【感想・ネタバレ】選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子のレビュー

あらすじ

その女性は、出生前診断をうけて、「異常なし」と
医師から伝えられたが、生まれてきた子はダウン症だった。
函館で医者と医院を提訴した彼女に会わなければならない。
裁判の過程で見えてきたのは、そもそも
現在の母体保護法では、障害を理由にした中絶は
認められていないことだった。
ダウン症の子と共に生きる家族、
ダウン症でありながら大学に行った女性、
家族に委ねられた選別に苦しむ助産師。
多くの当事者の声に耳を傾けながら
選ぶことの是非を考える。

プロローグ 誰を殺すべきか?
その女性は出生前診断を受けて、「異常なし」と医師から伝えられたが、生まれてきた子は
ダウン症だったという。函館で医師を提訴した彼女に私は会わなければならない。

※この電子書籍は2018年7月に文藝春秋より刊行された単行本の文庫版を底本としています。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

またどうして私はこういう重いテーマの本ばかり読んでしまうのだろう。なかなかに、つらい。
河合香織さんの「母は死ねない」が良かったので次はこちらを読みました。
北海道で、誤診の結果ダウン症の子供を産んだ母親が、医師を相手取って裁判を起こしたできごとのくわしいルポです。当然、世間からさんざん批判されただろうと予測できる。羊水検査をして「異常ありません」と診断され、出産したところ、重い合併症を伴うダウン症の赤ちゃんが生まれた。・・・それで裁判を起こした、ということだけ聞くと「ダウン症の子どもなんて生みたくなかった!どうしてくれるんだ!」という裁判なのか?となってしまう。
河合香織さんは、原告の母親「光」を丁寧に取材し、そもそも羊水検査を受けた経緯や、医師とのやりとり、赤ちゃんが生まれてからの気持ちの変化などをルポルタージュしていく。

意外だったのが、このとき生まれた赤ちゃんが4番目の子どもだった、ということだ。なんとなく、高齢出産でなかなか子供ができなくて、やっとのことで妊娠した子どもが重い障害があって結果的に亡くなったから、もっと早く正しい診断を受けていれば、赤ちゃんを授かることができたのに、もう子どもをもつことをあきらめなければならなくなった…ということなのかと思っていた。それに、すでに上に子どもが3人いるのに、裁判を起こすとなると、風評被害などもあり、相当な勇気と覚悟が必要だろうと思った。しかし、このお母さんはそれをした。

このルポルタージュを通して、日本の産婦人科で行われている「中絶」が、非常にグレーゾーンであることがわかった。ほとんどの人は、妊娠初期ならば中絶するのは女性の自由だと思っているかも。しかし、法律では、深刻な健康上・経済上の理由がない限り、人工妊娠中絶は罪に問われるものとされている。その「経済上の理由」を拡大解釈して、重い障害をもった子どもが生まれた場合に育てていくのが大変だから、と中絶を認めているようなあいまいな状態なのだ。
日本では、ちゃんと議論もされないあいまいな状態のまま、出生前診断の技術だけが向上してしまい、妊娠初期に胎児を検査して中絶をするような事態になっている。このルポの女性のような「誤診」もほかにあるかもしれないが、裁判などを起こさない限り世に知られることがないだけだ。そして裁判を起こしたら起こしたで、当事者ではない人たちから「差別だ」「障害があったら生まれてきてはいけないのか」と批判されたりする。
・・・しかし、検査から出産、障害があることがわかったときの衝撃、医療措置、医師とのやりとり、赤ちゃんがなくなるまでを読んでいけば、お母さんの複雑な思いや、裁判にせざるを得なかった事情がよくわかる。とにかく、赤ちゃんが生まれてから亡くなるまでの過程が辛すぎる。

私自身は高齢出産だったが、検査は受けなかった。授かった以上は、中絶などは考えられないのだから、検査をする意味はないと思っていた。
しかし妊婦検診のときに同じ部屋の隣のテーブルで、看護師と若い妊婦さんが「検査を受けますか」「え?あぁ、はい、じゃぁ受けます」みたいなやり取りをしていて、すごく違和感があったことを覚えている。
出生前診断の普及に伴い、今後いろんな問題が起こってくるだろう。当事者である妊婦や、社会全体が、出生前診断とはどのようなものなのか、それを受けるということはどういうことなのか、よくよく勉強し、考え、理解したうえで実施しないと大変なことになる。そもそも、「とりあえず検査を受けてみる。結果が出てからどうするか考える」というのには私は絶対に反対だ。安易に検査を受けるべきではない。
例えば思い遺伝性の疾患を両親が(またはどちらかが)持っているなど、本当に深い事情があって、重篤な障害をもった子供が生まれてくる可能性が高い、その場合育てることが難しい、という場合にきちんとしたカウンセリングを受けたうえで出生前診断を受けるべきだ。そして、重い障害(病気)があると分かったら中絶する、と覚悟を決めて、その必要性から検査を受けるべきなのではないか?診断のハードルが低くなりすぎることは、やはり命を選別しようとしていることだ。

