作品一覧

  • 世間学への招待

    世間学への招待

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,760円 (税込)
    ※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。 私たちが組み込まれている世間とはいったい何か? ムラ的共同体としての世間、近代法と「世間の掟」の二重構造、対人恐怖にみられる世間の影響、作家と世間の関係など、私たちの日常生活と世間とのかかわり方を検証し、〈生活世界〉の構造を解読する論考集。

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  • 中世賤民の宇宙 ──ヨーロッパ原点への旅

    中世賤民の宇宙 ──ヨーロッパ原点への旅

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,397円 (税込)
    差別はどこから生まれてくるのだろうか? ヨーロッパにも職業差別・身分差別は存在したのだろうか? 本書は、『ハーメルンの笛吹き男』で西洋中世の被差別民の存在に初めて光をあてた著者が、賎視と身分差別の問題に正面から取り組んだ、阿部史学の代表的著作である。西洋中世において、キリスト教の浸透による時空観念の一元化と死生観の転換によって、畏怖の対象であった職業を賎視するようになる過程を考察する。「ヨーロッパ中世賎民成立論」のほか「ヨーロッパ・原点への旅」「死者の社会史」等も収め、“小宇宙”と“大宇宙”をキーワードに西洋中世の人々の心的構造の核に迫る。
  • 中世の星の下で

    中世の星の下で

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,397円 (税込)
    遠くヨーロッパ中世、市井の人びとは何を思い、どのように暮らしていたのだろうか。本書から聞こえてくるのは、たとえば石、星、橋、暦、鐘、あるいは驢馬、狼など、人びとの日常生活をとりまく具体的な“もの”との間にかわされた交感の遠いこだまである。兄弟団、賎民、ユダヤ人、煙突掃除人など被差別者へ向けられた著者の温かい眼差しを通して見えてくるのは、彼らの間の強い絆である。「民衆史を中心に据えた社会史」探究の軌跡は、私たちの社会を照らし出す鏡ともなっている。ヨーロッパ中世史研究の泰斗が遺した、珠玉の論集。
  • 最終講義 学究の極み

    最終講義

    小説・文芸

    -
    1~2巻1,386円 (税込)
    日本の知の礎を築いたのは、飽くなき探求心を持ちつづけた学者たちだった。土居健郎は言う、「まず「わかる」とはどういうことかということをわかる必要があるでしょう」。禅の本質を説く鈴木大拙、インド思想史に人類史的な普遍性を見た中村元、心理療法の目的を自身の物語の発見に見いだした河合隼雄、人間と自然の関係の変化が歴史学に課題をもたらしたと指摘する網野善彦……。日本を代表する「知の巨人」たち、その学問の総決算ともいえる最終講義を精選したアンソロジー。「学究の極み」篇では、日本の知の礎を築いた学者たちが生涯をかけて追究した研究テーマ、その集大成を披露した講義を収録。冒頭に各講義の要約を付し、難解な講義も概要をつかみやすくした。推薦・若松英輔
  • 西洋中世の愛と人格 「世間」論序説

    西洋中世の愛と人格 「世間」論序説

    ビジネス・実用

    3.0
    1巻1,221円 (税込)
    ヨーロッパ中世の社会を、伝説、民話、さらには法や経済などさまざまな位相から総合的に再構築し、共同体のあり方を生き生きと描き出した西洋史学の泰斗、阿部謹也(1935-2006年)。晩年は西洋史家ならではの視点から、「世間」を軸にした独創的な日本人論を展開したことでも知られる。  なぜ、日本人は「世間を騒がせて申し訳ありません」と謝罪するのか。無実ならば決して謝罪せず、世の中が納得するまで主張を続ける西洋との違いはどこから生まれるのだろうか。日本古来の「世間」と対比させつつ、西洋の「社会」を構成する「個人」や「愛」がヨーロッパで成立する過程を描き出した本書は、代表作『「世間」とは何か』を著者の本領たる西洋中世史から裏づける作品であり、一連の「世間論」の原点でもある。  著者は本書でこのように述べている。「大切なのは、わが国では、「社会」と「世間」という二つの用語の世界があるということを、まず認識することである」――。日本の共同体があらゆる水準で崩壊しつつある今こそ読みたい、人と人とのつながりの根源を照らし出す一冊。(原本:朝日新聞社、1992年)
  • 物語 ドイツの歴史 ドイツ的とは何か

