サド
過激過ぎて笑える。悪などくだらぬ。善もくだらぬ。神もいらぬ。個人の欲望こそが全て。弱者から全てを奪え。自然に従い自らの欲望を満たすことだけに熱狂せよ。
ランボー
ランボーの詩人論
ランボーの詩人論はデカルトの「我思う故に我あり」に従い、私がーーを考えるという態度に真っ向から反対するとこから
...続きを読むはじまる。言葉は自身が生まれる前に存在し、特定の人物の所有物ではなく、誰かのものである。なので、言葉に準ずる思考も誰かのものであり、それゆえに、誰かが私の中において考える、つまりデカルト的な「私は私」ではなく「私は一個の他者」という態度をとる。ちなみに、この「私は一個の他者」という態度=人が私において考える状態=あらゆる感覚の長期的な広範囲にわたる論理に基づいた錯乱の状態=他者の訪れに向けて自らの不在を全面的に開きながら定義した自己同一性に揺さぶりをかける状態=「見者」なので、以後は「見者」と省略する。この「見者」の状態では「私は私」の状態には感知することができない、「未知なるもの」を感知することができる。尚、「未知なるもの」は「火を知らない人にとっての火」のようなものだとランボーは例示している。詩人の使命は、この「未知なるもの」を言葉(詩人のみが持ち帰ることのできる未知の言語)として持ち帰り、その「未知なるもの」の量を把握し、増幅させることで「規範をはずれたもの」まで昇華させた後、万人が五感をもって受容できるような言葉に加工することだと結論している。尚、「規範をはずれたもの」とは、思考の手続きや着実な進歩によって決して到達できないものを指す。また、「私は私」という態度の詩人を批判し、次の痺れる名言を吐いている。『詩人は「作者」ではなく、「見者」でなくてはならない』
詩人に覚醒するとかカッコ良すぎ。詩人は楽器であって作詞者ではないとか痺れるわ。詩は作るものではなく、見者として盗みみたものを「魂の言語」で書きつけるもの。私は一個の他者なのです。