あらすじ
型破りなスケールと斬新な構成によって,西洋音楽史を塗り替えてしまった「第九」.ベートーヴェンの音楽とシラーのテキストが創り上げる強烈なメッセージ性ゆえに,音楽を超え社会に様々な影響を与えると共に時代の流れに翻弄され,数奇な運命を辿った.初演から二〇〇年,今なお人々の心を捉える「とてつもない曲」に迫る.
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ベートーヴェンは神と近代的自我の狭間の人だよね。でも、生活では貴族の支援も受けていて、そこにも古い社会と新しい個人の間の緊張がある感じはする。美術の勉強してたら音楽も何となく解像度が上がってきた気がする。
小宮正安 こみや まさやす
1969年、東京に生まれる。東京都立西高等学校卒、1992年東京大学文学部社会学科卒業。専門はヨーロッパ文化史、ドイツ文学。2000年『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』(中公新書)でデビューして以降、ヨーロッパ文化を音楽・建築・コレクションといった多角的な視点から捉えた著作活動をおこなう。『レコード芸術』や『週間読書人』といった幅広いジャンルの雑誌媒体にも定期的に寄稿。2006年『狂言風オペラ〈フィガロの結婚〉』(2008年度文化庁芸術祭参加作品)で脚本家としてもデビューを果たし、同シリーズの〈魔笛〉は日本のみならずドイツでも上演され高評を博した。教育者としては、秋田大学教育文化学部准教授を経て、現在横浜国立大学教育人間科学部准教授として後進の指導に当たっている。
「シラーは幼少の頃から頭がよく、また父親が将校兼軍医だったこともあって、君主であるカール・オイゲン(一七二八─九三)の目にとまる。そして彼が創設したばかりの高等教育機関で、法律や医学を学ぶようになった。またこの頃、シラーは同時代の文学にも目覚める。当時流行していたスタイルは、「シュトゥルム・ウント・ドラング」、日本語では「疾風怒濤」と訳されるものだ。「疾風怒濤」とは簡単にまとめれば、あらゆる感情を爆発させつつ、破滅をも恐れずに突き進む生き方を肯定する芸術潮流である。 それにしても、なぜこのような潮流が生まれたのか? 答えは、「個人の目覚め」にある。当時は、絶対的な権威を具えた王侯貴族が権勢をふるう一方、経済の発達を基盤に都市に住む商人や手工業者、つまり市民階級がひそかに力を蓄えつつあった。となると、王侯貴族を頂点に据えた体制に不満を抱く市民が増え始めるのも当然である。 ただし、現実的に伝統的体制を転覆するまでの力は、まだ市民たちにはなかった。彼らは不自由さを感じながら悶々とすごす中、文学や音楽、絵画といった世界において、鬱屈した感情を解放しようとした。これぞ、「疾風怒濤」が生まれた背景である。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「ところで若き日のベートーヴェンが「歓喜に寄す」に出会うこととなる故郷のボンは、ウーツ的な「歓喜に寄す」、あるいはオペラ『魔笛』の世界が多かれ少なかれ実現した小宇宙だったといえるかもしれない。というのも、この街には啓蒙主義の花が咲き、フリーメーソンの活動も活発だったからである。 ボンは元々ケルン選帝侯国の宮殿の一つが構えられた宮廷都市だった。「ケルン選帝侯国」とは、ライン河沿いの都市ケルンを都に、大司教が君主を務める宗教国家である。しかもこの国の君主は、神聖ローマ皇帝に即位する人物を選挙する権利を有する選定侯という、帝国内でも「影のボス」のような存在だった。だが一八世紀に入り、旧来の特権階級/支配階級の力がヨーロッパのそこかしこで衰えてゆく中、同国も経済をはじめとして様々な難問に直面してゆく。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「既に述べたように、ベートーヴェンは新設なったボン大学の哲学科に聴講生として登録していた。折しもフランス革命が勃発し、彼の地のニュースや思想が、フランス以外の地にも広まっていた頃である。特にボンは、地理的にフランスに近いということもあり、革命はきわめてリアルな出来事だった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「それを物語る手紙が残されている。一七九三年の初頭、シラーの妻シャルロッテに宛てられたもので、差出人はボン大学の法学部教授バルトロメウス・フィッシェニヒ。当時ベートーヴェンは、二度目のウィーン留学に出かけている最中だった。 その中でフィッシェニヒは、ベートーヴェンがシラーの「歓喜に寄す」に曲を付けようとしていることを報告した上で、こう結論付けている。