小宮正安の作品一覧
「小宮正安」の「エリザベートと黄昏のハプスブルク帝国」「コンスタンツェ・モーツァルト 「悪妻」伝説の虚実」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「小宮正安」の「エリザベートと黄昏のハプスブルク帝国」「コンスタンツェ・モーツァルト 「悪妻」伝説の虚実」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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Posted by ブクログ
ベートーヴェンは神と近代的自我の狭間の人だよね。でも、生活では貴族の支援も受けていて、そこにも古い社会と新しい個人の間の緊張がある感じはする。美術の勉強してたら音楽も何となく解像度が上がってきた気がする。
小宮正安 こみや まさやす
1969年、東京に生まれる。東京都立西高等学校卒、1992年東京大学文学部社会学科卒業。専門はヨーロッパ文化史、ドイツ文学。2000年『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』(中公新書)でデビューして以降、ヨーロッパ文化を音楽・建築・コレクションといった多角的な視点から捉えた著作活動をおこなう。『レコード芸術』や『週間読書人』といった幅広いジャンルの雑誌媒体にも定期的に寄稿。2006年『狂言風オペラ〈フィガロの結婚〉』(2008年度文化庁芸術祭参加作品)で脚本家としてもデビューを果たし、同シリーズの〈魔笛〉は日本のみならずドイツでも上演され高評を博した。教育者としては、秋田大学教育文化学部准教授を経て、現在横浜国立大学教育人間科学部准教授として後進の指導に当たっている。
「シラーは幼少の頃から頭がよく、また父親が将校兼軍医だったこともあって、君主であるカール・オイゲン(一七二八─九三)の目にとまる。そして彼が創設したばかりの高等教育機関で、法律や医学を学ぶようになった。またこの頃、シラーは同時代の文学にも目覚める。当時流行していたスタイルは、「シュトゥルム・ウント・ドラング」、日本語では「疾風怒濤」と訳されるものだ。「疾風怒濤」とは簡単にまとめれば、あらゆる感情を爆発させつつ、破滅をも恐れずに突き進む生き方を肯定する芸術潮流である。 それにしても、なぜこのような潮流が生まれたのか? 答えは、「個人の目覚め」にある。当時は、絶対的な権威を具えた王侯貴族が権勢をふるう一方、経済の発達を基盤に都市に住む商人や手工業者、つまり市民階級がひそかに力を蓄えつつあった。となると、王侯貴族を頂点に据えた体制に不満を抱く市民が増え始めるのも当然である。 ただし、現実的に伝統的体制を転覆するまでの力は、まだ市民たちにはなかった。彼らは不自由さを感じながら悶々とすごす中、文学や音楽、絵画といった世界において、鬱屈した感情を解放しようとした。これぞ、「疾風怒濤」が生まれた背景である。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「ところで若き日のベートーヴェンが「歓喜に寄す」に出会うこととなる故郷のボンは、ウーツ的な「歓喜に寄す」、あるいはオペラ『魔笛』の世界が多かれ少なかれ実現した小宇宙だったといえるかもしれない。というのも、この街には啓蒙主義の花が咲き、フリーメーソンの活動も活発だったからである。 ボンは元々ケルン選帝侯国の宮殿の一つが構えられた宮廷都市だった。「ケルン選帝侯国」とは、ライン河沿いの都市ケルンを都に、大司教が君主を務める宗教国家である。しかもこの国の君主は、神聖ローマ皇帝に即位する人物を選挙する権利を有する選定侯という、帝国内でも「影のボス」のような存在だった。だが一八世紀に入り、旧来の特権階級/支配階級の力がヨーロッパのそこかしこで衰えてゆく中、同国も経済をはじめとして様々な難問に直面してゆく。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「既に述べたように、ベートーヴェンは新設なったボン大学の哲学科に聴講生として登録していた。折しもフランス革命が勃発し、彼の地のニュースや思想が、フランス以外の地にも広まっていた頃である。特にボンは、地理的にフランスに近いということもあり、革命はきわめてリアルな出来事だった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「それを物語る手紙が残されている。一七九三年の初頭、シラーの妻シャルロッテに宛てられたもので、差出人はボン大学の法学部教授バルトロメウス・フィッシェニヒ。当時ベートーヴェンは、二度目のウィーン留学に出かけている最中だった。 その中でフィッシェニヒは、ベートーヴェンがシラーの「歓喜に寄す」に曲を付けようとしていることを報告した上で、こう結論付けている。「完璧なものができるのではないかと、期待しています。というのも私が知る限りにおいて、彼は偉大なすばらしい人物だからです」。ただしこの時点では、ベートーヴェンによる作曲は実現されなかった。 もしもこの時ベートーヴェンが「歓喜に寄す」に曲を付けていたとすれば、どのようなものになっただろうか。