    物語 ドイツの歴史 ドイツ的とは何か

    ビジネス・実用

    3.5
    1巻1,210円 (税込)
    ヨーロッパの中央にあって四囲に国境をもつドイツは、隣国とさまざまな軋轢を経験する中で特有の国民感情を醸成してきた。しかも中世以来のアジール(庇護権)の理念は近代以後も呪術的なものを抱え込みながら生き残っている。ヨーロッパ連合が結成され、国境線が事実上の意味を失いつつある現在、その進捗はドイツにどのような変化をもたらすのだろうか。ドイツの誕生から今日にいたる歴史に、「ドイツ的」とは何かを思索する。
  • 西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史

    西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史

    ビジネス・実用

    3.5
    1巻1,100円 (税込)
    エッダ、サガに登場する粗野でたくましい死者のイメージは、中世後期の『黄金伝説』『奇跡をめぐる対話』では、生者に助けを求める哀れな姿となる。その背景には何があったのか? キリスト教と「贖罪規定書」そして告解の浸透……。「真実の告白が、権力による個人形成の核心となる」(M・フーコー)過程を探り、西欧的精神構造の根源を解き明かす。(講談社学術文庫)
  • 「教養」とは何か

    「教養」とは何か

    ビジネス・実用

    3.4
    1巻1,078円 (税込)
    自己の完成を願う、教養観を覆す画期的論考。哲学のすべてを修め、最後に靴直しの仕事につく――江戸時代や西洋中世の学問のあり方、公共性と「世間」の歴史的洞察から、集団の中で生きる教養の可能性を探る。(講談社現代新書)
  • 刑吏の社会史 改版 中世ヨーロッパの庶民生活

    刑吏の社会史 改版 中世ヨーロッパの庶民生活

    ビジネス・実用

    5.0
    1巻1,056円 (税込)
    かつて社会にとって最も神聖な儀式であった「処刑」は、12~13世紀を境に、〝名誉をもたない〟刑吏の仕事に変っていった。 職業としての刑吏が出現し、彼らは民衆から蔑視され、日常生活でも厳しい差別をうけた。 都市の成立とツンフトの結成、それにともなう新しい人間関係の展開、その中で刑罰観はどう変化したのか。 刑罰観の変遷と刑吏差別の根源を追究する中で、庶民生活の実態を明らかにし、民衆意識の深層に迫る。
  • 対談 中世の再発見

    対談 中世の再発見

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,056円 (税込)
    日本と西欧の新しい中世史像を築き上げる二人の歴史家が語り合うとき、中世的世界のなりたちと現在とを同時に見返す視角が鮮やかに浮かび上がる。解説=大黒俊二
  • 「世間」とは何か

    「世間」とは何か

    ビジネス・実用

    3.6
    1巻990円 (税込)
    日本人の生きてきた枠組「世間」とは何か。古代から現代まで、日本人の生活を支配し、日本の特異性をつくってきた「世間」の本質とは? ヨーロッパの「社会」を追究してきた歴史家の視点で問い直す。(講談社現代新書)
  • ハーメルンの笛吹き男 ――伝説とその世界

    ハーメルンの笛吹き男 ――伝説とその世界

    ビジネス・実用

    3.9
    1巻858円 (税込)
    《ハーメルンの笛吹き男》伝説はどうして生まれたのか。十三世紀ドイツの小さな町で起こった、ある事件の背後の隠された謎を、当時のハーメルンの人々の生活を手がかりに解明していく。これまでの歴史学が触れてこなかったヨーロッパ中世社会の「差別」の問題を明らかにし、ヨーロッパ中世の人々の心的構造の核にあるものに迫る。新しい社会史を確立する契機となった記念碑的作品。
  • 近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本

    近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻770円 (税込)
    「私はこれまでほぼ五十年にわたってヨーロッパ中世史の研究をしてきた」という一文から始まるこの書は、著者が、急逝の日の朝まで朱を入れていた。専門の西洋中世史の研究を超えて、日本史、日本現代社会論にいたるまで、幅広い分野で健筆をふるってきた著者による、文字通り「最後の」書き下ろし。自らの五十年に及ぶ研究をもとに、古今東西を縦横に論じる。西洋と日本、それぞれの近代化について論じる総決算の書。

