生きてきた人は少なくないのでは。哲学と馬鹿にさせないだけの見事な現実洞察があると思いました。

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2020年09月19日

Posted by ブクログ

引用のされ方によるかもしれないけど、その姿勢や感覚は好印象。読み通すのは大変だけど読み通してよかったと思える。前提に対する共感がある程度必要かなと思う。そうでない人には響かないかもしれない。しかし、やはり名のある哲学者だけあり感じたことは有意義だった。

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2017年12月18日

Posted by ブクログ

絶望は自分が存在するというこの驚異的な当たり前を知ろうとしない、そのこともまた絶望。
絶望ということを知るからこそ、ひとははじめて死というものの存在に驚ける。死に至る病が絶望というのは、生きること死ぬことが、偏に、この絶望から起こるからだ。生に至る病と言ってもいい。存在するということを知ってしまう、当たり前に驚いてしまう、これが病的だと彼は言う。生きることに自覚的になるとき、それまでと同じように生きることなどできない。死ぬことさえできないと知ってしまうのだ。これを病気と言わずに何と言えばいいのか。
学問的で教化的、彼ははじめにそう言った。
絶望から罪へと至るプロセスとその状態の分析、そして罪から信仰へと向かっていく。絶望や罪を知るということ、そこからすべてが始まる。絶望や罪を知ればおのずと信仰が生まれる。
では絶望を知るとはどういうことか。絶望とは自分がどういうわけか存在してしまうというこの事実。理由などない。どういうわけか、あれではなく、これであるということ。そのことを考えていくと、どうしてあちら側でなくてこちら側なのか、と自分であろうとしたくない衝動が生まれたり、そんなこと考えても仕方ないと思考停止させようとしたりする。そんな風になってしまうのも絶望だ。
自分が存在してしまうということへの絶望は、自分ではない存在、彼曰く「神」の前であるからこそ、起こるのだ。ここで絶望から罪が措定される。自分が自分であるということは、どうにもならないのだと気づける。そうなると、では自分ではないこの存在とはいったいなんだ。絶望の止揚が起こる瞬間。
自分ではない存在を前にして、自分が存在していることに絶望すること、これがあるからこそ、自分ではない存在というものに気付ける。そして、それが分からないと知るからこそ、信じることができる。これは思弁ではなく、どういうわけかそうせずにはいられないという義務的なものだ。わからないけど、自分がいてしまう以上、信じないわけにはいかないのだ。
絶望し、罪の在り方を知れば、すなわち信仰するはずであるのに、どういうわけかできない。それは、神という存在自体が躓きを含むものであるからだ、と彼は考える。自分が自分であり、それが神によって裏付けられているがゆえに、ひとは、神なんて胡散臭いとか、今がよけりゃそれでいいとか、神は神だから自分とは関係ないなどと躓くのである。そして、この状態にとどまっていることこそが、罪なのだ。新しく罪を重ねることが罪なのではなく、罪が罪であるということ自分が存在しているということを知ろうとしない、この無知こそが罪なのだ。
ヘーゲルの弁証法を彼は別に打ち壊そうとしていない。むしろ彼は積極的に弁証法でもって考えている。ヘーゲルの哲学で彼が不満だったのは、信じるということをどうしてすべてのひとが成し遂げられないのかという点を知りたかったからなのだと思う。起こるべくことだけが起きている。ならば、どうして信じることができないひとがいてしまうのか。それゆえに、信じることをほんとうに成し遂げるひとは病的だというのだ。ヘーゲルの哲学は宗教ではない。どうも考えたらそうなっているとしか言えない、そういうものなのだ。信じないひともいる。それもまた起こるべくして起きているのだ。
キルケゴールが学問的で教化的というこの著作は、ある意味で彼の絶望であるとも言える。