おそらくは当時数々の曲が付けられた「歓喜に寄す」の例に漏れず、いくつかの節を同じメロディで繰り返す、いわゆる「歌曲形式」が用いられただろう。既にベートーヴェンは、何人かの詩人の詩に曲を付けていたが、そのほとんどが歌曲形式だった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「だが、ベートーヴェンの雇い主でもあるマクシミリアン・フランツ自身が危機に陥る。「フランス vs.神聖ローマ帝国構成国、あるいはハプスブルク家」という対立を背景に、同家の出身者である彼の支配するケルン選帝侯国が、フランスから格好の標的とされたからである。彼は戦禍を逃れて国内を転々とせざるをえなくなったあげく、一七九四年、フランス軍にボンを占領されると実家であるウィーンへと逃亡し、その後、栄えあるケルン選帝侯国は消滅した。 こうして、ボンの宮廷自体が壊滅の危機に晒される。ウィーン滞在中のベートーヴェンにとっても、奨学金が断たれただけではない。自らの勤務先が風前の灯の状態となる中で、彼はボンに戻るわけにもゆかず、ウィーンで生活することを余儀なくされたのである。 ただし、ハプスブルク家の治める巨大な領土の各地から様々な人々や文化が集まる国際都市ウィーンで、音楽家として頭角を現すのは容易ではない。しかも一七九〇年にハプスブルク家の当主となったレオポルト二世が、在位わずか二年で一七九二年に死去する中、君主の交代に伴う動揺や、過激化するフランス革命への対応をめぐって、帝都ウィーンでは動揺が広がっていた。こうした状況の中でベートーヴェン自身、とにもかくにも音楽家として、この街で生き抜いてゆかなければならなかった。となれば、彼にとって「歓喜に寄す」に曲を付けるどころの余裕がなくなったのも当然だろう。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
ベートーヴェンの第9交響曲
を取り上げるならば、
岩波新書の
『ベートーヴェン《第九》の世界』
の方がいいかと、個人的に思う。
あのすごい曲の背景が知れて、
ベートーヴェンのすごさの中味が変わったかも。
「その格好の敵となったのが、ハプスブルク家だ。ナポレオンにとってハプスブルク家は、伝統と格式を誇る一大貴族であるがゆえに、革命精神にとって最大の敵であり、打ち倒すべき対象であった。しかも同家は巨大な領土を有し、神聖ローマ帝国も影響下に置いているとなれば、それらを手に入れることは、フランスの覇権拡大に繫がる。 こうしてナポレオンは、ハプスブルク家の領土や神聖ローマ帝国諸地域に進軍していくわけだが、進軍される側としてはたまったものではない。しかも、元々フランス革命の掲げていた純粋な世直しの理想は、恐怖政治をはじめとするその後の革命の混乱によって大きく傷つき、ナポレオンの台頭によってますます変化を遂げている──。 そうしたことを、今や攻められる側になった神聖ローマ帝国の側にいるからこそ、否応なく悟るようになった人々が現れてくる。その一人こそ、新たな世界実現の夢に燃え、国外逃亡の生活の中で「歓喜に寄す」を書いた、あのシラーだった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「つまり「鐘の歌」を発表した当時のシラーにとっては、旧体制の転覆以上に、融和や平和の実現こそが重要だったことがよくわかる。もちろんこれは、彼が保守化したからではない。革命とはシラーにとって、特権階級が支配する旧体制を乗り越えるための手段であり、目的ではなくなっていったということだ。 また、シラーとすれば、それほどまでにフランス革命の成り行きには失望を覚える点が多々あったのだろう。革命の当初に掲げられた理念と、実際の革命が陥った泥沼の状態、さらにはそれを巧みに利用して頭角を現し、ヨーロッパ中を戦争に巻き込みつつあるナポレオン……。そうした状況の中で、彼は「鐘の歌」の最後に「喜び( Freude)」と「平和( Frieden)」という語を相前後して用いながら、歓喜は調和や和合をもたらすものでなければならない、と説いていく。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「 「音楽の力」を謳うという行為は、現在からすれば使い古された、陳腐なものに見えるかもしれない。だが、ナポレオンに散々煮え湯を飲まされ続けてきた人々にとってみれば、音楽こそが傷ついた自分たちを結束させ、新たな未来へ踏み出させてくれるものだった。実際この演奏会は、ナポレオン相手の戦争で傷を負った兵士や、戦火で焼け出された人々を救うための、チャリティ・コンサートという目的も兼ねていたほどである。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「ヨーロッパでは長年にわたって、声楽のほうが器楽より上とされてきた。聖書によれば、全知全能の神は「光あれ」「地が現れよ」等と声を発することによって、この世界を創造していったからである。しかも人間に関しては、「神が自身に似せて創った」という記述がある。