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ヨーロッパ行って、音楽が学問の中で地位が高かったって本当の意味で分かったような気がした。例えば中世ヨーロッパ研究で音楽はどの学問より付き物だからな。
小宮正安 こみや まさやす
1969年、東京に生まれる。東京都立西高等学校卒、1992年東京大学文学部社会学科卒業。専門はヨーロッパ文化史、ドイツ文学。2000年『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』(中公新書)でデビューして以降、ヨーロッパ文化を音楽・建築・コレクションといった多角的な視点から捉えた著作活動をおこなう。『レコード芸術』や『週間読書人』といった幅広いジャンルの雑誌媒体にも定期的に寄稿。2006年...続きを読む 『狂言風オペラ〈フィガロの結婚〉』(2008年度文化庁芸術祭参加作品)で脚本家としてもデビューを果たし、同シリーズの〈魔笛〉は日本のみならずドイツでも上演され高評を博した。教育者としては、秋田大学教育文化学部准教授を経て、現在横浜国立大学教育人間科学部准教授として後進の指導に当たっている。
ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル・・・(ドイツ語: Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Köchel, 1800年1月14日 - 1877年6月3日)は、オーストリアの音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者。正確にはケッヒェル['kœçəl]。1862年にモーツァルトの全作品目録を出版、そこで作品に振られた番号はケッヘル番号として現在も使われている。
モーツァルトを「造った」男─ケッヘルと同時代のウィーン (講談社現代新書)
by 小宮正安
モーツァルトは一七五六年、ザルツブルクに生まれている。小さいころから姉ともども作曲や演奏に神童ぶりを発揮し、それを披露すべく父親に連れられてヨーロッパの各所を旅した。ともかくモーツァルト=神童というイメージは、同時代の人びとに強烈なインパクトを与えたらしい。のちに彼がウィーンに移住した後も、あるいは一七九一年に亡くなってしばらく経っても、その幼き日の印象を求める傾向はやむことがなかった。
つまるところ、分化した専門性よりも総合的な知を教授しようという姿勢にほかならない。今風の表現で文理融合というのか、文系や理系の違いにこだわらない幅広い知を教授すべき場所がギムナジウムであった。さまざまな角度から光を当てることで人間が鍛錬されその能力は花開く、という十八世紀啓蒙主義的な理想の結晶にほかならない。のちにケッヘルが文学や音楽、さらに自然科学等さまざまな分野に多才ぶりを発揮できたのも、ひとつには啓蒙時代を経た新たな教育システムのおかげではなかったか。
とりわけサロンで好まれたのは音楽だった。音楽は抽象的なものであるから、お上の気に障るような事柄に直接触れる可能性が少ない。さらに市民にとってみれば、楽器を奏でたりそれに耳を傾けたりするということは、かつての王侯貴族が手にしていたような贅沢をささやかながら体験できる絶好の機会であり、またそれがみずからの教養や趣味を物語るステイタスにもなっていった。
こうして、とりわけ帝国の都であるウィーンでは多数の音楽サロンが花開くこととなった。しかも、現在のクラシック演奏会のようにしかつめらしい表情で音楽に対峙するケースは稀だった。こちらに音楽を奏でるグループがいるかと思えば、あちらにはカードゲームに興じる一団があった。パイプをくゆらせている殿方がいる一方で、裁縫に精を出すご婦人方がいた。演奏が終わると時に食事が出されたり、小規模な舞踏会が始まったりした。
もしも時代背景を知らず『憧れ』にたいするコメントを述べるならば、センチメンタルな青春の憧憬、あるいは現実逃避的な若者の夢想、といった事柄に終始するだろう。いや時代背景を知っていても、もう少し若いエネルギーをほとばしらせ、不自由な社会に風穴を開けるくらいの勢いをもったらどうか、とも思いたくなる。 ただ、そこが、ビーダーマイアー世代の青年の特色なのだ。たとえば彼らの親世代の代表的存在であるベートーヴェンならば、拳を振り上げて闘う姿勢をとったかもしれない。なにしろ彼の青春時代は、フランス革命の精神が理想として輝いていたころなのだから。