「完璧なものができるのではないかと、期待しています。というのも私が知る限りにおいて、彼は偉大なすばらしい人物だからです」。ただしこの時点では、ベートーヴェンによる作曲は実現されなかった。 もしもこの時ベートーヴェンが「歓喜に寄す」に曲を付けていたとすれば、どのようなものになっただろうか。おそらくは当時数々の曲が付けられた「歓喜に寄す」の例に漏れず、いくつかの節を同じメロディで繰り返す、いわゆる「歌曲形式」が用いられただろう。既にベートーヴェンは、何人かの詩人の詩に曲を付けていたが、そのほとんどが歌曲形式だった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「だが、ベートーヴェンの雇い主でもあるマクシミリアン・フランツ自身が危機に陥る。「フランス vs.神聖ローマ帝国構成国、あるいはハプスブルク家」という対立を背景に、同家の出身者である彼の支配するケルン選帝侯国が、フランスから格好の標的とされたからである。彼は戦禍を逃れて国内を転々とせざるをえなくなったあげく、一七九四年、フランス軍にボンを占領されると実家であるウィーンへと逃亡し、その後、栄えあるケルン選帝侯国は消滅した。 こうして、ボンの宮廷自体が壊滅の危機に晒される。ウィーン滞在中のベートーヴェンにとっても、奨学金が断たれただけではない。自らの勤務先が風前の灯の状態となる中で、彼はボンに戻るわけにもゆかず、ウィーンで生活することを余儀なくされたのである。 ただし、ハプスブルク家の治める巨大な領土の各地から様々な人々や文化が集まる国際都市ウィーンで、音楽家として頭角を現すのは容易ではない。しかも一七九〇年にハプスブルク家の当主となったレオポルト二世が、在位わずか二年で一七九二年に死去する中、君主の交代に伴う動揺や、過激化するフランス革命への対応をめぐって、帝都ウィーンでは動揺が広がっていた。こうした状況の中でベートーヴェン自身、とにもかくにも音楽家として、この街で生き抜いてゆかなければならなかった。となれば、彼にとって「歓喜に寄す」に曲を付けるどころの余裕がなくなったのも当然だろう。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
ベートーヴェンの第9交響曲
を取り上げるならば、
岩波新書の
『ベートーヴェン《第九》の世界』
の方がいいかと、個人的に思う。
あのすごい曲の背景が知れて、
ベートーヴェンのすごさの中味が変わったかも。
「その格好の敵となったのが、ハプスブルク家だ。ナポレオンにとってハプスブルク家は、伝統と格式を誇る一大貴族であるがゆえに、革命精神にとって最大の敵であり、打ち倒すべき対象であった。しかも同家は巨大な領土を有し、神聖ローマ帝国も影響下に置いているとなれば、それらを手に入れることは、フランスの覇権拡大に繫がる。 こうしてナポレオンは、ハプスブルク家の領土や神聖ローマ帝国諸地域に進軍していくわけだが、進軍される側としてはたまったものではない。しかも、元々フランス革命の掲げていた純粋な世直しの理想は、恐怖政治をはじめとするその後の革命の混乱によって大きく傷つき、ナポレオンの台頭によってますます変化を遂げている──。 そうしたことを、今や攻められる側になった神聖ローマ帝国の側にいるからこそ、否応なく悟るようになった人々が現れてくる。その一人こそ、新たな世界実現の夢に燃え、国外逃亡の生活の中で「歓喜に寄す」を書いた、あのシラーだった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「つまり「鐘の歌」を発表した当時のシラーにとっては、旧体制の転覆以上に、融和や平和の実現こそが重要だったことがよくわかる。もちろんこれは、彼が保守化したからではない。革命とはシラーにとって、特権階級が支配する旧体制を乗り越えるための手段であり、目的ではなくなっていったということだ。 また、シラーとすれば、それほどまでにフランス革命の成り行きには失望を覚える点が多々あったのだろう。革命の当初に掲げられた理念と、実際の革命が陥った泥沼の状態、さらにはそれを巧みに利用して頭角を現し、ヨーロッパ中を戦争に巻き込みつつあるナポレオン……。そうした状況の中で、彼は「鐘の歌」の最後に「喜び( Freude)」と「平和( Frieden)」という語を相前後して用いながら、歓喜は調和や和合をもたらすものでなければならない、と説いていく。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「 「音楽の力」を謳うという行為は、現在からすれば使い古された、陳腐なものに見えるかもしれない。