つまり人間の身体と神の身体はそっくりにできているとなれば、声とは、人間が発するものの中でもっとも価値が高いという理屈になる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「こうした作り手、受け手双方の需要と供給のあり方の変化を背景に、一八世紀までであれば、オペラや演奏会の脇役として軽視されてきた交響曲をあえて主役の座に据え、聖なる音楽の代表格のようにしようとする動きも出始める。交響曲は声楽を伴わない =テキストを伴わないがゆえに、「自己」を確立し始めた市民階級を中心とする聴き手一人一人が、その内容を自由に解釈できる余地が大きい。加えて、旧来の交響曲に比べ、より劇的なメロディや広範なダイナミクスを通じてもたらされるオーケストラの壮大な響きは、聴き手を否応なく感動へ導くことで彼らの魂を奮い立たせ、浄化させるに充分な力を秘めている。一九世紀の交響曲が、西洋音楽の器楽ジャンルの中でもとりわけ、崇高あるいは神聖な存在と目されてゆく、さらには音楽そのものに「感動」が必須とされてゆく所以である。 そんな交響曲を書いた典型こそ、ベートーヴェンであった。たとえば「運命」と呼ばれる『交響曲第五番』は、日々様々な闘いに明け暮れる市民の心を否応なく奮い立たせるような「暗から明へ」「闘争を経て勝利に至る」プロセスを明確に描き出す。しかも、それが最も鮮明に描かれる第三楽章から第四楽章にかけては、両楽章を切れ目なく演奏するよう、ベートーヴェン自身によって楽譜に指示がなされているほどである。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「 『交響曲第五番』に限らず、「闘いと勝利の人ベートーヴェン」といった印象の強い作品を彼が次々と手掛けていったのは、一八〇〇年過ぎ頃からせいぜい一八一二年頃までと言われている。いわゆる「ベートーヴェンの中期」と言われる時期で、そこでは耳の病の深刻化と克服、ナポレオンがもたらした希望と混乱、「不滅の恋人」を含む様々な女性たちとの熱烈な恋愛と失恋といった、彼の人生の中でも激動期と重なっている。そして、この時期にベートーヴェンの傑作も続々誕生した、というのが一般的な見方だ。 ただしこの時期においてすら、ベートーヴェンが常に「闘争を経て勝利に至る」作品ばかりを手掛けていたわけではない。彼のトレードマークともいえる交響曲でも、そうした流れの中に展開される作品といえば、番号付きの九曲中、『交響曲第五番』と「第九」しか存在せず、しかも「第九」は、遥か後の一八二〇年代に作られている。 さらに『ウェリントンの勝利』を書いた一八一三年以降になると、ナポレオンの失脚に沸くウィーンの状況を反映するかのように、祝祭性に満ちた華やかな曲が手掛けられるようになってゆく。そしてこれらがベートーヴェンらしくないという理由から、この時期の彼がスランプに陥っていたという見方が生まれたのだが、はたしてそうだろうか?」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「さらに同年の秋以降、ナポレオン失脚後のヨーロッパの再編をめぐり、ウィーンで国際会議が開催される。いわゆる「ウィーン会議」である。会議と並び話題を呼んだのが、各種宴会はもちろん、舞踏会、オペラ、演劇、演奏会等々のアトラクションだった。ここでもベートーヴェンに次々と作曲依頼が舞い込んだ。先ほども触れた『栄光の時』をはじめ、『連合君主に寄せる合唱』、さらに、これまた複数の作曲家が共作し、宮廷劇場で上演された歌芝居『凱旋門』の終曲『成就せり』──。これらの作品が、ウィーン会議の時期を中心に作られていった。 このような彼の姿は、「権力に屈せず孤高の闘いを続けた」といった、よくあるベートーヴェンのイメージからはかけ離れたもののように思われるかもしれない。だが既に何度か述べたように、ベートーヴェンはけっして君主制そのものを否定する共和主義者ではなかった。市民階級の魂を鷲摑みにするような曲を発表したり、彼らのために演奏活動や作曲活動を展開したりする一方で、自分に敬意を払い、支援してくれるのであれば貴族とも親しく交際した。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「なおウィーン会議を通じて確立されたこの保守反動体制は、「ウィーン体制」あるいは「メッテルニヒ体制」とも呼ばれている。後者は、ウィーン会議を実質上取りしきった、オーストリア帝国の外相、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(一七七三─一八五九)に由来する。貴族の出身だった彼は、ナポレオンも革命思想もこころよく思っておらず、ヨーロッパをフランス革命が勃発する以前の状況に戻そうとした。またそれゆえに、ウィーン会議で各国の利害が対立すると、巧妙かつ辛抱強く調整をおこない、会議を成功へと導いた。 このきわめて老獪な政治家は、自由か平和かの究極の選択を市民に突きつけて、前者を選び取らせる道を整えた。また、政治以外の事柄であればある程度の自由を市民に許し、彼らの不満が溜まって革命が起きないよう、ひそかなガス抜きもおこなった。こうした功績を買われて、メッテルニヒはオーストリア帝国宰相の座に上りつめただけでなく、その地位に三〇年以上君臨することとなる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「こうしてベートーヴェンは、交響曲をはじめ、もはや「大声」で人々に訴えかけることをほとんどおこなわなくなる。