だがそのベートーヴェンですら、メッテルニヒ体制が確立され自身齢を重ねてゆくなか、みずからのトレードマークともいえる闘いを経て勝利をつかみ取る式の作風から、自分の内面に深く沈潜してゆく作風へと変わっていった。ましてや、ナポレオンの台頭等によってもはやフランス革命を理想化できず、その後の保守反動の波に少年時代から晒されることになったケッヘルらの世代にしてみれば、なおさらだろう。
このような人物を指して、「ディレッタント」という言葉がある。とりわけケッヘルの前半生にあたるビーダーマイアー隆盛時代、「ディレッタント」は非常に肯定的な意味で用いられていた。金のためではなく、みずからの純粋な興味や愛ゆえに芸術や学問に情熱を注ぐ高貴な精神の持ち主、という意味合いだったのである。
こうした考えかたが確立された背景として、ハプスブルク帝国においては貴族の力が強く、しかも貴族の多くが芸術や学問にたいし、抜きん出た興味と造詣とを具えていたことが挙げられる。とくに貴族中の貴族ともいえる当のハプスブルク家の場合、歴代皇帝みずからが盛んに作曲をおこなったり楽器を演奏したりしたのは、典型的な例だ。しかも 妙 なる音楽の響きに包まれる贅沢を味わうとともに、その響きによって支配者としてのみずからのオーラを高めるという政治的意味あいもそこには含まれていた。
その好例がベートーヴェンだろう。彼は、王侯貴族の命に左右されることのない自立したプロの音楽家として、生前から広く認められた存在だった。そもそも彼の人生自体、特権階級による支配から脱し、社会の中心に躍り出ようとしていた市民階級にとって、みずからの生きかたの究極的な手本となりえた。さらにその音楽は新たな時代の幕開けを告げるものとして市民階級から崇拝の対象となり、ベートーヴェンにたいする神格化さえ起こった。
ケッヘル自身、ベートーヴェンを絶賛する詩を書いている。 あなたの歌が響きわたり 人の心を 抗う暇もなく捉えるとき その天賦の才が 崇高な動きのなかに 感動に震える魂を引き裂くとき あなたは自分自身のために 記念碑を打ちたてた そう 自分自身のために あなたは高貴な 変わることのない 不滅の存在 死ぬ定めの人間の胸に それを感じる心が脈打っているかぎり
こうした鉱物学の魅力に取りつかれたケッヘルは、翌一八三〇年から晩年にいたるまで、鉱石を収集することとなった。晩年にあたる一八七五年、彼は鉱石コレクションならびにその目録をはじめ、植物採集標本、自然科学関係の書物を母校クレムスのギムナジウムに寄贈している。自然科学の魅力を若い人たちにも知ってほしい、との願いゆえのことだった(このなかで現在残っているのは鉱石コレクションと目録だけであり、あとのものは第二次世界大戦中に爆撃を受けて焼失してしまった)。
このように幅広いケッヘルの知識と関心については、個々の細分化された学問領域を当てはめるよりも、むしろ「博物学」の観点で捉えたほうがよさそうだ。博物学は主に十八世紀から十九世紀なかばにかけて栄え、自然の森羅万象を対象としつつ、そこに体系性や法則性を見出そうとした学問分野である。つまり、珍奇なものを収集する情熱と、それらを理性的かつ科学的に捉えてゆこうという姿勢が同居している。
というわけでドイツ語圏にかぎっても、博物学の分野で多大な功績を上げた人物は、たとえばモース然り、フンボルト然りである。あるいは現在では文学者としての活動のみがクローズアップされているゲーテも、鉱物学、動植物学、生理学、医学、物理学、化学等に優れた才能を発揮した。また植物との関係に注目するならば、エンドウ豆を用いて遺伝の法則を発見したメンデルも、動物や昆虫など自然科学全般にたいして大きな興味を抱きつづけた。しかも彼らのなかで純粋な学者といえるのはモースひとりであり、後はみな官僚や政治家や司祭を務めるかたわらで、学術への関心を抱きつづけたディレッタントだったのである。
いずれにせよ、ここから理解できるのは「反ナポレオン」であり、神聖ローマ帝国=ドイツ的なものへの共感にほかならない。そしてこの感情は、とくにハプスブルク帝国の本拠地であるオーストリアにおいて、当局のみならず一般市民にとっても等しく共有可能なものであった。くわえて音楽は、人びとがいっせいに耳を傾けたり声を合わせたりできる点で、彼らが陥った危機的状況にたいする想いをひとつにまとめられる最良のメディアたりえた。
歴史を顧みれば、けっきょくのところハイドンの尽力も虚しく、神聖ローマ帝国は終焉を迎え、ハプスブルク帝国は苦肉の策としてオーストリア帝国を名乗るようになった。この過程で、神聖ローマ帝国皇帝フランツ二世はオーストリア皇帝フランツ一世となり、ナポレオンのウィーン進軍を二度にわたって許すという苦境に陥った。それでもハイドンが残した『皇帝賛歌』は、新生なったオーストリア帝国にそのまま引き継がれてゆく。そしてハイドンはこの国において、愛国的作曲家として絶大な名声を得ていったのだった。