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2016年04月09日

Posted by ブクログ

「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である。」有名な冒頭文だがこれだけ読んだ時点でさっぱり分からないが、読み進めていくと何となく分かるような分からないような・・・。
実存主義者の先駆けとなったデンマークのキェルケゴールの「キリスト教」における「罪」や「絶望」そして、「自己」の「関係」ということを深く考察している。
死に至る病と言うのは、それでは決して死ねない病、死ぬに死ねない病を指す。それがちょうど「絶望」と呼ばれるものである。死ぬに死ねず、絶えず死に面し死に至りながら永遠に死を死ななければいけないということなのである。
キリスト者にとって、死という最後の希望さえも遂げられない希望が失われているのである。
絶望している当のものは、地上的なるものではなく、自己自身である。永遠なるものと自己自身を失ったという絶望である。
また、「絶望とは罪である」ということが云われ、様々な様態の罪の考察が行われる。罪とは、人間が神の前に絶望的に自己自身を欲しないとこないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである。キェルケゴールはここで「神の前における自己」ということを言う。
罪のソクラテス的定義は、無知であるということ。その定義の難点は、それが無知そのもの、無知の根源等々を更に立ち入って行かに理解すべきかを向規定にしている部分にある。罪とは、神の啓示によってどこに罪の存するかが人間に明らかになされた後に、人間が神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないことないしは絶望して自己自身であろうと欲することである。
悔い改めざる瞬間における新しい罪もある。躓きやキリスト教の廃棄という罪についても。
キリスト教界の根本的な不幸はキリスト教である。
彼は、「個体的な人間、罪人」のみがキリストにおいてある神の前に生きていると述べる。各人を個体にして、そこからキリスト教は始まるという逆説を彼はとくのである。

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2013年08月05日

Posted by ブクログ

―自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。

人が全く絶望していない状態を叙述したキルケゴールさんの定式である。

キルケゴールさんはほとんど全ての人間は絶望していると言う。絶望していない人はほとんど存在しない。存在しているとしたら上記の定式に当てはまっているというわけである。

この本では絶望の様々な形態が抽象的かつ具体的に細かく描写されている。それぞれの絶望が目に浮かぶ。
何も考えることなく日々の辛い日常に埋没している人、単に享楽に浸り込んでいる人、世の中を恨み引きこもっている人、自分は成功者と人々にもっともらしい説教(最近はネットの発展でFacebookやTwitterで持論を展開していることも含まれるかな?)をしている人、企業家、政治家、仕事に疲れたサラリーマン、夫に愛想を尽かした妻、そしてなんとこの私自身もこの本のなかに見事に描写されている。

キルケゴールさんはこの本を教化のための著作といい、教化とはもちろん表面上はキリスト教を信仰しなさいという意味なんだけど、そして、この本の結論としては、これまた表面上は絶対に何等の絶望も存しない状態になるためには信仰するしかない…というものではあるのだけれど、わたしには実のところキリスト様は関係ないのじゃないかと思う。

脳が脳を見ることができないように、世界を見る自分という存在がその見る対称たる世界に含まれているという矛盾から生まれる叙述の不可能性ゆえに、脳の中でのグルグル回しの無限性ゆえに、不可能を可能にする、無限を体現する神を仮定せざるを得なかっただけなんじゃないかと…

しかし、もう、ヒッグス粒子も見つかり、相対性理論は普通に携帯電話に用いられ、宇宙は膨張し、空間は時間から生まれることも記述される今となってはキリスト様を持ち出すまでもなく、とどまることのないとは言え、種々の事情によって個人的に限定された己の可能性を掴みとり、その可能性を具体的に現実化していく努力をすればいいのじゃないかと…

「あなたはあなたでしかないでしょ。この世にはあなたはあなたただ一人。あなたしかいないでしょ?そんなあなたには可能性があるでしょう?どんな人にも可能性はあるのよ。だって、すべては変わっていくんですもの。あなただって変われるの。今のまんまでいいわけ?そうじゃないんでしょう?だったらできることをやったらいいじゃん。できないことでもやってるうちにできるようになるかもしれないでしょ。いや、できるようになるものなのよ。やり方が間違ってなければね。それがあなたの可能性なんじゃない?頭ばっかで考えてたら、現実から浮き上がって彷徨っちゃうよ。地に足つけて。あなたを生きられるのはあなただけなの。だから、気を取り直して。できることをコツコツと。あなたには変われる可能性があるの。それも自らの望みで。人間ってそういうものなのよ。人間ってそうやってそみんな世界を変えてきてるの。だからね、もう一度言うけど、できることをコツコツとね。」