それにかわって、これまでも折に触れ手掛けてきたピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲といった、室内で少人数が演奏し、聴くようなジャンルを集中的に作曲するようになった。しかも、そうして生まれた作品の多くは長大で、技術的にも解釈的にもきわめて深く難解なものだった。室内楽というジャンルは、元はといえば音楽愛好家が手掛け、また彼らの購入を見込んで楽譜が出版され、その収入を作曲者が得る、という流れになっていた。だが、あたかもそうした流れを無視するかのように、ベートーヴェンは自らの内へ内へと閉じこもり、内面をひたすら掘り下げる作品を作ってゆく。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「なお、ベートーヴェンは宗教を嫌っていたかのようなイメージで語られることが多いが、実はキリスト教、それもケルン選帝侯国やオーストリア帝国に根付いてきたカトリックを篤く信仰していた。まただからこそ、本来宗教のあるべき姿とかけ離れ、特権的存在として権威を振りかざしている聖職者や教会に対しては、批判的だった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「既に幾度か述べたように、ベートーヴェンは、自分を尊敬してくれる貴族に対しては良好な関係を結ぶことを厭わなかった。「第九」の献呈に際しても、もっとも金払いがよく、作品の権威付けになる相手を狙っていたのである。名だたる君主を相手に、ベートーヴェンはしたたかな商売を仕掛けようとしたのだった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「もちろんワーグナーは若い頃からベートーヴェンを尊敬しており、彼に関する小説や様々な解説を著してきた。ただしそこでは、ベートーヴェンに自身を重ね合わせ、自分こそが彼の衣鉢を継ぐ正統的存在であるといわんばかりの没入ぶりが強烈に打ち出される。 逆に言えばこうしたワーグナーの姿勢は、同僚音楽家に対する執拗なまでの批判、あるいは無視と通底する。たとえば彼はドレスデンで「第九」を初めて指揮したライシガーについて、その演奏が酷いものであったため、自分がこの街に赴任するまで「第九」が取り上げられなくなった、とこき下ろす。だが、当の演奏会にワーグナー自身は立ち会っておらず、加えて宮廷劇場で再演までおこなわれたことを考えるに、ライシガー指揮の上演を失敗と決めつける理由など、どこにもない。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「 しかも、高名な先輩のメンデルスゾーンに対し、ワーグナーは無視を決め込むどころか、やがて攻撃を開始した。それが、一八五〇年に匿名で、やがて一八六九年に改訂版が実名で出版された『音楽におけるユダヤ性』である。この中でワーグナーはメンデルスゾーンに対し、彼がユダヤ人であること、またユダヤ人音楽家の活躍が音楽界、ひいては世界を侵していると主張する。典型的な反ユダヤ主義の書に他ならない。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「マーラーは民族的にはユダヤ人だったものの、学生時代には、様々な民族運動に揺れるオーストリアの都ウィーンにおいて、ドイツ文化の優位を主張するサークルに参加した。ユダヤ人というアウトサイダーであるからこそ、ドイツ系の社会と同化し、自らのアイデンティティをドイツ的なものに求めようとしたのだった。またそうした事情も手伝い、彼は熱烈なワーグナー信奉者となっただけでなく、後年「第九」を含むベートーヴェンの交響曲についても、ワーグナーのひそみに倣ったかのような大幅な改訂作業をおこなった。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「そうした中、一九七二年に『ヨーロッパ賛歌』が発表されたタイミングにぶつけて、ロックミュージシャンのデヴィッド・ボウイ(一九四七─二〇一六)が、とある行動に出る。『すべての若き野郎ども』というゲイ賛歌をリリースした彼は、この曲を取り上げた自らのコンサートツアー中、「喜びの歌」のメロディを登場の際に用い続けた。それは、当時タブー視されていたゲイの存在を肯定し、新たな自由を謳う新時代の「第九」に他ならなかった。 また、その一年前の一九七一年には、映画監督のスタンリー・キューブリック(一九二八─九九)による映画『時計じかけのオレンジ』が公開された(原作は一九六二年にアンソニー・バージェス〔一九一七─九三〕が発表した同名の小説)。主人公は、ベートーヴェンの曲を愛するとともに、暴力とセックスに明け暮れる若者。彼はある殺人事件を犯して逮捕され、残忍な人格を矯正するという名目で、国家の目論む暗示療法の被験者として監禁される。 こうしたストーリー展開において、要所要所で用いられるのが「第九」である。たとえばそれは、残酷なまでの暗示療法のシーンの最中に耳を弄する大音量で流され、若者は自殺未遂に追い込まれるほどのパニックを起こす。あるいは映画の最後、本来の暴力的な性格が完治していないにもかかわらず、療法成功をでっち上げたい国家のプロパガンダの手先に彼が使われるシーンでも、「第九」が用いられる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