ユーザーレビュー

  • 刑吏の社会史 改版 中世ヨーロッパの庶民生活

    Posted by ブクログ

    大学時代に、屋敷二郎先生という法学部の先生の「西洋法制史」という授業を受講し、とても面白かったことを思い出した。私は社会学部だったので、法学部の授業を受けることは少なかったが、所謂法学部の細かい法律の解釈論ではなく、そもそも「法」ななぜ、どのように形成されてきたのかという通史を知ることができたことがその授業の核心だった。
    本書は、言わずと知れた西洋中世史の巨人、阿部謹也先生の本であるが、刑吏の社会史を学ぶことは、まさに近代法以前の人と人との関係性やコミュニティの在り方について垣間見ることであり、示唆に富む。

    本書で以下の文章を読み、映画のトワイライトウォリアーズの私刑(覆面をして4人で暴力男をボコボコにするシーン)や過去に読んだ『トンキンマンションのボスは知っている』における香港のナイジェリア人コミュニティの話を思い出した。

    我々は今でこそ国民国家とか近代社会の枠組みの中で生活しているものの、アンダーグラウンドと呼ばれる国家の法域の外にでれば、中世的な人間の本質から免れることはできない。こうした近代法の枠外においては、法律とは異なる「掟」や「不文律」がある。
    中世の世界は、今でいうところの公共性と呼べるような秩序を重んじており、秩序に対する侵犯に対しては、必要以上にボコボコにしたり、残忍な刑罰を処すことでその維持を志向していた。中世における処罰は、偶然刑であり、実際に罪を犯したことを殺すことは目的とされていない。秩序に対して毀損したり穢したりすることに対して、相応の処置を取ることは必ずしも死を目的とするというよりは、同レベルの仕打ちをすることで解消されるという感覚は、近代以降の人間には理解しにくいものかもしれない。
    とはいえ、ラジオを聴けば、ウォーターサーバーの水を後1杯分残して、水を入れ替えていかない人への怒りが投稿されており、こうした公共や秩序へのゆるい破壊行為への怨嗟が根深いこと、さらにそれに対して注意して、対象者を徹底的に殲滅させるには自身の心理的負荷が大きすぎるため、何らかの悪事が偶発的にその人に振りかからんと願うことは、「公共への挑戦に対して偶然刑で処罰する」という心性が今も世の中の通奏低音として流れ続けているように思える。

    また、別の側面としてコミュニティや差別の問題とも接続性のある議論だと思う。『トンキンマンションのボスは知っている』でコミュニティについて書かれていたのは、組合のようなものを作り、誰かが死んでしまった際に、本国へ遺族を搬送する資金を共済のような形で出し合うというものだ。日本の村八分でされ、残りの二分で葬祭は残っていることを踏まえると、中世における賤民が棺を誰からもかついてもらえないというのは余程差別されていると言えるだろう。アメリカ史でも黒人差別の問題は根深いが、人間はだれかを差別したりいじめたりしなければ、社会を構成できないのかという一抹の絶望を覚える。

    また、おそらくこれから読み進める部分にあるが、刑法の概念が成立する前の中世の人々の法意識は極めて興味深い。ネット空間等、新興のコミュニケーションサイトではしばしば炎上や私刑等が発生するが、このメカニズムを理解するのに、中世史は参考になるのではないかと思う。