というようなことを言いたかったのじゃないかと思われた。

キルケゴールさんの
―自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。
とは、
―できることをコツコツと…
と同じ意味だと、わたしは解釈した。

その結果、わたしは「あぁ~やっぱり、これでいいのかな…」と自分勝手な解釈だとは思いながらも安心するのでした。そのように安心できるのも、キルケゴールさんがものすごい迫力で面倒くささを厭わずに時代を超えて人類の心の奥に通底するなにものかを伝えようとしてくれたからなんだと…
爪の垢でも煎じて飲みたい気分であります。とは言え、まぁ~できることをコツコツと…ですね。

Mahalo

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2012年07月28日

Posted by ブクログ

死に至る病=絶望として、
キリスト教の観点から徹底して絶望を見つめる。
絶望が罪であるということ、
その罪がキリスト教にある原罪と関係があることなど、
深い考察が行き渡っている。
僕らが口にする絶望という言葉が、
どれだけ多面性を帯びているか、
それを知るだけで、暗闇に目が慣れていくように、
絶望を冷静に見渡せるようになれるとも思う。

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2012年01月06日

Posted by ブクログ

 いかに生きるか。絶対的な可能性という永遠者を見つめ、それに対する内なる永遠者(つまり自己)の声を聞き、その声に従って生きよ。それこそが神に近づく信仰者の道であり、真の生き方である。
 
 絶望について書いたものでありながら、そこを端緒に人間とは何か?自己とは何か?生きる意味とは?といった疑問に答える道筋を丹念に示している。
 
 信仰者キェルケゴールの著した全人類必読の啓蒙書。

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2011年08月22日

Posted by ブクログ

大学1年の6月頃に読んでた気がする。
色々と付き合いや家庭の事が原因で4年間ほど湧いてた鬱な感じを、CLASHの「London Calling」のジャケットのギターのようにぶち壊してくれた。
バカみたいだったよ、長い間抱いてた思いが数時間で壊されちゃったんだもん。
今思い返すと、この本がきっかけで実存主義哲学に興味が湧いたんだったな。

題名にたじろぐ人も居るかもしれないけれど、人の血が通ったとっても温かい本でした。

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2011年07月16日

Posted by ブクログ

人はいつも頭の中で自分のあるべき姿というものを作り出し、それになろうとする。しかし、「いまここにあるがままの自分」は決してその像とひとつになることはできない。

あるべき自分像は、内心の要求でもあれば、社会や周囲の人々の要請から作り出してしまうものでもある。これに重なろうとすることは、長期的に自分の人生をどこにも連れて行ってはくれない。その場しのぎで向きの変わる、目的を持たない風である。

決して達成できないこと、達成できたとしても自分をどこへも連れていってくれないこと。そんなことに向かって努力を積み重ねている生が絶望(=死に至る病)である。キルケゴールは、この絶望は自覚の有無によらずそこにあるもので、自覚した人は一面では不幸だが、そこから立ち上がるなら、自覚さえしない人よりも幸福である、と言う。信仰の始まりは、自分こそ何よりもどうしようもない者であると知ることであり、その好機によって、阿弥陀仏による救済ははじまっている、という嘆異抄の不思議な一節に重なる。

文化も時代も越え、古くから蓄積されてきた人の心、人生についての普遍的な知恵の存在を感じずにはいられない。根っこの部分ではとてもよく似ている。


思考は、あるべき自己像を作り出す。考えられる限り自由に、都合の悪いことからは目を伏せて。

まず、本当の自分を見つめること。そして世界を見つめること。この2つは一つのことである。世界から自分が知れ、自分から世界が作られる。その中間に立てられた自己像は、この今ここにいる自分と世界(キリスト者である著者は神と呼ぶ)、最小と最大の「自分」の中に溶かしてしまう。

その中で、自分というのは自己像のようになんでもありの自由なものではなく、ある不可能と可能を、必然と可能性を等しく与えられ、ある形を持った働きとしてこの世にあるはずである。この「必然」こそが重要で、これが自分に与えられた「場所」なのだという。この、世界と自分との関係によって定められ与えられた場所を無視して、抽象的に自分像というものを描くことが絶望なのだ。本当の自分というものに近づいたなら、それは自ら欲したり意思するのと同じくらい、何か大きな世界によって定められ、導かれていると感じるものであるらしい。そしてそれは、ひとつの限定、規定であるにもかかわらず、忌々しい拘束であるよりもむしろ、安心して身を委ねられる大きな流れとして感じられるようで、これがどうやらかつて「神」「信仰」の意味していた深いものである。