「また、その一年前の一九七一年には、映画監督のスタンリー・キューブリック(一九二八─九九)による映画『時計じかけのオレンジ』が公開された(原作は一九六二年にアンソニー・バージェス〔一九一七─九三〕が発表した同名の小説)。主人公は、ベートーヴェンの曲を愛するとともに、暴力とセックスに明け暮れる若者。彼はある殺人事件を犯して逮捕され、残忍な人格を矯正するという名目で、国家の目論む暗示療法の被験者として監禁される。 こうしたストーリー展開において、要所要所で用いられるのが「第九」である。たとえばそれは、残酷なまでの暗示療法のシーンの最中に耳を弄する大音量で流され、若者は自殺未遂に追い込まれるほどのパニックを起こす。あるいは映画の最後、本来の暴力的な性格が完治していないにもかかわらず、療法成功をでっち上げたい国家のプロパガンダの手先に彼が使われるシーンでも、「第九」が用いられる。 つまり、「第九」のテキストに漲る崇高な理念を換骨奪胎し、「自由」と表裏一体の暴力や、表面的な「友愛」「平和」の虚偽を暴き出そうとする行為に他ならない。ベトナム反戦運動や学生運動等を通じて世界が大きく揺れ動いているにもかかわらず、『ヨーロッパ賛歌』に見られるように、ナチス時代の清算からも目を背け、既に手垢のついた感のある一九世紀以来の近代市民的価値観に固執する人々に否を突きつけること。表現の方法こそ異なるものの、「第九」をめぐるキューブリックとボウイには、共通した姿勢が見られる。」
—『ベートーヴェン《第九》の世界 (岩波新書)』小宮 正安著
Posted by ブクログ
355
288P
ヨーロッパ行って、音楽が学問の中で地位が高かったって本当の意味で分かったような気がした。例えば中世ヨーロッパ研究で音楽はどの学問より付き物だからな。
小宮正安 こみや まさやす
1969年、東京に生まれる。東京都立西高等学校卒、1992年東京大学文学部社会学科卒業。専門はヨーロッパ文化史、ドイツ文学。2000年『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』(中公新書)でデビューして以降、ヨーロッパ文化を音楽・建築・コレクションといった多角的な視点から捉えた著作活動をおこなう。『レコード芸術』や『週間読書人』といった幅広いジャンルの雑誌媒体にも定期的に寄稿。2006年『狂言風オペラ〈フィガロの結婚〉』(2008年度文化庁芸術祭参加作品)で脚本家としてもデビューを果たし、同シリーズの〈魔笛〉は日本のみならずドイツでも上演され高評を博した。教育者としては、秋田大学教育文化学部准教授を経て、現在横浜国立大学教育人間科学部准教授として後進の指導に当たっている。
ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル・・・(ドイツ語: Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Köchel, 1800年1月14日 - 1877年6月3日)は、オーストリアの音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者。正確にはケッヒェル['kœçəl]。1862年にモーツァルトの全作品目録を出版、そこで作品に振られた番号はケッヘル番号として現在も使われている。
モーツァルトを「造った」男─ケッヘルと同時代のウィーン (講談社現代新書)
by 小宮正安
モーツァルトは一七五六年、ザルツブルクに生まれている。小さいころから姉ともども作曲や演奏に神童ぶりを発揮し、それを披露すべく父親に連れられてヨーロッパの各所を旅した。ともかくモーツァルト=神童というイメージは、同時代の人びとに強烈なインパクトを与えたらしい。のちに彼がウィーンに移住した後も、あるいは一七九一年に亡くなってしばらく経っても、その幼き日の印象を求める傾向はやむことがなかった。
つまるところ、分化した専門性よりも総合的な知を教授しようという姿勢にほかならない。今風の表現で文理融合というのか、文系や理系の違いにこだわらない幅広い知を教授すべき場所がギムナジウムであった。さまざまな角度から光を当てることで人間が鍛錬されその能力は花開く、という十八世紀啓蒙主義的な理想の結晶にほかならない。のちにケッヘルが文学や音楽、さらに自然科学等さまざまな分野に多才ぶりを発揮できたのも、ひとつには啓蒙時代を経た新たな教育システムのおかげではなかったか。
とりわけサロンで好まれたのは音楽だった。音楽は抽象的なものであるから、お上の気に障るような事柄に直接触れる可能性が少ない。さらに市民にとってみれば、楽器を奏でたりそれに耳を傾けたりするということは、かつての王侯貴族が手にしていたような贅沢をささやかながら体験できる絶好の機会であり、またそれがみずからの教養や趣味を物語るステイタスにもなっていった。
