Posted by ブクログ
2018年02月11日
黒船の来航してからというもの、どうも弱腰を隠せない徳川幕府は
鎖国にこだわる朝廷をなだめるのでずっと手一杯だった
その間
新しい日本の主導権を握ろうと、野望を燃やす薩摩・長州は
勝手にイギリスと組み、近代的な軍事力を得て
大政奉還・王政復古を成し遂げたあとにも飽きたらず
旧幕府殲滅計画を着々とすすめ...続きを読むていた
そんな薩長を、朝廷も支持したというのは要するに
強いものになびいただけの話
…というのでもなくて
婚約者を将軍に奪われた人の私怨が大きく絡んでいたらしいのだが
いずれにせよ朝廷が
現実の武力に対してなすすべのなかったことに変わりはなかった
しかしそれでも…いや、だからこそ
旧幕府派の志士たちはあくまで尊皇の立場を重んじ
賊臣薩長を打ち倒すという大義名分のもとに結集したのである
それが彰義隊の誕生だった
その頃、徳川家の墓所を守る寛永寺では
皇族出身の、輪王寺宮が山主を勤めていた
徳川と関係が深く、江戸が戦火に包まれることを望まない輪王寺宮は
進入した薩摩武士から治安を守っている彰義隊を
非常に好ましく思っていた
しかし、あくまで江戸の完全支配を目指す新政府は
大村益次郎を擁し、彰義隊壊滅のための戦をしかけた
彰義隊は、寛永寺のある上野東叡山を拠点に抵抗したが
あえなく敗走した
輪王寺宮も、そこを脱出するしかなかった
その際、人目につくことを避けるため
彰義隊隊士からの警護の申し出はすべて断った
例えば、最後まで兵たちと運命を共にした西郷隆盛に比べ
それは冷たい対応だったかもしれない
…などと思う読者がいてもおかしくはないが
貴人だからそういうもの
輪王寺宮に西郷のようなロマンチシズムはなかった
ただ、宮の場合は
私情混じりの動機で他者をひたすら排除しようとする者たちへの怒りが
抵抗の理由になった
その怒りによって彼は武士階級と結びついていた
同じく私情を振り回していることに変わりないとはいえ