鈴木大拙いわく、東洋的にいう「自由」とは「自ら」に「由る」こと、自らが備え持った形に従った働きが十全に出ることで、制約からの解放や、なんでもありのことではないそうだ。この東洋的自由にとても近い呼吸がここにある。

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2011年06月01日

Posted by ブクログ

世界を認識する“私”という存在。西洋哲学の中でそれに眼を向ける実存主義。まず、題名に衝撃を受けました。
キルケゴールはキリスト教における神を通して、己の存在を受け入れる、ということになりますが、キリスト教に限らず、その“神”を別のものに置き換えて、己のあり方、それを考えるきっかけになる本でした。
の存在を受け入れ、社会との関わりを、その責任を全うする事――
それを放棄してしまうことが“死に至る”事でした。

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2014年05月28日

Posted by ブクログ

過去課題本。文句なしの名著だが。キリスト教に興味のない人や、キリスト教に悪イメージを持っている人には、無意味な本でもある。

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2024年12月25日

Posted by ブクログ

さて、読み終わったが、かなり分からなかった。キリスト教的価値観についてはこれまでかなり勉強してきた筈だったがそれでもこの本には分からない表現が多かったし、哲学書としてはニーチェのツァラトゥストラのように詩的表現をされている訳でもないにも関わらずそれ以上に難解だった。

かろうじて私が受け取れた表現で面白かったところをいくつか。

◎想像力とは無限化するところの反省である→→自己とは反省である→→想像力とは反省であり、即ち自己の再現であり、したがって自己の可能性である。
…想像力(ファンタジー)を巡らせることとはつまり自分について反省することであり、逆説的に自分とは反省によって形成されているという考え。直感的にこれはかなり真理に近づいた考え方に思える。


◎彼は自己自身であろうと欲しないことを仕事として時間をすごしているのであるが、それでいてその自己自身を愛しているほどに十分に自己なのである。
…これはとてもアイロニックな考え方で好きだ。人は理想の自分を求める故に今の自分ではないものになりたい、変わりたいと欲して生きているが同時にそれは自己愛であり、十分に利己的な考え方なのだ。


◎何故なら異教徒は自分の自己を神の前にもっていないからである→→異教徒は最厳密な意味では罪を犯したことがないというのもまた真なのである、なぜというに彼は神の前で罪を犯したのではないのであり、そしてあらゆる罪は神の前で起こるものだからである。
…宗教学的にはこの部分が一番興味深かった。ダンテのキリスト教観でいうと異教徒は全員罪人であり決して天国にはいけない。しかし実存主義的キェルケゴールの立場から見た宗教観では、罪という概念そのものが神の前で起こるものであり、(キリスト教的)神の存在しない異教徒にとっては罪という概念そのものがないのである。これはとてもキリスト教主体の考え方で実際には宗教ごとにそれぞれの「罪」が存在するだろう。しかし、罪という概念そのものが何らかの社会的な相対によって生じるもので、本質的に突き詰めてしまうとこの世に存在し得ないのだという考えはザ・実存主義って感じでおもろい。


今回の読書で読み解けなかった部分もいずれ再読して理解を深めてみたい。

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2023年02月16日

Posted by ブクログ

絶望とは
・自分の外側に自己を向けること
・自分自身の責任から逃げること
・自分への被害者意識

自分を信じ、自分の責任は自分で取る。
分かっているけど、できていなかったな。

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2021年09月19日

Posted by ブクログ

ネタバレ

自分の内面と徹底的に向き合うみたいなところの真剣さがすごかった。の対象がキリスト教の神であるところはかなり正統派(保守派?)な感じがするけれど。
自己意識との葛藤、どう自己意識を高めても私たちは、一人のただの人間で、不完全性から逃れられることはない、けどだからと言って、それを止めてしまうんじゃなくて、絶望を極めつつも、自分の意識と向き合い続けようとすることこそが、まさに弁証法的な生き方―彼の場合は、罪を贖う唯一の生き方―なんだ、ということを言っているのかと理解する。それには、信じること、とにかく絶望に負けない希望みたいなものの存在が必要ということにもなる。