こうして、とりわけ帝国の都であるウィーンでは多数の音楽サロンが花開くこととなった。しかも、現在のクラシック演奏会のようにしかつめらしい表情で音楽に対峙するケースは稀だった。こちらに音楽を奏でるグループがいるかと思えば、あちらにはカードゲームに興じる一団があった。パイプをくゆらせている殿方がいる一方で、裁縫に精を出すご婦人方がいた。演奏が終わると時に食事が出されたり、小規模な舞踏会が始まったりした。
もしも時代背景を知らず『憧れ』にたいするコメントを述べるならば、センチメンタルな青春の憧憬、あるいは現実逃避的な若者の夢想、といった事柄に終始するだろう。いや時代背景を知っていても、もう少し若いエネルギーをほとばしらせ、不自由な社会に風穴を開けるくらいの勢いをもったらどうか、とも思いたくなる。 ただ、そこが、ビーダーマイアー世代の青年の特色なのだ。たとえば彼らの親世代の代表的存在であるベートーヴェンならば、拳を振り上げて闘う姿勢をとったかもしれない。なにしろ彼の青春時代は、フランス革命の精神が理想として輝いていたころなのだから。
だがそのベートーヴェンですら、メッテルニヒ体制が確立され自身齢を重ねてゆくなか、みずからのトレードマークともいえる闘いを経て勝利をつかみ取る式の作風から、自分の内面に深く沈潜してゆく作風へと変わっていった。ましてや、ナポレオンの台頭等によってもはやフランス革命を理想化できず、その後の保守反動の波に少年時代から晒されることになったケッヘルらの世代にしてみれば、なおさらだろう。
このような人物を指して、「ディレッタント」という言葉がある。とりわけケッヘルの前半生にあたるビーダーマイアー隆盛時代、「ディレッタント」は非常に肯定的な意味で用いられていた。金のためではなく、みずからの純粋な興味や愛ゆえに芸術や学問に情熱を注ぐ高貴な精神の持ち主、という意味合いだったのである。
こうした考えかたが確立された背景として、ハプスブルク帝国においては貴族の力が強く、しかも貴族の多くが芸術や学問にたいし、抜きん出た興味と造詣とを具えていたことが挙げられる。とくに貴族中の貴族ともいえる当のハプスブルク家の場合、歴代皇帝みずからが盛んに作曲をおこなったり楽器を演奏したりしたのは、典型的な例だ。しかも 妙 なる音楽の響きに包まれる贅沢を味わうとともに、その響きによって支配者としてのみずからのオーラを高めるという政治的意味あいもそこには含まれていた。
その好例がベートーヴェンだろう。彼は、王侯貴族の命に左右されることのない自立したプロの音楽家として、生前から広く認められた存在だった。そもそも彼の人生自体、特権階級による支配から脱し、社会の中心に躍り出ようとしていた市民階級にとって、みずからの生きかたの究極的な手本となりえた。さらにその音楽は新たな時代の幕開けを告げるものとして市民階級から崇拝の対象となり、ベートーヴェンにたいする神格化さえ起こった。
ケッヘル自身、ベートーヴェンを絶賛する詩を書いている。 あなたの歌が響きわたり 人の心を 抗う暇もなく捉えるとき その天賦の才が 崇高な動きのなかに 感動に震える魂を引き裂くとき あなたは自分自身のために 記念碑を打ちたてた そう 自分自身のために あなたは高貴な 変わることのない 不滅の存在 死ぬ定めの人間の胸に それを感じる心が脈打っているかぎり
こうした鉱物学の魅力に取りつかれたケッヘルは、翌一八三〇年から晩年にいたるまで、鉱石を収集することとなった。晩年にあたる一八七五年、彼は鉱石コレクションならびにその目録をはじめ、植物採集標本、自然科学関係の書物を母校クレムスのギムナジウムに寄贈している。自然科学の魅力を若い人たちにも知ってほしい、との願いゆえのことだった(このなかで現在残っているのは鉱石コレクションと目録だけであり、あとのものは第二次世界大戦中に爆撃を受けて焼失してしまった)。
このように幅広いケッヘルの知識と関心については、個々の細分化された学問領域を当てはめるよりも、むしろ「博物学」の観点で捉えたほうがよさそうだ。博物学は主に十八世紀から十九世紀なかばにかけて栄え、自然の森羅万象を対象としつつ、そこに体系性や法則性を見出そうとした学問分野である。つまり、珍奇なものを収集する情熱と、それらを理性的かつ科学的に捉えてゆこうという姿勢が同居している。
というわけでドイツ語圏にかぎっても、博物学の分野で多大な功績を上げた人物は、たとえばモース然り、フンボルト然りである。あるいは現在では文学者としての活動のみがクローズアップされているゲーテも、鉱物学、動植物学、生理学、医学、物理学、化学等に優れた才能を発揮した。また植物との関係に注目するならば、エンドウ豆を用いて遺伝の法則を発見したメンデルも、動物や昆虫など自然科学全般にたいして大きな興味を抱きつづけた。しかも彼らのなかで純粋な学者といえるのはモースひとりであり、後はみな官僚や政治家や司祭を務めるかたわらで、学術への関心を抱きつづけたディレッタントだったのである。
いずれにせよ、ここから理解できるのは「反ナポレオン」であり、神聖ローマ帝国=ドイツ的なものへの共感にほかならない。そしてこの感情は、とくにハプスブルク帝国の本拠地であるオーストリアにおいて、当局のみならず一般市民にとっても等しく共有可能なものであった。くわえて音楽は、人びとがいっせいに耳を傾けたり声を合わせたりできる点で、彼らが陥った危機的状況にたいする想いをひとつにまとめられる最良のメディアたりえた。