    • これまで中世世界の光の部分については多くの研究者が紹介し、一般に知られるようになっているが、影の部分についての研究は大変乏しい。わずかな研究に導かれながら、一歩ヨーロッパ中世社会の影の部分に足を踏み入れるとき、私たちはそこに多種多様な人間の群を見出し、その広がりにまず驚かされる。
    • 賤民が営んだ職業の分布から推定されるように、都市共同体や農村共同体から排除されたこれらの人々はかなりの数にのぼり、中・近世社会の隠された影の部分を構成していた。この影の部分が市民や教会などがおりなす光の部分と共に中・近世社会そのものを形成していたのである。そしてその影の最も深いところにあり、人々から最も蔑視され嫌悪されていたのが刑吏であった。
    • 誕生の星に恵まれなかっただけでなく、老いたときの刑吏の悩みは死後のことであった。刑吏の棺をかつぐ者がいなかったからである。中・近世の農村の共同体も都市の同職組合も単に職業を共にする人々の団体であるだけでなく、出生から埋葬までを共に行ない、各同職組合がそれぞれの祭壇を特定の教会内にもっていて蠟燭の灯を絶やすことなく死者の供養をするための団体でもあった。同職組合には組合員だけでなく妻も子どもも加わり、生者と共に死者も共同体の絆で結ばれていたのである。同職組合員としての義務の最も重要なことのひとつに仲間が死んだとき墓地まで皆で棺をかついでゆくことが含まれていた。  しかし、同職組合に入ることを許されず、賤民として位置づけられていた刑吏の棺をかつぐことを《名誉ある》他の同職組合員たちは拒否したのである。刑吏の棺をかつぐことは直ちに賤民におちることとみなされていたからである。
    • 『古代ゲルマン人における処刑』を書いたカール・フォン・アミラはこの点について異なった見解を出している。フォン・アミラはキリスト教受容以前のヨーロッパ世界における処刑のあり方を重大な平和の侵害に対する公的処刑と、一般の平和侵害に対する私的(氏族による) 処刑に分け、前者、公的な処刑は犯された平和侵害によってけがされた神への供犠として神聖な性格をもち、後者、私的な処刑は神聖な性格をもたないという。公的な処刑は復讐とは何の関係もなく、また以後の犯罪を防ぐための威嚇とも関係がない。公的な処刑によってゲルマン人の社会は彼らの生活様式から堕落した者をエネルギッシュに除去しようとしたのだという。だから公的な処刑は種族を純粋に維持しようという衝動から生じたものであって、人間の世界だけでなく、動物の世界にも及んでいたという。
    • それではゲルマン人において死刑執行の目的は何であったのか、ひとつの例がこの間の事情を示している。盗みの現行犯として捕えられた盗人が自殺したとき、この犯人は生死を問わず証人をたてて絞首の刑を判決される。すでに自殺した犯人の死体が絞首にされるのである。フォン・アミラはこれを、公的な死刑の形式がみたされねばならないからだという。自殺する以前に犯した行為に対して処刑がなされる。これは儀式だから死体に対しても執行されるという。  こうしてキリスト教受容以前のゲルマン社会において、処刑は犯人を死に至らしめるためのものではなく、ひとつの儀式であったことが推察される。

    本書の後半では、刑吏に対してなぜ差別的な目線が向けられるか、という点について、中世から近代への時代の移行や社会システムの変遷を一つの理由として挙げている。中世という分権的な社会のまとまりから、国家という集権的なシステムに社会が統合・移行されていく過程で、「暴力」の行使権が国家権力への巻き取られていく。これまで民衆が少しずつ持ち合わせていたものが、国家に吸収され、一元化されていくことへの潜在的な反感が、暴力を国家が専有していくことの象徴としての刑吏に向けられていったという解釈は非常に理解しやすい。

    • 民衆は国家権力の具体的顕現としての処刑の執行に対して無意識のなかで激しい反感を抱いていたと考えられる。しかし裁判手続きを経て行なわれる処刑に対しては抗議の声をあげることができなかった。  観衆のなかにはもとより興味本位に、あるいはサディスティックな関心で刑場に来た者も少なくなかったと思われる。しかし刑吏に対する民衆の反感は彼らが国家権力の名のもとに行なわれる流血に潜在意識の底で激しい反撥をよせていたことを示している。この時代の民謡には民衆の英雄となる犯罪者がしばしば登場する。明らかに民衆の認めがたい犯罪のばあいも観衆は受刑者に味方することが多い。特に女性や子どもが処刑されるばあいそれが著しかった。

    • 一四~六世紀の都市における刑吏の役割は全くみじめなものであった。裁判に対する民衆の不信が高まっているとき、刑吏は自らの手で無実の者の死を招き、自ら殺人者となる立場におかれたからである。 「彼はまさにその必要性が肯定されねばならない刑法体系の代表であった。しかもその体系がすでに時代に相応しくなくなっていたのに、それを攻撃することはできなかった。それ故に人々は潜在意識の底で刑吏を断罪し」(ゲルンフーバー『処刑と賤視』一六七ページ) 差別し、蔑視したとみられる。いわば刑吏は国家権力による露骨な裁判権の行使に対する、一四~六世紀の人々の不満の捌け口となっていたのである。

