またどうして私はこういう重いテーマの本ばかり読んでしまうのだろう。なかなかに、つらい。
河合香織さんの「母は死ねない」が良かったので次はこちらを読みました。
北海道で、誤診の結果ダウン症の子供を産んだ母親が、医師を相手取って裁判を起こしたできごとのくわしいルポです。当然、世間からさんざん批判されただろうと予測できる。羊水検査をして「異常ありません」と診断され、出産したところ、重い合併症を伴うダウン症の赤ちゃんが生まれた。・・・それで裁判を起こした、ということだけ聞くと「ダウン症の子どもなんて生みたくなかった!どうしてくれるんだ!」という裁判なのか?となってしまう。
河合香織さんは、原告の母親「光」を丁寧に取材し、そもそも羊水検査を受けた経緯や、医師とのやりとり、赤ちゃんが生まれてからの気持ちの変化などをルポルタージュしていく。
意外だったのが、このとき生まれた赤ちゃんが4番目の子どもだった、ということだ。なんとなく、高齢出産でなかなか子供ができなくて、やっとのことで妊娠した子どもが重い障害があって結果的に亡くなったから、もっと早く正しい診断を受けていれば、赤ちゃんを授かることができたのに、もう子どもをもつことをあきらめなければならなくなった…ということなのかと思っていた。それに、すでに上に子どもが3人いるのに、裁判を起こすとなると、風評被害などもあり、相当な勇気と覚悟が必要だろうと思った。しかし、このお母さんはそれをした。
このルポルタージュを通して、日本の産婦人科で行われている「中絶」が、非常にグレーゾーンであることがわかった。ほとんどの人は、妊娠初期ならば中絶するのは女性の自由だと思っているかも。しかし、法律では、深刻な健康上・経済上の理由がない限り、人工妊娠中絶は罪に問われるものとされている。その「経済上の理由」を拡大解釈して、重い障害をもった子どもが生まれた場合に育てていくのが大変だから、と中絶を認めているようなあいまいな状態なのだ。
日本では、ちゃんと議論もされないあいまいな状態のまま、出生前診断の技術だけが向上してしまい、妊娠初期に胎児を検査して中絶をするような事態になっている。このルポの女性のような「誤診」もほかにあるかもしれないが、裁判などを起こさない限り世に知られることがないだけだ。そして裁判を起こしたら起こしたで、当事者ではない人たちから「差別だ」「障害があったら生まれてきてはいけないのか」と批判されたりする。
・・・しかし、検査から出産、障害があることがわかったときの衝撃、医療措置、医師とのやりとり、赤ちゃんがなくなるまでを読んでいけば、お母さんの複雑な思いや、裁判にせざるを得なかった事情がよくわかる。とにかく、赤ちゃんが生まれてから亡くなるまでの過程が辛すぎる。
私自身は高齢出産だったが、検査は受けなかった。授かった以上は、中絶などは考えられないのだから、検査をする意味はないと思っていた。
しかし妊婦検診のときに同じ部屋の隣のテーブルで、看護師と若い妊婦さんが「検査を受けますか」「え?あぁ、はい、じゃぁ受けます」みたいなやり取りをしていて、すごく違和感があったことを覚えている。
出生前診断の普及に伴い、今後いろんな問題が起こってくるだろう。当事者である妊婦や、社会全体が、出生前診断とはどのようなものなのか、それを受けるということはどういうことなのか、よくよく勉強し、考え、理解したうえで実施しないと大変なことになる。そもそも、「とりあえず検査を受けてみる。結果が出てからどうするか考える」というのには私は絶対に反対だ。安易に検査を受けるべきではない。
例えば思い遺伝性の疾患を両親が(またはどちらかが)持っているなど、本当に深い事情があって、重篤な障害をもった子供が生まれてくる可能性が高い、その場合育てることが難しい、という場合にきちんとしたカウンセリングを受けたうえで出生前診断を受けるべきだ。そして、重い障害(病気)があると分かったら中絶する、と覚悟を決めて、その必要性から検査を受けるべきなのではないか?診断のハードルが低くなりすぎることは、やはり命を選別しようとしていることだ。
このルポでは、当事者のお母さんは、一生懸命に命に向き合い、出生前診断や誤診についての問題を社会に訴えかけていて、様々なリスクや困難があっても裁判という正当な形で闘ったことが描かれている。とても立派だと思う。
でも最後の方に、長男さんが「やっぱり裁判はしてほしくなかった」みたいなことを言っていて、それがすごく切なかった。でも、その正直な気持ちをお母さんに打ち明けることができるっていうのが、大事なんだろうな。