ちょっと違うと思うけれど、理想と現実のギャップ、みたいな似たような葛藤はみんな今もあると思うし、それをじゃあどうやって受け入れて、自分自身と付き合っていくか、みたいなところがあると思った。

でも個人的には、内面に陥りすぎると、社会との接点というか、現実の物質的な部分が見えなくなりそうなので、バランス大事と思った。いろんな思想や信仰を持つ人とどう社会を作っていくか、という部分もめちゃ大事やと思うし。
分かったような感想書いてますが、まあそう簡単には理解できない部分がありました。

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2020年05月10日

Posted by ブクログ

市民革命・産業革命が進む中、人々は自覚のあるなしに関わらず、人間中心の近代的なものの見方を身につけつつあった。キルケゴールは、そうした近代のものの見方にとらわれることなく、信仰へ飛躍しなければ、自らが本当に生きるということにはならないと説き、それに対してニーチェは、信仰にも近代的なものの見方にもとらわれるな、と説いているように思われる。本書は全編、信仰への飛躍を妨げるメンタリティを彼独特の仕方で分類整理し、その有り様を執拗に描き出そうとする。とても読みにくい。そして最後には、言葉で説明できるようなものは、信仰ではないというようなことも言う。やっかいではあるが、様々なメンタリティの描写には見るべきものがある。

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2019年12月06日

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死に至る病とは絶望であるとキルケゴールは言う。

しかも、絶望しない人間はいないとも言う。

世間一般に言われる、願いが叶ったとか、よい人生だったとかの幸福を彼はことごとく否定する。

その追い詰められた状態から、何が幸福かを見いだせるのか。

その答えは、読み取ることができなかった。

ただ、自分の欲望を満たしたり、世間の言う幸福に追従したのでは、真の幸福に巡りあえないばかりか、絶望から抜け出すことすらできないということを理解した。

資本主義、契約社会の中では、一つの失敗が自らの人生を破滅に追い込む。

だから、いつも転落の恐怖に晒されながら、おそるおそる生きている自分がいる。

その姿は、幸福ではないという確信を持つに至った。

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2012年06月18日

Posted by ブクログ

斎藤信治先生が一番よく取り上げておられた本だと思う。病気になった友人にこの本をお見舞いにあげたのは、上梓されたばかりの頃だったからだろうが、「死に至る病」は決して死ぬことはないのだから縁起がいいのだ、と強弁したという話は何度聞いても笑えたものである。

しかし、この本の本質をよく表しているし深いのではないか。その後「死に至る病」を斎藤流に解釈した話は聞かない。みんな浅いなあ。

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2019年01月16日

Posted by ブクログ

宗教観を前提にしているところは宗教だなあと思うだけなのだけれど、自身らをまさに擁護するために対比せられる世間や異教徒への眼差しがなんというか思いのほか俗っぽくて、それのほかにもたとえば自己喪失のくだりなんかも書かれていることがあまりにも当たり前で、まあそのあたりはエッセイでも読むような気で読み進めたけれども、第二編にはいっていよいよ宗教色が強くなるとさすがにどうでもよくなってきてしまった。

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2023年03月02日

Posted by ブクログ

翻訳されたものとはいえど、哲学者の書いた哲学書そのものである為、読み進めるにはそれなりの時間を要すると思った方がいい。哲学研究者などの専門家でもない限りは、キルケゴール哲学の解説書または入門書を読んでおけば十分なように思う。

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2022年03月27日

Posted by ブクログ

・絶望とは自己を見失うこと
・誰にでも絶望はある
・絶望を超えるには、信仰すること。
・信仰→ 自分を信じて、自分の責任で選択していくこと。
・自己は人との関係の関係にある。
・人の生きかたは、感性的に生きるか、倫理的に生きるか
・感性的に生きることは外部からの影響を受けて流されるので自分を見失う
・倫理的に生きる事で、自分で内省しながら自分の判断で生きていく
・著者は現存主義。