歴史を顧みれば、けっきょくのところハイドンの尽力も虚しく、神聖ローマ帝国は終焉を迎え、ハプスブルク帝国は苦肉の策としてオーストリア帝国を名乗るようになった。この過程で、神聖ローマ帝国皇帝フランツ二世はオーストリア皇帝フランツ一世となり、ナポレオンのウィーン進軍を二度にわたって許すという苦境に陥った。それでもハイドンが残した『皇帝賛歌』は、新生なったオーストリア帝国にそのまま引き継がれてゆく。そしてハイドンはこの国において、愛国的作曲家として絶大な名声を得ていったのだった。
この弦楽四重奏に大きな発展とレパートリーをもたらしたのが、ハイドンだった。しかもそのなかには、ディレッタントによる演奏を念頭に置いたものが少なくない。ちょうど当時、これも啓蒙思想の発展とリンクするかたちで出版業が盛んとなり、その一角を担っていたのが楽譜の出版だった。もちろん買い手は、市民階級を中心としたディレッタントたち。現在のように音楽再生装置もない時代、楽譜こそは楽曲にまつわる唯一の複製品であり、彼らはそれを目にするだけでなく実際に奏でることによって喜びを得ていたのだった。
モーツァルトが幼いころからヨーロッパ中を旅行し、先々で吸収した音楽をみずからの作品に結実させたのは有名な話だ。ハプスブルク帝国には古来さまざまな名音楽家が存在するが、ここまでボーダーレスな活動をおこない、それを作品に如実に反映させた例は他にない。片やハイドンはといえば当時の政治地図からするとハンガリーと密接な関係にあり、ハンガリーは時としてハプスブルク帝国の支配に抵抗する、為政者にとってみればけしからぬ地域となりつつあった。そのような地域に生まれたハイドンが、たとえいくら『皇帝賛歌』によって愛国的存在となろうとも、そこに一抹の傷がついてしまうのはたしかなのである……。
もちろんシュヴァンターラー自身としてはモーツァルトを、ドイツ語圏共通の英雄という広い世界観のなかで捉えていた。モーツァルト自身ドイツ語圏を足繁く訪れ、またドイツ語圏におけるモーツァルト受容には地域を限定しない幅広さがあった。人びとの意識としては、モーツァルトは広い意味でのドイツ全体の宝であって、オーストリアのなかにのみ閉じこめられてよしとされるような存在ではなかったのである(ここにもモーツァルトに与えられた普遍/不変のイメージを見て取れる)。 実際、モーツァルト祭にあたってはドイツ語圏各地からの客人がザルツブルクに集い、この英雄を讃えたのである。そもそもまだ統一国家としてのドイツなど存在せず、ドイツとはあくまで地域的文化的概念にとどまっていた時代の話だった。
あるいは、メーリケが書いた小説『旅の日のモーツァルト』(原題は『モーツァルトのプラハへの旅』) もそうだ。内容的には、ロマン派的な怪奇幻想よりもビーダーマイアー的な慎み深さが特徴だが、それでもやはり『ドン・ジョヴァンニ』に関係したストーリー展開になっている点が、いかにもこの時代のモーツァルト嗜好を反映している。
たとえばモーツァルト未亡人のコンスタンツェと結婚し、モーツァルト伝を著したニッセンの場合。彼はこの伝記に、モーツァルトに関する一次資料や、同時代人の証言を可能なかぎり盛りこみ、モーツァルトの人物像を正確に記述しようとした。ところがウィーン時代のモーツァルトに関してはコンスタンツェの証言をほぼそのまま取り入れ、彼女とともにスカトロジーをはじめ私生活関係のマズい手紙を破棄してしまったのである。
背景には、なによりもオーストリアならではの音楽事情が大きく働いていたことが考えられる。ヨーロッパに冠たるハプスブルク帝国の中心地として、オーストリアでは伝統的にカトリックの力が強かった。そのため聖なる宗教曲の下に世俗の歌劇や歌曲が位置し、さらにそれらは器楽曲(教会音楽の一部をなしていたオルガン・ソナタは除く) に優先するという考えかたそのものが根強く残っていたのである。
実際、大教会のミサではオーケストラ付きの宗教曲がしばしば演奏され、またその合間にはオルガン・ソナタもよく取り上げられた。そして一般の人びとにとっては演奏会や家庭音楽といった場を除き、古今の作曲家の作品に接せられる場所といえば、他ならぬ教会だったのである。ケッヘル自身、ミヒャエル・ハイドンの宗教曲や、宗教曲が多くを占める作品目録を作ったのも、教会音楽の重要性を深く認識していたからにほかならない。
ところでヤーンにとって、モーツァルトが音楽の頂点、あるいは超越的存在たりえた理由はどこにあったのか。それはモーツァルトが、「情熱が湧き出す過程を芸術作品のなかに直接反映させるのではなく、あらゆる醜さや濁りを完全に克服した後、純粋で完全な美を喚起した」からである。実際、ヤーンは考古学や文献学を通じて古代世界、あるいは古典的な美に親しみ、それを賞賛してやまない人物だった。またそれゆえに音楽的な趣味においても、アンチ新ドイツ楽派の立場をとったのである。