    • 市民はその生活の重圧と生命の危険との原因がどこから来るのかを理解しえないまま、現実に行なわれている公開処刑で断罪されている受刑者におのが姿をみた。そのとき踝まで血に染まって死体の傍に立っている刑吏を、彼らは身ぶるいをしながら眺めた。彼らは潜在意識のなかで、刑吏に不正な裁判の執行官、国家権力の苛酷な手先をみたのである。しかし彼らは嫌悪の根源的な理由を十分には自覚しえなかったから、自分たちとは肌の合わない何か不気味な存在として日常生活のなかで刑吏との接触をさけようとした。  こうして刑吏に対する市民の嫌悪感は国家権力による公開処刑に対する市民の反感の無意識的表現であったとみることができる。人々は刑吏と道で出会っても顔をそむけ、刑吏の子どもとは遊ばないようにわが子に教え、すべてのツンフトから刑吏の一族を締め出し、結婚式などにも出席させなかった。これほど徹底的に彼らが嫌悪したもの、それは時に教養豊かでユーモアも解した刑吏その人ではなく、刑吏に象徴される権力そのものであった。


    最後の文章まで読み、本書の核心的なメッセージがあったように思える。
    中世から、現代との地続きである近代への時代が移り変わる際の重要なポイントは、まさに犯罪観の変化であったと言えよう。「かつては犯罪の行為が問題であり、犯罪者の動機などは問題ではなかったのだが、新しい都市法においては犯罪の行為よりも犯罪者の方に注目が向けられたのである。つまり犯罪の責任は個人にあるとみられ、犯罪者は倫理的に評価されることになった。人間は新しい都市空間のなかで互いの絆を合理的に結成してゆき、かつての呪術的・神的世界から解放され、犯罪に対しても呪術による社会の傷の治癒から個人の責任の糾明へと進んでいったのである。」

    こうした変化は、民事法と刑法の分岐という法制史上のターニングポイントとみることもできるが、犯罪の責任が個人に帰属するという見方が支配的になった社会において、一つの犯罪が社会全体の問題であるという意識が希薄になっていくという現象も同時に起こる。この指摘は現代社会において強いメッセージ性を持つだろう。中島岳志氏の『テロルの原点 朝日平吾の憂鬱』という本があるが、1920-40年の間に起こった政治家や財閥のトップへの暗殺事件の犯人像を浮かびあがらせるとともに、当時の社会全体の苦しもも映し出すものであった。犯罪において、その犯人を生み出してしまう社会の歪みから目を背けることは、犯罪の再発を助長してしまう。一歩間違えれば、自分がそうであったという一定の共感性が、社会の基礎をなさなければ、根本的な意味での人と人の繋がりは、実現されないように思える。

    「犯罪が社会的責任の問題であるということは、ひとつの犯罪が生じたとき、その犯罪に対してその社会の構成員は多かれ少なかれ何らかの責任を負っているということに他ならない。ところが一二・三世紀以後における刑法の展開は犯罪の責任を個人の動機と行為に求め、行為者を断罪して処理する道を開いた。  それはたしかに合理的な審判への道を開くものではあったが、それ以後たとえひとつの社会全体の歪みを一身に背負ったような犯罪者が生じたときでも、その犯罪は本人の動機と行為によって裁かれ、その社会全体を構成する人々は遠くからその裁判を遠望するのみで、自らかかわることは稀となった。ひとつの社会の歪みの表現としての犯罪の犯人はいわばその社会の歪みの犠牲者なのだが、彼は一人でその社会の歪みの全体を背負い、断罪され、刑場の露と消えてしまう。他の人々はこのような報道を目にしても自分とはかかわりのない出来事としてよみ、その日の仕事に埋没してゆく。おそらく潜在意識の底では中世都市の市民も犯罪が自分と無関係ではないことを知っていたが故に、全体を代表して犯人を処刑する刑吏に対しておそれをいだき、そのおそれが蔑視へと澱んでいったのであろう。  現今いくらでもみることのできるこのような光景の源泉は、おそらく一二・三世紀のヨーロッパの都市においてはじまったものであったと考えられる。」


