私にとって久世光彦さんと言えば「寺内貫太郎一家」ではなく「時間ですよ」でもない。
私にとって久世さんと言えば「刑事ヨロシク」だ。
当時肩をカクカクさせながら「冗談じゃねねえよコノヤロウ」とかを速射砲的早口でまくし立てていた主演のビートたけしと、小刻みにギャグを間に挟んだかと思えばジェットコースターのように場面を転換させる久世の演出法とが絶妙に合っていたと当時思ってたけど、その演出法が世間より少し先んじていたのか、大ヒットとまでは至らなかったと記憶している。
この「卑弥呼」でも、久世さんの自分の興味と知識と、現場や私生活で積み上げたアレコレとのテンコ盛りな展開がスピード感を伴ってすごく気持ちよく、文庫本で600ページもあっというまに過ぎ去った感じ。
それと、この本には「小刻みに(話の展開とあまり関係ない)ギャグを挟んでくる手法」とか、「登場人物は若者世代だけど、その親の世代(中年世代)と、さらにその祖父母の世代(高齢世代)というように世代をいくつも登場させてパラレルに物語を進行させる手法」が出てくるが、「どこかで見たことあるぞ…」と引っ掛かり、読後にずっと考えてみた。そして出てきた答え→『これって「あまちゃん」と同じやん!』
いみじくも、あまちゃんで伊勢志摩さん演じる“花巻さん”がレディーガガの仮装をする女子に続いてレディオガガのフレディーマーキュリー姿で登場して劇中で言った超名セリフ「わかるやつだけ、わかればいい!」の世界観がこの本でも全編にあふれてるではないか!
もちろん宮藤さんより久世さんのほうが先。やっぱりいいモノって言わなくても受け継がれるものなんだなあ。
それとこの作品で久世さんのこだわりと思われる要素として2つ挙げておきたい。
1つ目は「古今東西の埋もれようとする文学作品を忘れさせないように記録しておく」こと。
2つ目は「70年代フォークの心の奥に染み入るような歌詞を忘れさせないように記録しておく」こと。
1つ目については、文庫本では巻末の既刊紹介の欄が、この作品に登場した数々の“隠れた名作”のうち新潮文庫で読める作品がリスト化されている。
リストの一部をあげておくと、中野翠「ウテナさん 祝電です」からはじまって、山田風太郎「室町お伽草紙」を経て、ラディゲ「肉体の悪魔」、シェイクスピア「リチャード三世」、夏目漱石「倫敦塔・幻影の盾」、ヴェルヌ「十五少年漂流記」、尾崎士郎「人生劇場(青春篇)」…編集スタッフのこういった“演出”も心憎い。
2つ目は、フォークグループ「猫」とか、井上陽水とかの歌詞がストーリーにからめて登場する。しかしこれが、この本が現在(2018年時点で)絶版となっている要因と考えている。つまり出版時は音楽著作権の管理が今ほど厳しくなかったからたくさんの歌詞を作中に引用しているけど、これが再版への足かせになってるんじゃないのかなあ。