古典美を徹底して主張しようという考えかたには、ひとつ音楽の世界にとどまらずこの時代に見られた進歩思想への対抗姿勢を見て取れる。一八四八年の革命以降、かつてのビーダーマイアーに代表される中産階級の文化は衰退、いや崩壊したともいえる状態にあった。産業革命の波が本格的にヨーロッパにも到来し、同じ市民階級ではあっても、大規模な工場経営や商社経営によって巨額の富を得る大ブルジョアジーが、社会や文化を牛耳りはじめていた。またこれと同時進行するかたちで、パリやウィーンにおいては中世以来の古い街並みを近代都市に生まれ変わらせる計画が実現しはじめた。
一八六二年にモーツァルト作品目録を刊行し、翌六三年にウィーンへ移り住んだケッヘル。当時、彼を取り巻くこの街の状況はどうだったのだろうか。 先述したように、当時のウィーンは都市改造が進んでいる最中だった。中世以来の市壁があった場所には 環状道路 が造られ、その両側には帝国議会議事堂や市庁舎、宮廷劇場や大学といった公の政治機関、文化施設がお目見えした。余った土地は下々の者に払い下げられ、宮殿と見まごうばかりの絢爛豪華なマンションやホテルが建てられた。
こうした状況のなか、ケッヘルが吐露した愛国心も理解できよう。彼は、ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンを育んだオーストリアのルーツを、十五世紀末から十八世紀なかばにかけて求めようとする。一般的な音楽史のなかでは、なかなか光が当てられないこの時代にこそ、音楽の国オーストリアが生まれるための芽吹きがあるのだ、という考えかただ。
このオープニングの翌年、ケッヘルはウィーン楽友協会の名誉会員となった(彼と同時に名誉会員となったのは、いまやすっかり新ドイツ楽派の大御所となった感のあるワーグナーである)。その理由だが、ウィーンの宮廷楽団で活躍したバロック時代の音楽家、ヨハン・ヨーゼフ・フックスに関する研究を彼がおこなったから、ということだったのである。
ケッヘルがモーツァルトの作品目録で現在にいたるまで名を残していることを考えるならば、奇妙な状況とはいえないか。なるほどフックスはウィーン、ひいてはハプスブルク帝国の音楽史を語る際に欠かせない人物とされながら、生涯や業績については不明確な部分が多く、そこにケッヘルが光を当てたことが評価された。だがモーツァルト作品目録の作成もフックスの研究に勝るとも劣らない労作であり、むしろ音楽界全体に与える影響にかぎって言えばフックスよりも数段大きな力をもっているのは確かである。
式典そのものは、一九〇六年十月に執り行われた。残された写真を見ると、大勢の人びとが広場を埋め尽くし、大盛況だったようである。ケッヘルが学んだクレムスのギムナジウムの校長や、地区代表の挨拶を挟みつつ、モーツァルト作品のいくつかが演奏された。最後はウィーン楽友協会名誉総裁を務めていたオイゲン大公からの祝電が披露され、当時の公式行事の常としてハプスブルク帝国の国歌『皇帝賛歌』が歌われた……。
そうした傾向が明白になったのが、一九三七年にブライトコプフから発行された『モーツァルト全作品年代別主題別目録』の第三版だ。編者は音楽学者のアルフレート・アインシュタイン(一八八〇~一九五二)。かの物理学者アルベルト・アインシュタインの親戚にあたる人物である。彼はケッヘルの作成した同目録の第一版を不完全なものとして批判し、みずからの調査を基に作品番号の大幅な改訂をおこなった。
ヴァルダーゼーによる、ささやかなモデルチェンジに比べると、アインシュタインのそれは徹底して批判的な観点に立っていた。彼は序文において、まずはケッヘルが信頼していたヤーンに矛先を向け、「モーツァルトのことを『澄み切った存在』として絶対視し、その深遠や時代的制約を見過ごしてしまった」と指摘。しかもその理由が、「ヤーンはたいへんな知識人であり文献学者であったものの(……)音楽学者ではなかった」、つまりディレッタントであったからこうした誤りをおかした、というのである。
モーツァルト、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フィル。いずれも「音楽の国オーストリア」のイメージを象徴する存在である。しかも観光業界の戦略もあって、ふだんクラシック音楽になじみのない人びとでさえ、オーストリアへ行ったからにはこれらのものに接してみたい、と考える流れができあがっていった。もちろん本格的なオペラやコンサートとなると肩が凝る心配があるものの、ポピュラーなイメージのモーツァルトであればそのようなこともない。そうした人びと向けに「ちょっと高級」な雰囲気を醸し出すべく、プログラムやディスクの解説書にはケッヘル番号が振られてゆく。
Posted by ブクログ
Mozartに関して以上に、ケッヘルの生きた時代のハプスブルグ帝国などヨーロッパの歴史について書かれてあり非常に意味深い内容であった。生きていくことだけに必死な人間・お金と時間に恵まれ学問研究に人生を送れる人間、いつの時代・国にも共に存在するが平和と豊かさが文化を築いて行く。学校schoolの語源となったギリシャ語のscholeは閑暇を意味している。天文・測量など実用的学問は貧しさを豊かさへ導くが、実用的目的を離れ豊かさを確実なものにする哲学・芸術などはやはり生活の余裕がなければうまれないであろう。現代は「気晴らし」にうつつを抜かし忙しい日程とお金を費やすことに追われ、余計なことと片付けられる実は大切なことをじっくりと考えることを忘れているのではないだろうか。