この弦楽四重奏に大きな発展とレパートリーをもたらしたのが、ハイドンだった。しかもそのなかには、ディレッタントによる演奏を念頭に置いたものが少なくない。ちょうど当時、これも啓蒙思想の発展とリンクするかたちで出版業が盛んとなり、その一角を担っていたのが楽譜の出版だった。もちろん買い手は、市民階級を中心としたディレッタントたち。現在のように音楽再生装置もない時代、楽譜こそは楽曲にまつわる唯一の複製品であり、彼らはそれを目にするだけでなく実際に奏でることによって喜びを得ていたのだった。
モーツァルトが幼いころからヨーロッパ中を旅行し、先々で吸収した音楽をみずからの作品に結実させたのは有名な話だ。ハプスブルク帝国には古来さまざまな名音楽家が存在するが、ここまでボーダーレスな活動をおこない、それを作品に如実に反映させた例は他にない。片やハイドンはといえば当時の政治地図からするとハンガリーと密接な関係にあり、ハンガリーは時としてハプスブルク帝国の支配に抵抗する、為政者にとってみればけしからぬ地域となりつつあった。そのような地域に生まれたハイドンが、たとえいくら『皇帝賛歌』によって愛国的存在となろうとも、そこに一抹の傷がついてしまうのはたしかなのである……。
もちろんシュヴァンターラー自身としてはモーツァルトを、ドイツ語圏共通の英雄という広い世界観のなかで捉えていた。モーツァルト自身ドイツ語圏を足繁く訪れ、またドイツ語圏におけるモーツァルト受容には地域を限定しない幅広さがあった。人びとの意識としては、モーツァルトは広い意味でのドイツ全体の宝であって、オーストリアのなかにのみ閉じこめられてよしとされるような存在ではなかったのである(ここにもモーツァルトに与えられた普遍/不変のイメージを見て取れる)。 実際、モーツァルト祭にあたってはドイツ語圏各地からの客人がザルツブルクに集い、この英雄を讃えたのである。そもそもまだ統一国家としてのドイツなど存在せず、ドイツとはあくまで地域的文化的概念にとどまっていた時代の話だった。
あるいは、メーリケが書いた小説『旅の日のモーツァルト』(原題は『モーツァルトのプラハへの旅』) もそうだ。内容的には、ロマン派的な怪奇幻想よりもビーダーマイアー的な慎み深さが特徴だが、それでもやはり『ドン・ジョヴァンニ』に関係したストーリー展開になっている点が、いかにもこの時代のモーツァルト嗜好を反映している。
たとえばモーツァルト未亡人のコンスタンツェと結婚し、モーツァルト伝を著したニッセンの場合。彼はこの伝記に、モーツァルトに関する一次資料や、同時代人の証言を可能なかぎり盛りこみ、モーツァルトの人物像を正確に記述しようとした。ところがウィーン時代のモーツァルトに関してはコンスタンツェの証言をほぼそのまま取り入れ、彼女とともにスカトロジーをはじめ私生活関係のマズい手紙を破棄してしまったのである。
背景には、なによりもオーストリアならではの音楽事情が大きく働いていたことが考えられる。ヨーロッパに冠たるハプスブルク帝国の中心地として、オーストリアでは伝統的にカトリックの力が強かった。そのため聖なる宗教曲の下に世俗の歌劇や歌曲が位置し、さらにそれらは器楽曲(教会音楽の一部をなしていたオルガン・ソナタは除く) に優先するという考えかたそのものが根強く残っていたのである。
実際、大教会のミサではオーケストラ付きの宗教曲がしばしば演奏され、またその合間にはオルガン・ソナタもよく取り上げられた。そして一般の人びとにとっては演奏会や家庭音楽といった場を除き、古今の作曲家の作品に接せられる場所といえば、他ならぬ教会だったのである。ケッヘル自身、ミヒャエル・ハイドンの宗教曲や、宗教曲が多くを占める作品目録を作ったのも、教会音楽の重要性を深く認識していたからにほかならない。
ところでヤーンにとって、モーツァルトが音楽の頂点、あるいは超越的存在たりえた理由はどこにあったのか。それはモーツァルトが、「情熱が湧き出す過程を芸術作品のなかに直接反映させるのではなく、あらゆる醜さや濁りを完全に克服した後、純粋で完全な美を喚起した」からである。実際、ヤーンは考古学や文献学を通じて古代世界、あるいは古典的な美に親しみ、それを賞賛してやまない人物だった。またそれゆえに音楽的な趣味においても、アンチ新ドイツ楽派の立場をとったのである。