このルポでは、当事者のお母さんは、一生懸命に命に向き合い、出生前診断や誤診についての問題を社会に訴えかけていて、様々なリスクや困難があっても裁判という正当な形で闘ったことが描かれている。とても立派だと思う。
でも最後の方に、長男さんが「やっぱり裁判はしてほしくなかった」みたいなことを言っていて、それがすごく切なかった。でも、その正直な気持ちをお母さんに打ち明けることができるっていうのが、大事なんだろうな。

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2025年07月15日

Posted by ブクログ

昨日に引き続き「小さな命」を考える本です。

出生前診断の誤診によってダウン症の子を出
産した女性が、誤診した医者を訴えた裁判の
ルポです。

「では誤診でなければ、中絶を選んだのか?」
と問われると、そうではないと言う。

単純に第三者的な立場で考えてしまうと、ダ
ウン症であると知らされていなかったので、
しなくてもよい苦労や悲しみを背負うことに
なった。それを訴えるのだろう、と思えます。

しかし訴えた理由はそんな単純ではありませ
ん。

「命とは?」「母親の思いとは?」「生きる
とは?」

本当に本当に、人間の根源について考えさせ
られる一冊です。

0
2022年03月08日

Posted by ブクログ

読み始めた直後は、文章があまり上手くないのだと思った。読みながら、どこに着地するのかが全く想像出来なかったから。
でも読み進むうちに、この本は、これまで自分ごととして考えた事がなく、気づきもしなかったような答えのない何かへの無数の問いかけであり、本を閉じた時にどこかに着地できるようなものではないのだと気づいた。

本書は、命の選別についてのみ書かれた本ではなく、私たちの生きる社会全体の矛盾や、マイノリティへの見えない圧力を炙り出したものだ。
善も悪も幸も不幸も、誰も明確な線をひけないものを、私たちは社会を維持するために法律というルールで仕分け続けている。
そこで、法の抜け穴に落ち込んだ者は、あまりにも無力だ。
法治社会とは何の、誰のためのものなのか。
個人の幸福の追求は他者の犠牲がないと、成り立たないものなのか。そもそも他者とはどこからを言うのか。
いつも頭の片隅にありながら、罪悪感とともに見ないふりをした、焦燥感とともに溜め込んできた何かの蓋を開けられたような気がする。
著者が作中で使った「パンドラの箱」という言葉が読後感を端的に言い当てている。
私はただ、考え続ける事しかできない。

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2021年04月26日

Posted by ブクログ

本書の終盤、被告の弁護士が取材に答えている。

「人が生きること、死ぬことは本来法律が決めるものなのか?生命倫理や宗教が決めることでしょう」

これはわかる話である。法の論理と生命の倫理は相性が悪い。なんらかの法があるとして、必ずそれでは救われない者が現れる。法は決定をするからだ。勝訴、敗訴というが、ふつうに考えれば負けた者は救われない。なにかを決定するということは必ず暴力性を伴ってしまう。
そして、生命の倫理は決定との相性がすこぶる悪い。Aは生かしていいがBは殺してよい、などという決定はすべきではないし、少なくとも倫理的には不可能な決定である。

しかし、出生前診断で障害を持った子を妊娠していることが判明した場合、産むか中絶するか、という二択を迫られる。(なお、現実的には出生前診断はダウン症の判定に使われることが多く、そうだとわかればほとんどが中絶を選ぶそうである。)倫理的には不可能な決定を、そう少なくない数の人々が迫られているということだ。

本書は、その裁判の当事者らだけでなく、さまざまな立場から多角的に書かれている。その代わり、著者の考える結論は書かれていない。当然ながら自分も結論は出せない。この手のことは、裁判の判決文に則ると「極めて高度に個人的な事情や価値観を踏まえた決断」であり、一概にどちらが正しいとはいえないものである。

ただひとついえるとすれば、どのような決定をするにせよ、その決定には責任が伴うことは間違いない。責任=responsibilityというのは、語源を遡れば応答する能力ということだが、本書に出てくるさまざまな立場のひとびとの応答を読んでいると、それだけで彼女らの決定に対する責任は充分に果たしているように思える。

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2025年11月26日

Posted by ブクログ

『』内は本文より抜粋。

●出生前診断の結果、医師の誤診によりダウン症ではないとの診断だったため産んだ子どもがダウン症だった夫婦が、ダウン症児自身が生まれてくるべきではなかったと起こした訴訟。著者は訴訟に違和感を覚え、原告の母親の弁を聞きたいとの気持ちが発端となった一冊。出生前診断の是非についてかなり考えさせられる。