だが、ナポレオンに散々煮え湯を飲まされ続けてきた人々にとってみれば、音楽こそが傷ついた自分たちを結束させ、新たな未来へ踏み出させてくれるものだった。実際この演奏会は、ナポレオン相手の戦争で傷を負った兵士や、戦火で焼け出された人々を救うための、チャリティ・コンサートという目的も兼ねていたほどである。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「ヨーロッパでは長年にわたって、声楽のほうが器楽より上とされてきた。聖書によれば、全知全能の神は「光あれ」「地が現れよ」等と声を発することによって、この世界を創造していったからである。しかも人間に関しては、「神が自身に似せて創った」という記述がある。つまり人間の身体と神の身体はそっくりにできているとなれば、声とは、人間が発するものの中でもっとも価値が高いという理屈になる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「こうした作り手、受け手双方の需要と供給のあり方の変化を背景に、一八世紀までであれば、オペラや演奏会の脇役として軽視されてきた交響曲をあえて主役の座に据え、聖なる音楽の代表格のようにしようとする動きも出始める。交響曲は声楽を伴わない =テキストを伴わないがゆえに、「自己」を確立し始めた市民階級を中心とする聴き手一人一人が、その内容を自由に解釈できる余地が大きい。加えて、旧来の交響曲に比べ、より劇的なメロディや広範なダイナミクスを通じてもたらされるオーケストラの壮大な響きは、聴き手を否応なく感動へ導くことで彼らの魂を奮い立たせ、浄化させるに充分な力を秘めている。一九世紀の交響曲が、西洋音楽の器楽ジャンルの中でもとりわけ、崇高あるいは神聖な存在と目されてゆく、さらには音楽そのものに「感動」が必須とされてゆく所以である。 そんな交響曲を書いた典型こそ、ベートーヴェンであった。たとえば「運命」と呼ばれる『交響曲第五番』は、日々様々な闘いに明け暮れる市民の心を否応なく奮い立たせるような「暗から明へ」「闘争を経て勝利に至る」プロセスを明確に描き出す。しかも、それが最も鮮明に描かれる第三楽章から第四楽章にかけては、両楽章を切れ目なく演奏するよう、ベートーヴェン自身によって楽譜に指示がなされているほどである。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「 『交響曲第五番』に限らず、「闘いと勝利の人ベートーヴェン」といった印象の強い作品を彼が次々と手掛けていったのは、一八〇〇年過ぎ頃からせいぜい一八一二年頃までと言われている。いわゆる「ベートーヴェンの中期」と言われる時期で、そこでは耳の病の深刻化と克服、ナポレオンがもたらした希望と混乱、「不滅の恋人」を含む様々な女性たちとの熱烈な恋愛と失恋といった、彼の人生の中でも激動期と重なっている。そして、この時期にベートーヴェンの傑作も続々誕生した、というのが一般的な見方だ。 ただしこの時期においてすら、ベートーヴェンが常に「闘争を経て勝利に至る」作品ばかりを手掛けていたわけではない。彼のトレードマークともいえる交響曲でも、そうした流れの中に展開される作品といえば、番号付きの九曲中、『交響曲第五番』と「第九」しか存在せず、しかも「第九」は、遥か後の一八二〇年代に作られている。 さらに『ウェリントンの勝利』を書いた一八一三年以降になると、ナポレオンの失脚に沸くウィーンの状況を反映するかのように、祝祭性に満ちた華やかな曲が手掛けられるようになってゆく。そしてこれらがベートーヴェンらしくないという理由から、この時期の彼がスランプに陥っていたという見方が生まれたのだが、はたしてそうだろうか?」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「さらに同年の秋以降、ナポレオン失脚後のヨーロッパの再編をめぐり、ウィーンで国際会議が開催される。いわゆる「ウィーン会議」である。会議と並び話題を呼んだのが、各種宴会はもちろん、舞踏会、オペラ、演劇、演奏会等々のアトラクションだった。ここでもベートーヴェンに次々と作曲依頼が舞い込んだ。先ほども触れた『栄光の時』をはじめ、『連合君主に寄せる合唱』、さらに、これまた複数の作曲家が共作し、宮廷劇場で上演された歌芝居『凱旋門』の終曲『成就せり』──。これらの作品が、ウィーン会議の時期を中心に作られていった。 このような彼の姿は、「権力に屈せず孤高の闘いを続けた」といった、よくあるベートーヴェンのイメージからはかけ離れたもののように思われるかもしれない。