Posted by ブクログ
2017年07月01日
林真理子「正妻」からのリンクで本棚に入れる。
倒幕から明治維新、激動の時代を生きた13代将軍家定の妻篤姫。薩摩藩今和泉家に武士の娘として生まれ、18歳で藩主島津斉彬の養女となり、一橋家慶喜を次期将軍にとの密命を受けて江戸城に送り込まれる。公家にせよ武家にせよ、上流社会の結婚はほぼ政略婚。恋愛感情...続きを読むなど感じるまもなく結婚させられ、婚家に入るともはや実父母に会うこともままならない。ましてや将軍の正室ともなると自分の時間などありもしない。トイレに行くとき寝るときにまで見張り番がついているそうな。男子禁制の大奥は女性ばかり3000人の大所帯。贅沢三昧の日々とはいえ、自分勝手にできる時間などかけらもない。部屋の端に寄って庭を眺めるとこともとがめられたとある。ほんと武士って上下関係やしきたりがめんどくさそう。
体とおつむが弱いという家定は「おわたり」も少なかったが、寝床を共にしても男女の行為に至ることは決してない。(そんな時にも控えの間にはおつきの者が…)そんな薄~い関係でも夫婦の絆はお互いに感じていたはず。同じ敷地内に居ながらにして病気の夫を見舞うことも、死に目に会わせてもらうこともできなかったのはさぞ無念なことだったかと思う。
そしてこの小説の見どころ(読みどころ)は十四代将軍家茂の正室和宮との確執。自分の実母を京都から江戸に連れてきて大奥内に住まわせているその甘ったれぶりと、何かにつけ公家流京都方式で生活しようとする和宮にきりきりする篤姫は大奥関連小説の大スターだ。
しかし、崩れかかっている徳川家をなんとかして守りたいという意気込みは男子以上だ。さすが武士の娘、根性が違う。天下を取った新政府の薩摩藩から戻ってこないかという誘いにも乗らず、お金に困ってるはずなのに島津家からの年三万両の申し出も断り、徳川をつぶした人たちの情けは受けないというまさに武士の中の武士。江戸城明け渡しと同時にさっさと京都へ戻った和宮とは根本が違う。
身も心も徳川に忠誠を尽くす篤姫にとって、部下を捨てて逃げてきた慶喜のことは相容れられないのでしょう。幕府を崩壊させたのは慶喜のせいだと思っているし、家茂は慶喜に暗殺されたと信じて疑わない。徳川宗家の人間は決して慶喜の一族と婚姻関係を結んではならぬとの遺言を残し、48歳でこの世を去る。
篤姫が亡くなった翌明治17年、家族令が定められ、日本の華族に公侯伯子男の称号が贈られた。徳川宗家は筆頭の公爵、三家(水戸、尾張、紀伊)三卿(田安、清水、一橋)もそれぞれ侯、伯を受け、慶喜の四男は男爵となった。…そして話は「元華族たちの戦後史」(戦後の華族没落史)へと流れていく。