    <引用>
    • 犯罪についての根本的な考え方の変化がこの間におこっていたのである。そして犯罪とは社会秩序のなかに生きている人間の行為についての判断を意味しているから、それは人間の社会的行為についての考え方の根本的な変化をも意味していた。  かつては犯罪の行為が問題であり、犯罪者の動機などは問題ではなかったのだが、新しい都市法においては犯罪の行為よりも犯罪者の方に注目が向けられたのである。つまり犯罪の責任は個人にあるとみられ、犯罪者は倫理的に評価されることになった。人間は新しい都市空間のなかで互いの絆を合理的に結成してゆき、かつての呪術的・神的世界から解放され、犯罪に対しても呪術による社会の傷の治癒から個人の責任の糾明へと進んでいったのである。共同体の秩序に背く行為を犯した者は今や倫理的律則によって個人として「罰せられる」ようになった。この経過は同時に人間が共同体のなかで個性を自覚せずに暮していた段階から個性を自覚するにいたる自我の覚醒の過程でもあった。人間ははじめて法の前に個人として登場したのである。
    • かつて人と人を結ぶ関係の絆は神聖な法であり、犯しがたい権威をもっていた。しかしながら、キリスト教の浸透と都市の擡頭、市民生活の合理化のなかで人間の理性は新しい倫理を生むにいたった。権威よりも理性に基づく議論が重んじられるようになった。人間は善を求めて努力すべき存在とされ、その限りで自分が行なった行為に対しても責任をもつべき存在とされたのである。このような動きは新たに愛をテーマとし、新しい形式を生み出しつつあったトロバドゥールや新しい散文小説などの誕生にもよみとることができる。
    • このような傾向のなかで法は一二世紀には民事法と刑法とに分れてゆく。V・アハターによると法におけるこのような分化はまさに哲学における経過と対応するものであったという。
    • こうして一二世紀にはじまる「刑法の誕生」は近代社会の萌芽を告げる動きの一端であり、人間の自我、個性の自覚の一つの表現でもあった。人間が主体的存在であることが理解されたとき、当然人間は責任ある主体としてとらえられることになるからである。  紆余曲折を経ながらもここから近代学問への道はつながっている、とみてよいだろう。つまり一二・三世紀以降成立した刑罰観の延長線上にわれわれも生きているのである。このことを考えるとき、同時に無視してはならないのはまさに自我の覚醒、個性の自覚の表現でもあった一二・三世紀における都市法と合理的思考の展開のなかで刑吏が職業として成立し、しかも賤視されていったという事実なのである。
    • しかし原理的な問題がひとつのこっていることも忘れてはならないのである。それは犯罪が共同責任であるという考え方が極度に薄れた結果生じたひとつの現象であったということである。  たしかに犯罪が共同責任として意識されていた時代には連座制のように犯人の違法行為の結果が家族や氏族の全員に及ぶという不合理な面があった。夫の罪を妻が償わせられたり、一族の一員の犯した犯罪のために一族全員が断罪されるという事態もしばしばみられた。犯人を主体的人間としてとらえ、個人に犯行の責任をとらせるという近代的刑法の萌芽はこのような悪弊に対して画期的な一歩をふみだしたのである。この点はいくら強調してもしすぎるということはない。  しかしながら多くの犯罪は社会的な行為であって、他の人間や時代環境とは全く無関係な、その個人だけの責任としての犯罪というものも考えにくい。

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    2026年08月23日
  • ハーメルンの笛吹き男 ――伝説とその世界

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    童話には私達の幼少期に不気味な恐ろしさを提供し,深く印象に残っているものがある。ハーメルンの笛吹き男もその1つで,奇妙な笛吹き男とその復讐によって連れ去られた子供達の運命に背筋が凍った懐かしさがある。本書ではこの伝承を文献史学的に検討する。最古の記録をたどり,この伝承が実際にあった出来事を原型にしていることを突き止める。そしてそれは時代を経るごとに,エピソードが付加されていったが,そのベールを1つずつ剥いで真実と童話が成立する過程に迫るところに面白さがある。また,童話を生み出す歴史的な背景についても十分な追求がなされる。ハーメルンの笛吹き男という伝承の成立だけでなく,その土台たる中世ヨーロッパの社会や政治的動向にも紙幅が割かれるのである。さらにはヨーロッパの歴史学の学問的な伝統,それというのはハーメルンの笛吹き男という伝承の成立に大いに関わっているのだが,についてもまた十分な考察がなされ,学史についても読者はよく理解できるようになっている。