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2021年02月27日

Posted by ブクログ

キェルケゴール 「死に至る病」

絶望について論じた本。死に至る病=絶望=地獄 として、キリスト教による救済につなぐ構成


絶望から解放されるにはキリスト教による救済しかないという結論だと偏狭さや他人任せを感じるが、フォイエルバッハ 「キリスト教の本質」のように「神が人間であり、人間が神である」として読むと、信仰の意味が自己対話的になり、主体的に絶望から脱け出す方法が見えてくる


著者の結論
*絶望=自己の病→自己の喪失=神との関係の喪失
*絶望は 精神の領域=自己自身との関係 において起きる
*絶望を通じて、神の前に現存する自己を意識することで 絶望から解放される
 
人間は 追いつめられて、いかなる可能性も存在しなくなって初めて、一切が可能である 神の存在を認識できる

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2021年01月20日

Posted by ブクログ

死に至る病とは何か、1ページ目をめくった瞬間に答えが出た、と思ったのにそこからが遠かった。
最初が論文口調でいて自分の意見を世の中全てに当てはまるように話しているだけなのか、「自己自身とは自身の自己に関する関係である」云々のようにトートロジーっぽくて抽象的で何を言っているのかわからない。結論から言うと、最初の数ページは飛ばして読むでも大丈夫だった。そして絶望の類型のあたりから意味がわかってくる。
絶望の先にある唯一の救済はキリスト教の信仰にある、という点で相容れないものはあるけれど。貴賎や行動でなく、自分に対する自分自身の認識、意識によって絶望のランク分けがされるという(解説によると実存主義の始まりだという)考え方、現在の自分に対する現実逃避や思考停止こそがもっとも絶望的で、罪なのだという考え方には我が身を思わず振り返りました。キルケゴールの理想は、青年期にあるのかしら。感受性豊かで想像力を持ち、常に意識を高くもっていたいものです。

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2018年12月02日

Posted by ブクログ

正直な話、もう一人翻訳者を挟みたいくらい何言ってるのかよくわからない所が多かった。
絶望していると思っているが筆者のいう絶望に全く当てはまらないどころか絶望状態に酔ってるだけの人に対する皮肉っぷりはぶっ飛ばしててすがすがしくもある。
要は敬虔なクリスチャンが、真に神を信じていないようなファッションクリスチャン❨牧師も含む❩に対して思ってる諸々鬱憤なんかを書いているという気もしないでもない。というのが個人的な感想。

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2018年05月18日

Posted by ブクログ

現代人にも通じるものがあるし、自分自身に通じるものがあって面白かった。(第一章までは辛うじて理解できた)
筆者は人より頭が良かった分きっと生きづらかっただろうなと思う。

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2017年09月07日

Posted by ブクログ

自己とは何であるか、人間の精神世界の細かくも絶望的な考察。
全編を通してキリスト教色が濃いが、特に第二編においては顕著である。

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2013年08月02日

Posted by ブクログ

はっきり言ってものすごく難解。
これ研究してる人は骨が折れるだろうな・・・。
新約聖書の”ラザロの死”について冒頭で触れ、人間の3種類の絶望とその変容、神の前における在り方を説く。
どことなく心理学っぽい側面もあったり。

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2012年06月08日

Posted by ブクログ

10年ぶりの再読。
冒頭わけわかんないけど、気にせず読み進めるとほんとおもしろい。
死に至る病=絶望(=罪)に対して、人が取りうるのは延々と続く撤退戦。この不可避的な撤退戦それ自体が絶望でもあり、この先に信仰が存在する。
続編的な「キリスト教の修練」では、「死に至る病」をさらに推し進めて、キリスト者としての苛烈なまでの信仰を説いていてこれも刺激的。

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2012年04月06日

Posted by ブクログ

とにかく難解だった。
有限性と無限性、可能性と必然性をもとに絶望を定義しありするアプローチは面白いと感じたし、論理的に説明されていて読み込めば分からないことはなかった。
ただ、言葉遊びみたいに持論を述べたりするのでとにかく厄介。
最初に読んだときは絶望を禁じ得なかった。
あくまでキリスト教が基盤になっているから、その辺の知識とか歴史的背景をもって知っていれば理解しやすかったかも。

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2011年07月01日

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