だが既に何度か述べたように、ベートーヴェンはけっして君主制そのものを否定する共和主義者ではなかった。市民階級の魂を鷲摑みにするような曲を発表したり、彼らのために演奏活動や作曲活動を展開したりする一方で、自分に敬意を払い、支援してくれるのであれば貴族とも親しく交際した。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「なおウィーン会議を通じて確立されたこの保守反動体制は、「ウィーン体制」あるいは「メッテルニヒ体制」とも呼ばれている。後者は、ウィーン会議を実質上取りしきった、オーストリア帝国の外相、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(一七七三─一八五九)に由来する。貴族の出身だった彼は、ナポレオンも革命思想もこころよく思っておらず、ヨーロッパをフランス革命が勃発する以前の状況に戻そうとした。またそれゆえに、ウィーン会議で各国の利害が対立すると、巧妙かつ辛抱強く調整をおこない、会議を成功へと導いた。 このきわめて老獪な政治家は、自由か平和かの究極の選択を市民に突きつけて、前者を選び取らせる道を整えた。また、政治以外の事柄であればある程度の自由を市民に許し、彼らの不満が溜まって革命が起きないよう、ひそかなガス抜きもおこなった。こうした功績を買われて、メッテルニヒはオーストリア帝国宰相の座に上りつめただけでなく、その地位に三〇年以上君臨することとなる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「こうしてベートーヴェンは、交響曲をはじめ、もはや「大声」で人々に訴えかけることをほとんどおこなわなくなる。それにかわって、これまでも折に触れ手掛けてきたピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲といった、室内で少人数が演奏し、聴くようなジャンルを集中的に作曲するようになった。しかも、そうして生まれた作品の多くは長大で、技術的にも解釈的にもきわめて深く難解なものだった。室内楽というジャンルは、元はといえば音楽愛好家が手掛け、また彼らの購入を見込んで楽譜が出版され、その収入を作曲者が得る、という流れになっていた。だが、あたかもそうした流れを無視するかのように、ベートーヴェンは自らの内へ内へと閉じこもり、内面をひたすら掘り下げる作品を作ってゆく。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「なお、ベートーヴェンは宗教を嫌っていたかのようなイメージで語られることが多いが、実はキリスト教、それもケルン選帝侯国やオーストリア帝国に根付いてきたカトリックを篤く信仰していた。まただからこそ、本来宗教のあるべき姿とかけ離れ、特権的存在として権威を振りかざしている聖職者や教会に対しては、批判的だった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「既に幾度か述べたように、ベートーヴェンは、自分を尊敬してくれる貴族に対しては良好な関係を結ぶことを厭わなかった。「第九」の献呈に際しても、もっとも金払いがよく、作品の権威付けになる相手を狙っていたのである。名だたる君主を相手に、ベートーヴェンはしたたかな商売を仕掛けようとしたのだった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「もちろんワーグナーは若い頃からベートーヴェンを尊敬しており、彼に関する小説や様々な解説を著してきた。ただしそこでは、ベートーヴェンに自身を重ね合わせ、自分こそが彼の衣鉢を継ぐ正統的存在であるといわんばかりの没入ぶりが強烈に打ち出される。 逆に言えばこうしたワーグナーの姿勢は、同僚音楽家に対する執拗なまでの批判、あるいは無視と通底する。たとえば彼はドレスデンで「第九」を初めて指揮したライシガーについて、その演奏が酷いものであったため、自分がこの街に赴任するまで「第九」が取り上げられなくなった、とこき下ろす。だが、当の演奏会にワーグナー自身は立ち会っておらず、加えて宮廷劇場で再演までおこなわれたことを考えるに、ライシガー指揮の上演を失敗と決めつける理由など、どこにもない。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「 しかも、高名な先輩のメンデルスゾーンに対し、ワーグナーは無視を決め込むどころか、やがて攻撃を開始した。それが、一八五〇年に匿名で、やがて一八六九年に改訂版が実名で出版された『音楽におけるユダヤ性』である。