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    2026年04月26日
  • 物語 ドイツの歴史 ドイツ的とは何か

    Posted by ブクログ

    ドイツの歴史を解説するものであるが、ドイツ的とは何かという視点からドイツの歴史が一貫して述べられている点と、「アジール」という論点について継続的に触れている点が、他のドイツ史と比較して特徴的である。

    他国の歴史をこのような目で見たとき、逆に、我々が、自分の国の歴史をみてきたとき、「日本的とは何か」というのを言語化して他国の人が納得できるように表現できるのか、興味深い。

    新書レベルであるので限られた紙幅であるが、時折ずばりと本質をつくようなことも書かれており、勉強になった。

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    2026年04月18日
  • ハーメルンの笛吹き男 ――伝説とその世界

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    読んでてすっごい楽しい本だった
    誰でも聞いたことがある「ハーメルンの笛吹き男」という寓話に見られる、130人の子供が失踪したということは事実である、ということを述べた上で、この伝説の原体験を明らかにすることを試みる
    その上、この体験が今ある伝説の形にどのような経過をたどって転化したのか、〈笛吹き男〉伝説の研究史をも鮮やかに描き出す

    伝説の実情を解明するためにただ単に民俗学的なアプローチをするのでなく、事件を探る上で当時のハーメルン社会はどのようなものだったのか、子供とはどういう存在だったのか、子供たちを連れ去った「笛吹き男」とはどのように扱われていたのか、の三つの論点に分けて研究を進めていく
    この過程で、「笛吹き男」というアウトサイダーの受容、中世市民社会の心身両方における荒廃、宗教改革によりカトリック教会への挑戦を試みたプロテスタント勢力の打算が絡み合った多層的な社会史が説明されている

    中世社会における市民の困窮さは筆舌に尽くし難いが、その中でも特に1550〜53年にかけてのハーメルンは河の大反乱、飢饉、大火、さらには宗教戦争に巻き込まれ市内でも打ち壊しが起きるなどこの世の地獄の様相を呈していた
    そのような流れでかつての悲惨な記憶である〈笛吹き男〉伝説を思い出し、これと照らし合せることで現状を相対化する民衆の営みには切なさを感じた

    啓蒙主義の合理的精神により批判されたり、近代に入ってからはドイツ民族の統一国家を作るための「共通の遺産」として過度に高尚なものとして扱われた
    こうした研究の過程で伝説が変貌していくことをライプニッツの書簡やグリム童話など様々なジャンルの文献を挙げていくことで、当時の「知識人」の思潮を追いながら述べる

    しかしあくまで著者は「伝説は本来農民の歴史叙述である」という視点に立脚し、概説的なヨーロッパの社会史や経済史では触れられることの無い「庶民の社会史」を描くことに努めており、あくまで本書は「長い間知識人が行なってきた知的営為そのものに対する批判的反省」として位置づける
    この姿勢には非常に感動した

    著者がヴァンの理論に与えている
    「この理論を構成する一齣一齣は、それぞれ人間の心にあるイメージを喚起する力をもっているのであって、この伝説には関係のないところで『人間の生涯』に触れてくる」
    「幻想的な、読む者を思わずひき込んでしまうような魅力」
    という評価は著者自身にも当てはまるものであり、文献に基づき冷静に論を進めながらも、民衆の気持ちを追体験しようと思いを馳せていることがありありと伝わった。

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    2025年11月11日
  • ハーメルンの笛吹き男 ――伝説とその世界

    Posted by ブクログ

    巻末の石牟礼道子の解説「泉のような明晰」も含めて、読んだ後胸がいっぱいになる歴史書。ハーメルンの笛吹き男の伝説の解明だけでなく「学者」も伝説の型(パターン)作りに多かれ少なかれ加担しているということ、それを持ってして民衆を中心にすえた歴史学を追究するために必要なのは知に驕らない謙虚な心構えであることなど、力強い言葉が綴られている。

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    2024年02月11日

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