その子は合併症で闘病の末三ヶ月で亡くなる。

概要だけを聞けば、「障害ある子を産んだこと自体が損失だった、弁償しろ」という乱暴な主張に取られかねない印象を受けるが、原告の母親の話を著者が丁寧に聞き出し、母親としての愛情や苦悩や煩悶を生々しく感じ取れる内容。かなり訴訟に対する見方は変わると思う。
例えば母親の主張の一つとして『中絶して生まれてこなければ、三ヶ月の闘病生活による苦しみはなかった』というものがあるが、これは紛れもなく子供に対する愛情がベースになっている。

●出生前診断に対する考え方は様々だが、最終的には"その命が生まれてくるかどうかを判断するのが親でいいのか"というところに行き着くのではないか。
胎児は生きたいという概念すらない。
生まれてくることによる苦痛と中絶により命を絶たれる苦痛は誰にも比べることができない。
つまりこの議論に誰も結論なんて出せないのではないか。

また、"ダウン症がなぜ槍玉にあがるのか"という問題提起もあるようだが、ダウン症が診断で正確にわかるからというだけと私は感じる。出生前診断をわざわざして選びたいと思っている親は、分かるのであれば全ての障害を調べた上で選びたい、というのが本音ではないだろうか。でも全ての遺伝情報が事前にわかるようになった場合、どこまでが普通でどこからか普通でない、のラインは誰が引くのか、どこで引くのか。

『子どもを育てていくのは親、でもどこまで親は意思決定できる?重い障害があれば生きていても苦しいことが多いかも知らない、でも中絶の痛みの方が大きいかもしれない。なぜ親がそれを決められるのか。
命を親が選べるものなのだろうか。選べるとしたらいつまでなのだろうか』

『どのような重度の病気や障害の胎児だったら中絶を認めていいのか認められないのか。その線引きは時代によって社会によって変わってくる』

写真家の幡野広志さんの考えで、私が感銘を受けたものとして"親は将来の子供から、子供自身を預かって育てているだけ"という概念がある。そうならば子供を生かすか殺すかは子供自身の選択を親が預かって代わりにするということになる。そして子供が生まれてきたい=将来生まれてきて良かったと思うかどうかは、親の育て方によるところが大きいと思う。生まれてきて良かったと思えるように、普通の子ですら育てられるかどうかわからないのに、まして障がいを持った子供にそう感じさせられるように育てる自信のある人はどれくらいいるだろう。
私はそんな覚悟はないし自信もない。そんな覚悟と自信がある人しか子供を望んではいけないのか。


●『障がいを理由として中絶する人がいることで、検査があることそれだけで、自分が殺されるような思いをして傷つく人がいる』

中絶される存在という事実が自身を打ちのめす辛さや存在を否定されるような悲しみは、私が想像する以上のものなのだろう。でも、中絶を選ぶ夫婦の苦しみや辛さ、障がいを持った子供を育てることに苦痛を感じる人たちの苦しみはわからない。当事者ではないから。出生前診断に反対している人たちの中にはダウン症児を受け入れ育てた人たちももちろんいるだろう。でもその人たちと、中絶を選んだ親は別人だ。やはり自身の経験則だけで出生前診断を否定するのは暴論に感じる。

ダウン症児を里子として育てた女性の言葉
『私は第三者の立場だから。実子だったらと考えると、実のお母さんを(里子に出したことを)否定することはできない』『自分の子だったらきっと嘆きの方が大きかった。普通に産んであげられず、我が子に悪いと思い、自分を責めていたかもしれない』

ダウン症児を23年育ててきた人の言葉
『可愛さはあるし年月もある。受け入れたというより慣れてきた。もし戻してもらえるなら元気な子にして欲しい。愛情はあるが産んで良かったとはならない。でも運命かなとも思う』

当事者からのこれらの言葉を見ても、"産んだら「産んでよかった」になる""受け入れて育てている人もいる"なんて言葉で安直に産んで育てることを勧めることなんて出来ないのではないか。

●以下印象的だったものを抜粋
『現実は本音(この障害を理由とした中絶を容認)と建前(子供の障害を理由にした中絶は違法)が乖離している状況。社会的批判を恐れてなかなか議論にならない。結果的にその矛盾を全て当事者である両親と医療者にだけ負わせるのはやめてほしい』

『子に障害がなかったとしても、そもそも育児に孤独を感じる母親が増えている。
特別なダウン症でなく、普通のダウン症を育てるお母さんはどんな子育てをしているか、情報はほとんどない』

『ダウン症でもなんでも絶対産むべき、中絶すべきなど、どちらでも強制する社会は窮屈』

『子供に障害があれば産まないと決意していた人もいた。障害があっても産んで育てている人もいた。障害のある子を引き取り育てている人もいた。どの人が立派だ、どの人は悪い、と誰が決められるものだろうか。その人それぞれの精一杯のところで出した答えは、唯一の答えだ』