古典美を徹底して主張しようという考えかたには、ひとつ音楽の世界にとどまらずこの時代に見られた進歩思想への対抗姿勢を見て取れる。一八四八年の革命以降、かつてのビーダーマイアーに代表される中産階級の文化は衰退、いや崩壊したともいえる状態にあった。産業革命の波が本格的にヨーロッパにも到来し、同じ市民階級ではあっても、大規模な工場経営や商社経営によって巨額の富を得る大ブルジョアジーが、社会や文化を牛耳りはじめていた。またこれと同時進行するかたちで、パリやウィーンにおいては中世以来の古い街並みを近代都市に生まれ変わらせる計画が実現しはじめた。
一八六二年にモーツァルト作品目録を刊行し、翌六三年にウィーンへ移り住んだケッヘル。当時、彼を取り巻くこの街の状況はどうだったのだろうか。 先述したように、当時のウィーンは都市改造が進んでいる最中だった。中世以来の市壁があった場所には 環状道路 が造られ、その両側には帝国議会議事堂や市庁舎、宮廷劇場や大学といった公の政治機関、文化施設がお目見えした。余った土地は下々の者に払い下げられ、宮殿と見まごうばかりの絢爛豪華なマンションやホテルが建てられた。
こうした状況のなか、ケッヘルが吐露した愛国心も理解できよう。彼は、ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンを育んだオーストリアのルーツを、十五世紀末から十八世紀なかばにかけて求めようとする。一般的な音楽史のなかでは、なかなか光が当てられないこの時代にこそ、音楽の国オーストリアが生まれるための芽吹きがあるのだ、という考えかただ。
このオープニングの翌年、ケッヘルはウィーン楽友協会の名誉会員となった(彼と同時に名誉会員となったのは、いまやすっかり新ドイツ楽派の大御所となった感のあるワーグナーである)。その理由だが、ウィーンの宮廷楽団で活躍したバロック時代の音楽家、ヨハン・ヨーゼフ・フックスに関する研究を彼がおこなったから、ということだったのである。
ケッヘルがモーツァルトの作品目録で現在にいたるまで名を残していることを考えるならば、奇妙な状況とはいえないか。なるほどフックスはウィーン、ひいてはハプスブルク帝国の音楽史を語る際に欠かせない人物とされながら、生涯や業績については不明確な部分が多く、そこにケッヘルが光を当てたことが評価された。だがモーツァルト作品目録の作成もフックスの研究に勝るとも劣らない労作であり、むしろ音楽界全体に与える影響にかぎって言えばフックスよりも数段大きな力をもっているのは確かである。
式典そのものは、一九〇六年十月に執り行われた。残された写真を見ると、大勢の人びとが広場を埋め尽くし、大盛況だったようである。ケッヘルが学んだクレムスのギムナジウムの校長や、地区代表の挨拶を挟みつつ、モーツァルト作品のいくつかが演奏された。最後はウィーン楽友協会名誉総裁を務めていたオイゲン大公からの祝電が披露され、当時の公式行事の常としてハプスブルク帝国の国歌『皇帝賛歌』が歌われた……。
そうした傾向が明白になったのが、一九三七年にブライトコプフから発行された『モーツァルト全作品年代別主題別目録』の第三版だ。編者は音楽学者のアルフレート・アインシュタイン(一八八〇~一九五二)。かの物理学者アルベルト・アインシュタインの親戚にあたる人物である。彼はケッヘルの作成した同目録の第一版を不完全なものとして批判し、みずからの調査を基に作品番号の大幅な改訂をおこなった。
ヴァルダーゼーによる、ささやかなモデルチェンジに比べると、アインシュタインのそれは徹底して批判的な観点に立っていた。彼は序文において、まずはケッヘルが信頼していたヤーンに矛先を向け、「モーツァルトのことを『澄み切った存在』として絶対視し、その深遠や時代的制約を見過ごしてしまった」と指摘。しかもその理由が、「ヤーンはたいへんな知識人であり文献学者であったものの(……)音楽学者ではなかった」、つまりディレッタントであったからこうした誤りをおかした、というのである。
モーツァルト、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フィル。いずれも「音楽の国オーストリア」のイメージを象徴する存在である。しかも観光業界の戦略もあって、ふだんクラシック音楽になじみのない人びとでさえ、オーストリアへ行ったからにはこれらのものに接してみたい、と考える流れができあがっていった。もちろん本格的なオペラやコンサートとなると肩が凝る心配があるものの、ポピュラーなイメージのモーツァルトであればそのようなこともない。そうした人びと向けに「ちょっと高級」な雰囲気を醸し出すべく、プログラムやディスクの解説書にはケッヘル番号が振られてゆく。