この中でワーグナーはメンデルスゾーンに対し、彼がユダヤ人であること、またユダヤ人音楽家の活躍が音楽界、ひいては世界を侵していると主張する。典型的な反ユダヤ主義の書に他ならない。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「マーラーは民族的にはユダヤ人だったものの、学生時代には、様々な民族運動に揺れるオーストリアの都ウィーンにおいて、ドイツ文化の優位を主張するサークルに参加した。ユダヤ人というアウトサイダーであるからこそ、ドイツ系の社会と同化し、自らのアイデンティティをドイツ的なものに求めようとしたのだった。またそうした事情も手伝い、彼は熱烈なワーグナー信奉者となっただけでなく、後年「第九」を含むベートーヴェンの交響曲についても、ワーグナーのひそみに倣ったかのような大幅な改訂作業をおこなった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「そうした中、一九七二年に『ヨーロッパ賛歌』が発表されたタイミングにぶつけて、ロックミュージシャンのデヴィッド・ボウイ(一九四七─二〇一六)が、とある行動に出る。『すべての若き野郎ども』というゲイ賛歌をリリースした彼は、この曲を取り上げた自らのコンサートツアー中、「喜びの歌」のメロディを登場の際に用い続けた。それは、当時タブー視されていたゲイの存在を肯定し、新たな自由を謳う新時代の「第九」に他ならなかった。 また、その一年前の一九七一年には、映画監督のスタンリー・キューブリック(一九二八─九九)による映画『時計じかけのオレンジ』が公開された(原作は一九六二年にアンソニー・バージェス〔一九一七─九三〕が発表した同名の小説)。主人公は、ベートーヴェンの曲を愛するとともに、暴力とセックスに明け暮れる若者。彼はある殺人事件を犯して逮捕され、残忍な人格を矯正するという名目で、国家の目論む暗示療法の被験者として監禁される。 こうしたストーリー展開において、要所要所で用いられるのが「第九」である。たとえばそれは、残酷なまでの暗示療法のシーンの最中に耳を弄する大音量で流され、若者は自殺未遂に追い込まれるほどのパニックを起こす。あるいは映画の最後、本来の暴力的な性格が完治していないにもかかわらず、療法成功をでっち上げたい国家のプロパガンダの手先に彼が使われるシーンでも、「第九」が用いられる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「また、その一年前の一九七一年には、映画監督のスタンリー・キューブリック(一九二八─九九)による映画『時計じかけのオレンジ』が公開された(原作は一九六二年にアンソニー・バージェス〔一九一七─九三〕が発表した同名の小説)。主人公は、ベートーヴェンの曲を愛するとともに、暴力とセックスに明け暮れる若者。彼はある殺人事件を犯して逮捕され、残忍な人格を矯正するという名目で、国家の目論む暗示療法の被験者として監禁される。 こうしたストーリー展開において、要所要所で用いられるのが「第九」である。たとえばそれは、残酷なまでの暗示療法のシーンの最中に耳を弄する大音量で流され、若者は自殺未遂に追い込まれるほどのパニックを起こす。あるいは映画の最後、本来の暴力的な性格が完治していないにもかかわらず、療法成功をでっち上げたい国家のプロパガンダの手先に彼が使われるシーンでも、「第九」が用いられる。 つまり、「第九」のテキストに漲る崇高な理念を換骨奪胎し、「自由」と表裏一体の暴力や、表面的な「友愛」「平和」の虚偽を暴き出そうとする行為に他ならない。ベトナム反戦運動や学生運動等を通じて世界が大きく揺れ動いているにもかかわらず、『ヨーロッパ賛歌』に見られるように、ナチス時代の清算からも目を背け、既に手垢のついた感のある一九世紀以来の近代市民的価値観に固執する人々に否を突きつけること。表現の方法こそ異なるものの、「第九」をめぐるキューブリックとボウイには、共通した姿勢が見られる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
Posted by ブクログ
壮絶な時代背景を踏まえ、強烈な力を用いて作られた作品だからこそ、聴衆が自分を重ね、表現するものとなり、逆に作品を通じ背景や作者の肖像を作り上げていく。古典作品の楽しみ方を一つ増やせた気がする。
Posted by ブクログ
芸術作品は、芸術家の生きた時代背景やその意図に迫ったとしても、今を生きる人が解釈する場合、どうしても今の時代背景や文化のバイアスから完全に逃れることは難しい。ドラマティックな構成をもつ第九の場合にはそれが如実に表れているということを丁寧に分析された実例から学べたのが収穫。