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2024年06月21日

Posted by ブクログ

出生前診断が優生思想と結びついて語られがちな状況は、日本独特のものであることを知った。母体保護法と名前を変えてはいるが、その前身は優生保護法。母体の保護と経済的理由を中絶の根拠と表向きにはしつつも、実態としては胎児の先天的な障害が中絶の直接的な理由になっている。
NIPTのカウンセリングまでは受けた当事者として、どうしても読まなければならないと思って読んだ。やっぱり、どこにも答えがない。答えがないのが、答え、という言い古されたフレーズが頭をよぎる。
科学技術の進歩は、人類の身体的あるいは精神的負荷を取り除き、自由の領域拡大を目指してきた。結果、従来、人類に課されていた負荷は軽減された。楽に遠くまで移動でき、労せずして遠方の人と意思疎通でき、大量のデータで記憶力を肩代わりできるようにはなっている。一方で、それまで自然に委ねておけばよかった事柄も、自由意志によって選択できるようになっている。つまりは、取り除くはずだった精神的な負荷は取り除かれず、かえって人類に知的体力をますます要求する結果になっている。
決める、というのは、捨てる、ということと同義だ。道徳律の問題はいつもここにひっかかって堂々巡りする。捨てられない、でも捨てたい、でも捨ててはいけないかもしれないし、捨てなくても大丈夫かもしれない、でもやっぱり捨てないと後々困るかもしれない。

私に言えるのは、人間は変わる、ということだ。
そして、決めるには時間とサポートが必要だということ。
医療者だけではない。子どもをお腹に宿すお母さんたちを取り巻く人たち皆んなが、お母さんと一緒に悩んでくれることが大事なんだと思う。
カウンセリングまで進んで、やっぱり結果がどうあれ産むんだから受けなくていい、と思いとどまった私としては、言えるのはそこまで。
それと、こういう体験を忌憚なく話し合える場もあるといいのかもしれない。

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2021年08月07日

Posted by ブクログ

河合香織(1974年~)氏は、神戸市外国語大学ロシア学科卒のノンフィクション作家。2004年のデビュー作『セックスボランティア』で注目され、2009年の『ウスケボーイズ 日本ワインの革命児たち』で小学館ノンフィクション大賞を受賞。
本書は2018年に発表され、大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞を受賞。2021年に文庫化。
本書は、2013年に始まったある裁判を軸に、人(胎児)の命について問うものである。
その裁判とは。。。41歳の母親が、胎児の染色体異常を調べる羊水検査を受けたところ、ダウン症という結果が出たにもかかわらず、医師は誤って異常なしと伝えてしまう。そして、母親が出産した男児はダウン症による肺化膿症や敗血症のために、壮絶な闘病を経て、生後三ヶ月半で亡くなった。両親は医師と医院に対して裁判を起こすが、その裁判は、自分たち夫婦に対する損害賠償だけでなく、子に対する賠償も請求するものであった。両親への賠償には、もし誤診がなかったら、胎児を中絶できたという前提があり、産むか産まないかを自己決定する機会を奪われたことへの賠償を求めるもので、「ロングフルバース(wrongful birth)訴訟」という。一方、子への賠償を求める根拠となるのは「生まれてこない権利」があるという考え方で、子自身を主体とし、誤診がなければ苦痛に満ちた自分の生は回避できたとする訴えで、「ロングフルライフ(wrongful life)訴訟」という。そして、この裁判は、日本で初めてのロングフルライフ訴訟として注目を集めることになったのである。
裁判の結果は、両親への賠償請求を認める一方で、子への賠償請求は却下するものであったが、この裁判が提起した問いは、たったひとつの判決で解決され得るものではなく、その本質は、「誰を殺すべきか。誰を生かすべきか。もしくは誰も殺すべきではないのか。」というものである。そして、私たちの社会では、産むか産まないかという命の選択がこれまで行われてきたし、その選択のための検査は益々進歩し、今も、異常があったら中絶することを前提とした出生前診断を受ける人は増え続けており、その答えは、そう簡単なものではないのだ。。。
読後感としては、自分の立ち位置・考えが定まらず、必ずしも居心地の良いものではない。しかし、著者は「あとがき」でこう語る。「心の中に澱のように沈む割り切れない違和感こそが問題の複雑さであり、核のような気がしてならない。その違和感を放すことなく抱きしめながら、光(原告となった母親)の話に耳を傾けて欲しい。そこから見えてくるのは、命に直面した人間の苦悩であり、愛する子どもを亡くした親の絶望であり、それでも前を向こうともがく生命の剛健な姿である。」
胎児の命、人の命とは何かを考えさせられる、力作といえるノンフィクションである。
(2021年5月了)

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2021年05月06日

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